イリガライとオート・エロティシズム:やおい論をめぐって

小谷真理、「腐女子同士の絆―C文学とやおい的な欲望」、『ユリイカ 総特集BLスタディーズ』(2007) Vol.39-16、26-35.
ユリイカ2007年12月臨時増刊号 総特集=BL(ボーイズラブ)スタディーズ

BLスタディーズってちょっとタイトルに偽りありではと思うほど、「論文」系の分析は圧倒的に少ない。『ユリイカ』ってこんな感じだったっけ?いやまあそれはともかく、小谷氏の上記論考。書き流してるなあ、と言う気もする。逆に言えば、書き流しでもこれだけのものが書けなければいけないということなのだろうけれども<わたくしにはとてもとても無理。

こちらがBLを全然知らないので、小谷氏のこの論考が「やおい分析」としてどの程度正しく、どの程度展開の可能性があるものなのかわからないのだけれども、それとは別方面から気になるのが、タイトルのC文学、あるいはC感覚をめぐる箇所。ただ、小谷氏の著作をちっともフォローしておらず(恥)、このC感覚というのが小谷氏がかねてより提示なさっている概念なのかどうかちょっとわからない。もしかするとこの点についてより詳細に扱った論考があるのかもしれず、その場合以下は全く無意味だと思いますと言い訳の上で、とりあえずこの論文に限っての、メモ。ちなみに、BLとは直接にはほとんど関係のない点です。ごめんなさい。

さて。
小谷氏はイリガライの「ひとつではない女の性」を参照して、次のように述べる。

フランスのフェミニスト理論家のリュース・イリガライが「ひとつではない女の性」という論考を発表したことがあった。女性はセックスにおいて自己完結した存在で、それをオート・エロティシズムといい、むしろ一点に集中する男性とはセクシュアリティのありようが異なっているのではないかと主張し、そうした一点中心主義を内包する男性的論理体系(ファロサントリズム)を批判したのだ。男性的な権力体系を解体するために、女性は女性の身体をもっと見つめて多形倒錯的なところから考えましょう、というのがその論旨である。
イリガライ自身はストレートな表現はしていないが、そこに持ち出されているオート・エロティシズムがクリトリス(陰核)という象徴への関心を示していることはみのがせない。(30)


そもそも、イリガライの「ひとつではない女の性」において、クリトリスというのはそれほど象徴的で重要な概念だったっけ?と気になって調べてみる。わたくしフランス語が読めないので、そんなのそもそも議論にならないと言われたらもう返す言葉もなく、そのあたり一人卑屈になりつつ、とりあえず手持ちの英訳版で強引に確認。*1

該当すると思われるのは、このあたりだろうか。

So woman does not have a sex organ? She has at least two of them, but they are not identifiable as ones. Indeed, she has many more. Her sexuality, always at least double, goes even further: it is plural. [. . .] Indeed, woman's pleasure does not have to choose between clitoral activity and vaginal passivity, for example. The pleasure of the vaginal caress does not have to be substituted for that of the clitoral caress. They each contribute, irreplaceably, to woman's pleasure. [. . .]
But woman has sex organs more or less everywhere. She finds pleasure almost anywhere. (28)


確かにこの部分でクリトリスへの言及はあるのだが、しかし、「オート・エロティシズムがクリトリスという象徴への関心を示している」というのは、ちょっと無理がある。

そもそもイリガライが(少なくともこの箇所で)言っているのは、女性の性はクリトリスにもヴァギナにも特権化されないという点であって、クリトリスの能動性かヴァギナの受動性かというようなものではなく、女性の性は「あらゆるところにある」という事のはず。

だからこそイリガライにとって、女性の性は、ペニスに象徴されるような「the one of Form, of the individual, of the (male) sexual organ, of the proper name, of the proper meaning (26)」を持たず、結果として「どのような定義にも抗う(26)」、つまり一つの定義によって縁取ることができないもの、名前を持たないものであり、従ってあらゆるところに存在しているものである(more or less everywhere)。
イリガライにおける、「the one of Formの欠如」「あらゆるところにあるということ」は、「どこにもないということ」「どこかにあるということ」という概念へと不思議な接続をしていくところがあって、個人的にはわたくしそこに興味を持ってきたのだけれども、まあそれはそれとして。

とにかくここでイリガライが言っているのは、女性の性というのは、何か一つの形とか定義とかによって明確に縁取られて集約していくようなものではなく、あっちにもこっちにもあって、というよりもそもそもあっちが触ってこっちが触られるとか、こっちが刺激してあっちが刺激されるとか、そんなまだるっこしいものではなく、触ってるものは触られているものであり、しかもそんなのがあっちにもこっちにもまとまりも何もなく広がっているのであって、とにかくエロエロだ、と<何か違うような気がしてきました。*2

再度とにかく。

そのような性を持つ女性のオート・エロティシズムを、イリガライはこう説明する。

Thus, for example, woman's autoeroticism is very different from man's. In order to touch himself, man needs an instrument: his hand, a woman's body, language . . . And this self-caressing requires at least a minimum of activity. As for woman, she touches herself in and of herself without any need for mediation, and before there is any way to distinguish activity from passivity. [. . . ] Thus, within herself, she is already two -- but not divisible into one(s) -- that caress each other. (24)


言うまでもなくこれがイリガライの有名な「触れ合う唇」なわけだけれども、要するに、オトコのオート・エロティシズムは、手とか女の身体とか言語とか(<これ重要)、何か媒介がないといけないじゃない!オンナのオート・エロティシズムはそれとは違うのよ!オンナは自分ひとりで、自分の中で、媒介なしにエロティシズムを感じるの!それを誰も止めることはできないわ!エロエロなのよ!<また違う気がしてきた。

いずれにせよ、だとするとここでイリガライのオート・エロティシズムを参照しつつクリトリスだけをいわばとりたてる形でC(クリトリス)感覚として名づけ/定義するのは、やはり違和感が拭えない。これはむしろイリガライ的に言えば「1の論理」であり、小谷氏のこの文脈で言えばPのロジックではないのだろうか。

「ロマンスにとっての不穏分子が極力排除され、あくまで読者の快楽にそってのみ構成されるやおいの物語学。それは、C的物語学の存在を窺わせるものなのである(34)」と小谷氏が述べる時、そもそも快楽に沿った物語という媒介を必要とするという点において、この快楽は少なくともイリガライ的な媒介のないオート・エロティシズムとは別のものであるように思えるし、目的にあわない要素をそぎ落として自らの輪郭を作り上げていくそのありようにおいて、それはイリガライ的な意味での「一つではない女性の性」とはかなり異なっているように感じられる。

もちろん、イリガライは「特権化しない」そぶりをここでは見せているものの、実は結構な膣の人でもあるし、少なくともここでは「触れ合う唇」への繰り返しの言及があってそれが女性の性をある種象徴しているのは間違いないわけで、そのこと自体への批判はあり得る。膣偏重みたいなものに対して、小谷氏の言うような「女性にのみ快楽を与える性的存在」の象徴としてのクリトリスというのを持ち出していた人もいたはずなのだけれども、すこーんと抜けていて思い出せません。どなたかご存知だったら教えてください。

だから小谷氏がイリガライに忠実に議論をたてる必要は微塵もないのだが、単純にそれならそれで、イリガライを持ち出さないほうが親切なのではないか。小谷氏の論を読む限り、ここで語られているのは、むしろファリックなエロティシズムやそれを支える物語の背後に、ペニスではなくてクリトリスがあるかもしれないのよん、という事のように読める。それがいけないということではなくて、でもそれは、ファリックなシステムを突き抜けて「女性のセクシュアリティ」を追求しようとしたイリガライの議論(わたくし個人的にはこれはキライ)とは、かなりずれていくはず。

どうしてここでイリガライの、しかもこの論文?しかも批判的に展開するというわけでもなく?というのが、少なくともわたくしのような生半可なイリガライ読みには、非常にわかりにくい。

にもかかわらず小谷氏がイリガライを援用してくる理由として唯一推測できるのは、小谷氏のここでの「やおい」論考の焦点がとにかく「オート・エロティシズム」というキーワードに絞られているのではないか、という事である。イリガライの示唆するような「オート・エロティシズム」が、個人的な快楽にそってのみ構成される、抑圧のない自己完結した物語世界において体現されている、それがやおいである、というのが小谷氏の論旨であるように思われるのだ。

しかし、このような形でのオート・エロティシズムの称揚は、それ自体非常に危ういものであり、実はその点について、小谷氏のこの論考はイリガライの議論と同じ問題を抱えているようにも思える。

上でも書いたように、ファリックな象徴界においては女性のセクシュアリティは十全に表象されることがないというイリガライの議論は、象徴界を突き抜けたところに真の女性性を希求していく方向に向かう。この企てをどう評価するかというのは現在でもまだかなり議論がわかれているところだけれども、わたくしは現時点ではこの方向の議論には批判的な立場をとっている(バトラーかぶれなので。笑)。

よく見られる批判としては、以下のとおり。1.「十全な」「真の」女性性というものが成立しうると想定することの危険、2.象徴界を突き抜けたところに女性性を想定することで、象徴界内部における女性性(あるいは女性のセクシュアリティ)の存在のあり方について、あるいはその可能な形態について、議論がとまってしまうのではないかという懸念、3.それより何より、象徴界内部では「表象できませんね」と言って終わってしまうんじゃないの、アンタ結局クリステヴァと同じじゃないよ!という疑念、などなど。もうお馴染みのものばかりなので、いまさら繰り返すのもアレではあるのだけれど。

そして、個人的な快楽への奉仕、抑圧のない世界への嗜好、などをキーワードに、自己完結した物語世界としてC文学を称揚し、その枠組みで「やおい」を評価する小谷氏の論調は、むしろこの意味においてイリガライ風味なのではないだろうか。

もちろん、たとえばやおいなりC文学なりが、現実の社会なり既存の象徴界秩序なりを成立させているさまざまの力学を組み替えたり利用したりしながら、いわばオルタナティブな欲望の形、あるいはその表現の様式を模索し、作り出している、という分析は、可能だろうと思う。*3

けれども、C文学なりやおいなりのもたらす快楽や「女性の欲望(小谷、35)」の個人性や自己完結性を強調し、それを無媒介のオート・エロティシズムとつなげて語ることは、そのような快楽や欲望を既存の象徴体系から切り離してしまう危険性をはらんでいる。そのときそれらの快楽や欲望は、既存の象徴体系の中ではそもそも不可能なものであり、そして同時に既存の象徴体系にいわば汚染されていないものであるような、ユートピア的な様相を帯びかねない。

そしてそのことは、直接的には2つの問題を引き起こす。

まず第一に、そもそもそれはやおいの考察として的確なのだろうか、という点。やおいというジャンルを支える快楽や欲望は、それがたとえイリガライ的には断片的なものであったり、「真の女性的なセクシュアリティ」とは異なるものであったとしても、まさしくやおいという媒介を通じて可能になっているのであり、だとすればそれを無媒介で自己完結的なオート・エロティシズムのユートピアとして語ることは、現実に既存の象徴体系の内部で作り出されてきた快楽や欲望のあり方を、あまりに単純化することにはならないのか。あるいは、それらの快楽や欲望の形態を現実の社会的諸関係の中で考察するという方向性を、閉ざしてしまうことにならないか。さらに言えば、既存の象徴界秩序の中で、いわばそこから逃げられない状態で、いかにあらたな欲望や快楽が可能になってきた/なっていくのか、という問題を、全く無視してしまうことにならないのか。*4

第二に、そもそもやおいを支える快楽や欲望を「無媒介な快楽」と考えることが困難であり、やおいというジャンルが既存の象徴体系の内部で成立している以上、このような快楽と、そしてジャンルそのものとを、既存の象徴体系に汚染されていない自己完結的なものとして語ることが、誰にとって何をもたらすのか、という点。それは、「不穏分子が極力排除され、あくまで読者の快楽にそってのみ構成されるやおいの物語学(34)」、「とにかく女性の欲望にのみ忠実」であり「女性が不快に思うところは排除される(35)」、という小谷氏のやおい分析を見るとき、明らかである。既存の象徴体系とも現実の社会関係とも切り離されて自己完結しているの、関係ないの、個人的なものなの、だってオート・エロティシズムで自分の中だけの快楽と欲望の問題なの、というこれらの主張は、「(たとえば「現実のゲイ男性」を無視していると指摘されるように)不快なものは排除してるけれど、それって個人的な問題だからいいの」という弁解をきれいに裏支えする役割を果たしうる。この点において、小谷氏のこの論考は、『ユリイカ』の同じ号に掲載されている石田仁氏の論考と、併置して読まれるべきだろう。*5

というか、そもそも欲望というのは個人的で自己完結したものではないのよ、というのは、一応前提なはずで、にもかかわらずあえて小谷氏がやおい論として自己完結した個人的なものとしてオート・エロティシズムだのC感覚だのと主張するのは、やはりちょっと看過できないように思う。

とはいえ、これだけだとさすがにイリガライに申し訳ないので(だってちょっと好きなんですもの)、イリガライ弁護をしておくと、イリガライのオート・エロティシズムというのは、とりあえず「自分の欲望に忠実で、自己完結している」というような簡単なところに回収してしまうものではない。イリガライにとって女性は確かにエロエロなんだけれども、でもそれが引き裂かれ、分断されているという現実分析こそが、ものすごい切実さを持っている。個人的な快楽とか欲望に忠実かどうか以前に、女性のセクシュアリティ、女性の快楽、女性の欲望に、女性自身手が届かないという事を問題にするわけなので、「快楽に奉仕するためにいらないもんは排除」と言えるようなある種の傲慢さとは、イリガライの議論はかなり違う。わたくしは「女性の快楽・女性の欲望」を「手が届かない」ところに設定すること自体がそもそも好きではないのだけれども、少なくとも彼女の問題設定を支えている視点には、共感できる。

まさにそれと関連して、イリガライの同論文から少し後の箇所を引用。

However, in order for woman to arrive at the point where she can enjoy her pleasure as a woman, a long detour by the analysis of the various systems of oppression which affect her is certainly necessary. By claiming to resort to pleasure alone as the solution to her problem, she runs the risk of missing the reconsideration of a social practice upon which her pleasure depends. (105)

要するに、女性が直面する諸問題への解決として「快楽」のみに頼っていくことは、女性の快楽それ自体を可能にする社会的な実践というものを考え直し損ねてしまう。女性としての快楽が楽しめるようになるためには、まずは「女性」に影響を与えている抑圧のシステムに対処しなくちゃダメなのよ、と。

イリガライ、こういうところは意外に手強くて好きだ。土俵際でがっちり残っている。


[追記]

書き終わってつくづく思うのですけれども、ここまで読んでくれた人はおそらく一人もいないと思う。で、にもかかわらず、文中にあるいくつかの単語のせいで、おそらくこんなものぜんぜん読みたくない人がサーチで飛んでくる可能性が、増えると思う。なにやっているのでしょうか、わたくし。

*1:Irigaray, Luce, 'This Sex Which Is Not One', _This Sex Which Is Not One_, translated by Catherine Porter, Ithaca: Cornell U.P., 1985, 23-33. Originally published as _Ce Sexe qui n'en est pas un _, Editions de Minuit, 1977.

*2:ただ、イリガライはこのような女性のセクシュアリティは現在のファリックなシステムにおいては表象されることがないし、断片化された形でしか経験されることもない、と述べている。同時にイリガライはこのセクシュアリティを、ファリックな原理のもとに性感帯が統合される以前の幼児期の多形倒錯とは区別されるべきものとして述べており(31)、その点についても、「女性は女性の身体をもっと見つめて多形倒錯的なところから考えましょう」という小谷氏のイリガライ解釈は、ちょっとわたくしとは違う。つまり、小谷氏は「多形倒錯的」と書いているので、幼児期の多形倒錯と同じではないにせよ、イリガライが主張する女性のセクシュアリティは多形倒錯という用語で説明できる、というのが小谷氏の理解なのだろうと思われるけれど、わたくしはそもそも多形polymorphousという用語が、イリガライの主張するような、決して「1」にならず、境界を持たない女性のセクシュアリティという概念と、どのように重なり、どのようにずれるのか、ちょっと見極められていないこともあって、イリガライの主張を額面どおり受け入れて、「多形倒錯」という用語はとりあえず使わないでおきたいと考えている。

*3:繰り返しになるが、わたくしはやおいをぜんぜん知らないので、それが分析として的を射ているのかどうかの判断はできないし、そんな事態は全く起きていないのかもしれないのだけれども、分析の方向性としてはありだろうと考える。

*4:というより、わたくしはこの部分こそがイリガライのもっとも刺激的な部分だと考えているので、イリガライを援用するならそっちまで議論を運ぼうよ、と思ったりするわけなのだけれども。

*5:石田仁、「『ほっといてください』という表明をめぐって―やおい/BLの自律性と表象の横奪」、pp.114-123。わたくしは石田氏の論考に完全に賛成するわけではない。たとえばフィクションとかファンタジーとかにかかわる議論は、紙幅の問題もあるだろうけれども、かなり投げやりだなあと思うし、「表象の横奪」をめぐる議論も、ジャンルが微妙に重なりつつ違っているという理由が大きいのだろうけれども、わたくしにはちょっと違和感があるし、途中でいきなり「科学」といわれてかなり戸惑ったりもする。個人的には石田氏の論考としてはこの前の『ユリイカ(2007,39:7)』掲載の「ゲイに共感する女性たち」の方が面白い。ただ、石田氏はわたくしがここで小谷氏の論考において指摘したような議論の立て方への切実な応答必要性においてこの論考を書いているのではないかとも思える。立論に少し無理が出ているところがあるように思えるのはそのためかもしれないけれども、たとえ多少の無理があったとしても、そのようなある種の必然性において、石田氏の今号での論考の意義は大きいと考える。