恐れはどこにある2006version

またまた更新が滞って、何だかもうブログをやっているとは言いがたい状況になっているのだけれど、かといってきっぱりやめようという決断もできないあたり、わたくしの人間性を良く反映しているなと思う毎日です。「更新しなくちゃなあ」と思うと胸の奥が沈む気がするので、ついに自分のブログには一切アクセスしなくなってしまうあたりの「とにかく逃げる」姿勢も、わたくしの人間性を良く反映しているなと思う次第ですが。
さて、そんなことは本当にどうでも良くて。
先日ICUであったイトー・ターリのパフォーマンス「恐れはどこにある2006version」を見てきた。仕事の加減で前半のドキュメンタリー上映およびトークセッションは泣く思いで断念。仕方ないから後半だけということで、職場から台風の中をICUまで、これは本当に半泣きになりつつ、出かける。
イトー・ターリのパフォーマンスは二、三年前になるだろうか、恵比寿でのboderline cases展での「虹色の人々」を見て以来。この公演がとても印象深かったのでまた是非、と思いつつ、そして公演情報もわりと頻繁にキャッチしつつ、何故か公演日が仕事と重なったり抜けられない用事があったり(あるいはPの風邪が肺炎になっていたり)して、今まで結局見逃してきていたのだけれども。
観にいっておくべきだったなあと強く後悔するような、またしても非常に力強く、非常に不思議な、パフォーマンスだった。
今回のものは「恐れはどこにある2006version」ということで、以前やっていたパフォーマンスの改訂版とでも言えるようなもの、であったらしい。わたくしは以前のヴァージョンを見ていないので、2006versionの個性であるとか、あるいは以前のものとの連続性であるとか、そういう(おそらく非常に重要な)点については、何も言うことができない。それでも、スタンド・アローンのパフォーマンスとして見ても、それはそれでとても面白いものだったと思う。
パフォーマンスは、真っ暗な中で四角い木枠の内側にしゃがみこんだターリが、小さいマイクに息を吹き込んだり、キスをしたりして、観客にはその音だけが聞こえてくる、そういう状態で始められる。じきに薄い明かりが木枠をかすかに照らしはじめ、目も慣れてきた観客は、そこにターリがいること、そして自分たちの耳に届いている音はそこで作り出されているらしいことに気がつくのだが、その時には、木枠とは全く離れた場所にあるスクリーンに、木枠の内側にいるターリの映像、マイクを弄び、口に含み、髪をくぐらせ、首筋をなでるターリの、苦痛に耐えているとも一人きりの官能にひたっているともどちらとも取れるような姿、いずれにしても、非常に「プライベートな」印象を与える姿が、映し出されるようになる。薄暗い中でその映像がしばらく流された後、別の映像、尾辻かな子大阪府議が自らのカミングアウトについて語る映像が、最初の映像と併置して示され、それとほぼ時を同じくして、ターリは木枠に虹色の紐を巻きつけ始める。カミングアウトについて明るい口調で語る尾辻府議の声が響く中で、ターリは自分の身体を床に押し付けるようにして木枠の内側にも虹色の紐を張り巡らせ、同時に身体の下に敷いている「何か」に空気を入れて膨らませはじめる。ついには、張り巡らされた紐とふくらみはじめた「何か」とによって木枠の内側に十分なスペースがなくなり、ターリはまず自分が木枠から這い出し、次いでその「何か」を木枠から引きずりだすことになり、そしてパフォーマンススペースに照明がついて、映像が消える。
ここに来て観客は、ターリが引きずり出してきた、わずかに空気が入った膨らみかけのその「何か」が、どうやらラテックス製の巨大なおっぱいだということに、気がつく。明るいベタの照明の落ちる空間で、ターリはその膨らみかけの巨大なおっぱいに空気を送り込み、それをひきずり、それと戯れ、その形を整えたかと思うとそれを観客に向けて投げ飛ばし、飛びついては跳ね返され、息を切らさんばかりにしてそのおっぱいに全身で働きかけ、その間にも、おっぱいは少しずつ空気を吸い込み、はずだり揺れたり引っ張られたりしながら、「おっぱい」として成長していく。なにぶん巨大な、完成すれば人が3、4人手をつないでもその周りを囲めるか囲めないかというくらいのおっぱいなので、ターリとおっぱいと、そしてときには観客を巻き込んだ、この不思議な働きかけあいは、おっぱいが十分空気を吸い込んで大きくなりきるまで、延々と続けられることになる。
勿論あるレベルにおいて、このパフォーマンスの前半を「クローゼットな」状態として、そして後半をレズビアニズムの、あるいはそうと名指さないとしてもターリという女性のセクシュアリティの、そしてもしかしたら「おっぱい」に代表される「女性性」の、公然の(「カムアウトした」)賛歌として、理解することは、可能だろう。突然明るくなったパフォーマンススペースで成長を続ける巨大なおっぱいには、それだけで何か独特の解放感があるのは確かだし、その巨大なおっぱいが、あたかもそれ自体一つの生命を持つものであるかのように悠然と時間をかけて膨らみ、あるいはターリや観客からの働きかけに対して勝手気ままな反応を返す(空気を吸い込んだ、余りにも巨大なラテックス製のおっぱいは、なかなかこちらの思う通りには動いてくれない)、その様子が不思議にエンパワリングであることも、あるいはまた、そのような巨大で自分勝手で堂々としたおっぱいに対して、だからこそこちらも遠慮せずに触れたりぶつかったりすることが、これまた独特の高揚感をもたらすことも、間違いない。
けれども、そのようなダイレクトな解放感や高揚感を、「あれと同じおっぱいを持つ女であるわたし」「あれと同じおっぱいを持つ女を愛するわたし」によるダイレクトな共感に、あるいは「あのおっぱい」に対する「わたし」の欲望の全面的な達成の称揚*1に、ただ回収させることを拒むものが、このパフォーマンスには存在している。
非常に単純なレベルの話として、このおっぱいはとにかく巨大だ。大きいおっぱい、などという生易しいレベルをはるかに飛び越えたその巨大さは、おっぱいの「おっぱい性」をひるむことなく主張するのと同時に、「おっぱい性」を明らかに無視してしまっている。しかもこのおっぱいは、独立している。誰の身体についているわけでもなく、誰に操られるわけでも、誰の手中に納まるわけでもない(手中どころか腕の中にだっておさまらない)。ターリは息を荒げながら全力でこのおっぱいを動かそうとするけれど、おっぱいは押されれば勝手に戻り、引っ張られれば抵抗し、投げ出されれば跳ね返り、どうにも好き放題なのだ。そもそもおっぱいに空気を吹き込むのはターリではあるのだけれど、おっぱいは結局のところ自分のペースでゆっくりと膨らんでいくのであり、ターリも、そして観客も、おっぱいのペースにあわせておっぱいの準備ができるのをひたすらに待っているのであって、パフォーマンスの場を支配しているのは、明らかに、ターリからも観客からも独立したこのおっぱいなのだ。
このようなものとしてのおっぱいを、「私の持つおっぱい」「私の愛する彼女の持つおっぱい」に重ね合わせるのは、それほど容易なことではない。このおっぱいは誰かのおっぱいではないし、誰かを示す記号ですらなく、異様なまでの巨大さと自分勝手な存在感を持つそれが何かを示すとすれば、まさにこの「巨大なおっぱい」それ自身でしかありえない。確かにターリはそのおっぱいを欲望しているようではあるのだけれども、それではターリが欲望している、おっぱいでありおっぱいでない「それ」が、つまるところ一体何なのか、この巨大な物体の何がターリの欲望を引き寄せるのか、それを観客が本当に言い当てることは、できない。おっぱいは、ターリからも観客からも、そしてそのどちらの欲望からも独立した、いわば他者としてそこに存在する。おっぱいへの「女性としての」共感と同一化を阻む、あるいは「おっぱい」を想像的な欲望の対象として*2還元することを拒む、ある種の距離感が、そこには間違いなく生まれているのだ。
ここで興味深いのは、このような共感や同一化を阻む「距離感」を生むもの、つまりおっぱいの巨大さや独立性やある種の従順さの欠如というものは、まさしく、後半のパフォーマンスの解放感や高揚感をもたらす要素でもある、という点だろう。わたくしたちの安易な同一化や共感を、あるいはわたくしたちの欲望の想像的な対象へのおさまりの良い還元を、さらにはわたくしたちによるダイレクトな理解を拒むからこそ、逆説的に、このおっぱいはわたくしたちを魅了し続ける。このことは、前半のいわば「クローゼット」のシーンとの対比によって、一層明らかだろう。
このシーンにおいてもある種の距離感は間違いなく存在しており、それは何よりもまず、闇の中にうずくまったターリと、そこから離れたスクリーンに映し出される彼女の姿およびマイクを通して(つまりまたしてもターリ本人の身体が存在する場所とは違うところから)聞こえてくる彼女のつくりだす音との距離として、表現される。スクリーンに映しだされる薄暗いターリの映像と、そしてマイクで拡大された物音(ターリの呼吸音、マイクに口付けし、マイクを齧る音、そしてマイクが肌をゆっくりとこする音)とによって、観客はほとんど覗き見的な近さから、ターリのプライベートな空間に接している。しかし、まさにそこに、落とし穴があるのだ。観客が見て、聞いているターリは、ターリの空間には存在していない。ターリの身体はすぐそこに、目の前にあるのだけれども、ターリをとりまく闇と、スクリーンおよびマイク音量の圧倒的な大きさとのために、観客の注意はそちらへとひきつけられ、闇の中にいるターリからは容易に逸らされてしまう。*3
木枠の内部に備え付けられているらしいカメラに切り取られるターリのアップの映像は、インティメイトであると同時に息苦しい。観客は、ターリの身体から距離を置いたまま、ターリのインティメイトな空間を侵す招かれざる客として招かれているのであり、ターリの身体を無視してターリに不正に近接しているまさしくそれゆえに、カメラに切り取られた狭い領域を超えてターリの欲望に触れることはできず、それに巻き込まれることもない。そして、不正な近接のもたらすこの息苦しさは、もちろん、自らの欲望の抑圧された対象とともに木枠の中に押し込められ、欲望の対象を対象と認識することも許されないままに、欲望する姿を観客に距離をおいて眺められる(=欲望される)、ターリの息苦しさでもあるだろう。*4ここでは、観客のターリへの距離と不正な近接とは観客とターリとの断絶として、そして観客から距離を置いて存在するターリとターリの欲望の対象との強制された近接は同時に対象へと向かうターリの欲望の遮断(あるいはその禁止)として、機能している。距離と近接とのねじれて息苦しい関係が、距離の概念を不可能にする断絶を生み出すのだ。
そうであれば、後半の解放感・高揚感は、まさしく、そのように近接とのねじれた関係によって不可能になっていた距離が取り戻されることと、関係しているだろう。木枠を這い出すターリの行為がカムアウトとして理解されうるとすれば、そこでのカムアウトは、一つには、そのような距離の回復として、表現されているのだ。それは観客とターリとの間に明確な距離を置くことで観客による不正な近接を拒むものであり、そしてまた、ターリとターリの欲望の対象との文字通りの圧縮を拒絶することでターリの欲望を可能にするものだ。
断絶を拒絶し距離を回復するこのカムアウトは、しかしだからこそ逆説的に、ターリの欲望と観客とを近づけることになる。観客はもはや、ターリの身体と欲望とを黙殺して、スクリーンに映し出された欲望するターリを安全な距離から観察することができない。スクリーン上のターリを一方的に「見る=欲望する」立場にあった観客は、パフォーマンスの後半部においては、ターリと彼女の欲望の対象である(けれどもターリからは独立した)おっぱいと、文字通り同一のパフォーマンス空間の中に、同じ床の上に、身を置くことになる。観客は、ターリに働きかけられ、見つめられ、おっぱいにのしかかられ、おっぱいを押しのけ、ターリと共におっぱいの成長を待つ。今回、パフォーマンスの記録のためのビデオカメラがターリに挑発され、おっぱいを押し付けられたのは、その意味で象徴的な瞬間だっただろう。観客はもはやターリとその欲望への不正で一方的な近接をはかることはできない。ターリを見るものはターリに見られることを、おっぱいを見るものはおっぱいに立ち向かわれることを、予期しなくてはならないのだ。もちろんターリの欲望はおっぱいに向けられているのだが(そしておっぱいの欲望はどこに向けられているのか?わたくしたちはそれを知ることができない)、観客はその欲望に否応なく巻き込まれるのである。
そしておそらくそれはラストシーンにおいてこの上なく明確になる。
パフォーマンススペースの奥に巨大に膨らんだおっぱいが圧倒的な存在感を持って腰を据え(おっぱいが腰をすえるってどういうことよ、とふと思ったりするけれど)、ターリは離れた場所に、それと向き合って、立つ。そしてそのまま、ターリは小さく身体を振動させはじめる。じっとおっぱいに目を向けたまま、ターリの身体が小刻みに、しかし激しく震え始め、それと同時にターリの身につけたラテックスの衣装が互いに打ち付けられ、触れ合って、ぴたぴたぴたぴた、水に小さくさざなみが立つような音が会場に響き渡り、激しさを増し、そしてそれがクライマックスを迎えて、ターリの振動とラテックスの音とが、ひた、と止まって、パフォーマンスは終わる。このシーンにおいて観客はターリの欲望の対象が何物とも判別のつかないその巨大な「おっぱい」であることを確認するのだが、ターリの欲望の高まりは、ターリとおっぱいとの接近をもたらすことはない。ターリとおっぱいとが一体化し、溶け合い、あるいは絡み合うことで欲望の高まりとその成就が示されたのであれば、その時観客は再び「観客」としての安全な場に戻ることが可能になったかもしれない。けれどもそうする代わりに、ターリはおっぱいとの距離を保ち、おっぱいの他者性をそのままに放置し、そしてその遠くにいるおっぱいへと欲望をむけることで、パフォーマンススペースをターリの欲望で満たすのだ。観客をその中に置いたままで。
この時のターリは明らかにセクシーであった、とわたくしは思う。しかしそれは観客がターリを欲望するというのとは違うだろうし、おそらく観客がターリと共におっぱいを欲望するというのとさえ、違うかもしれない。むしろ、観客に向けられたのではないターリの欲望がターリに向けられたのではない観客の欲望を引き起こし、観客はターリの欲望に欲望し、あるいは自らの欲望がターリの欲望のどこかに巻き込まれ、自分がターリの欲望の中で、あるいはそれと触れ合って、欲望していることを、感じるのだ。わたくしたちはターリの欲望の対象が正確に何であるのかを知りようがなく、そしてターリの欲望の形態が正確にどのようなものであるのかすら知らず、ターリを欲望するのでもターリに同一化するのでもない。ターリも、ターリの欲望の対象も、そしてターリの欲望の形態も、わたくしたちにとっては異物のまま、他者のままだ。それにもかかわらず、わたくしたちは自分の欲望がターリの欲望に連なっていること、そこに巻き込まれてしまっていることに、気がつくのである。
そしてこれがターリの「カムアウト」の第二の、そしてよりラディカルな、意味であると言えるだろう。このパフォーマンスにおける「カムアウト」の行為は(それをカムアウトを呼ぶとして)、何よりもまず、カムアウトの場に立ち会う者の欲望のあり方を変える、あるいはその者の自分でも知らなかった欲望のあり方に気づかせるものなのだ。その意味で皮肉なことに、ここでの「カムアウト」は、パフォーマンスの中で流される尾辻かな子府議のカムアウトについての語りが示すものとは、根本的に異なっている。尾辻府議は、レズビアンとしてカムアウトしたことによって、かえって欲望の対象とみなされることがなくなってセクシュアル・ハラスメントが減ったかもしれないと、つまり言葉を変えれば、別の欲望の体系に属していると示すことによって異性愛の欲望の体系からは切断されたのだと、冗談まじりに語る。しかしターリのカムアウトのパフォーマンスが実行するのは、異なる二つの欲望の体系の間に存在することになっている断絶を拒絶することであり、異なる体系に属していたはずの欲望を自らの欲望に巻き込むことだ。*5わたくしたちが「カムアウト」のインパクトについて語るのであれば、これ以上強力なカムアウトを想像することが、できるだろうか。
そうであれば、「恐れはどこにある」のか。それはおそらく、ターリを閉じ込める木枠とそれを取り巻く暗闇に、そのターリに不正な近接をはかる観客に、その両者の間に存在するように見える断絶に、さらには、木枠から這い出した後、観客の反応をあらかじめ予期できないままに自らの欲望の場へと観客を(今度は許容された参加者として)招き入れるターリに、それぞれ存在しているだろう。しかしそれは同時に、ターリのパフォーマンスに立会い、ターリの欲望に巻き込まれざるを得なくなった観客の中に、存在しているだろう。異物によって構成される欲望の場に自分達の欲望が巻き込まれていくことを、いや、より正確に言えばおそらくはそこに自分達の欲望が既に巻き込まれていることを、わたくしたちは受け入れることができるだろうか。それともわたくしたちはその欲望に背を向け、異物によって構成される欲望をわたくしたちからは断絶したものとして再び木枠に押し込めたいと願うのだろうか。ターリのパフォーマンスによってわたくしたちは、その「おそれ」をどうするつもりなのか、問われているのである。

*1:「わたしはクローゼットから出てレズビアンの欲望を満足させたのよ!」

*2:つまりターリの、あるいは観客の欲望の理想的な対象として、そしてそのようなものとしてのみ存在するものとして

*3:実際、このシーンでわたくしは何度か観客の方を眺めてみたけれど、もちろん観客全員を最初から最後まで観察できたわけではないにせよ、観客はの多くは、ターリのうずくまる闇の方ではなく、それと逆の方にあるスクリーンを見つめていた

*4:これが「クローゼット」を余儀なくされしかも同時にポルノグラフィックな欲望の対象に設定されもする「レズビアン」の状況といかに痛切に呼応するものであるか、それはあらためて指摘するまでもないだろう。

*5:そしてこの構造は、観客がレズビアンであろうとそれ以外であろうと、その根本においては変わらないだろう。既に述べたように、ここでの「おっぱい」はレズビアンの欲望対象を表象するものとしては回収されきらないからである。