ジョディーしか目に入らない(ネタばれあります)


先日、本当に久しぶりでパートナーのPと外出。のんびりパートナーと外出するような気力と体力と仕事上のゆとりが最後に揃ったのは、もう思い出せないくらい昔です(いやそれはちょっとオーバー)。で、映画でも観ようよということになったのですが、日本語字幕についていけないPが観られるのは英語の映画のみ。それに加えて、台風の中サポートに来させた引け目もちょっとあったのでPの好みで映画を選ばせてみたところ、なーんとジョディー映画にあたってしまいました。個人的には今年一番見たい映画だと思っていたパンズ・ラビリンスに行きたかったのにしくしく(多分この先も時間ない)だったのですけれども、結局観たのは「ブレイブワン(ニール・ジョーダン監督、ジョディ・フォスター主演、2007)」(以下ネタばれがあります)。





正直どうなのだろう、この映画。そもそも。恋人を殺されて自分も半殺しの目にあったばかり、はじめての外出で街を歩く他人がすべて怖いという人が、見知らぬ男に「銃売ってやるよ。撃ち方も教えてやるよ」と声をかけられて、いきなり路地抜けて長屋抜けてついていくだろうか?わたくしなら、速攻逃げます。いくら現実世界の「ありそうさ」がそのままフィクションには当てはまらないとはいっても、フィクションならフィクションで、「あり得そうにない出来事をあり得ることとして納得させる技法」が必要ではなかろうかと。
そして「あり得そうにない出来事をあり得ることとして納得させる」という点を圧倒的に妨げているのが、ジョディーと二人の男性(死んでしまう婚約者と、彼女と不思議な信頼関係を結ぶ刑事)との関係の描写である。その死がそれに引き続く一連の行動を引き起こすだけの圧倒的な喪失として残るような、婚約者とのつながり。そして、説明はつかないながらも、互いにみずからの存在をゆだね合うような、刑事との確実な信頼関係。この映画が説得力を持つためにはその二つの感情の強度が絶対に必要なはずなのだけれども、とにかくそれが著しく欠如しているのだ。
ジョディーが婚約者と愛し合っている(いた)ということは確かに台詞では示されるし、それなりにセックスシーン(もどき)もあるのだけれども、何だかどうにも「ストーリーを起動させるためにもうすぐ殺される(あるいは殺されちゃった)人と、主人公」というだけの関係にしか見えない。
刑事との関係についても、具体的なエピソードの積み重ねが不十分なだけに、「こいつらは運命で結ばれるのだからつべこべ屁理屈言っても仕方ないわよね」くらいの強烈な化学反応が必要だと思うのだけれど、これまた「あ、先日喫煙所でお目にかかりましたね」「やあ、その節はどうも」くらいの、ゆるく淡白な感情の交換しか読み取れない。二人の手がふと重なり合うというような「思わせぶり」シーンすら用意されているのに、そこから「思わせぶりな雰囲気」は頑として伝わってこないのだ。
というわけで、ラストシーンはジョディが「勝手に」犯人を射殺してしまうとか、さもなければ、もうこの際毒食わばナントカで刑事も射殺するとか、そうでもしてくれないことには、どうにもおさまりが悪い。私刑行為の最後の最後に刑事に助けられるという設定は、それこそ感情が伴わないのに「この二人はもはや運命共同体」設定だけを勝手に進行させる感じで、ちょっときつい。


けれどももしかすると、その「おさまりの悪さ」が重要なのかもしれない、とも思う。そのような圧倒的な感情的説得力の欠落ぶりがあまりに露骨というか、お地蔵さん同士だって撮りようによってはもうちょっと恋に落ちているように見えるだろうよ、というような状態なのは、もしかすると最初から感情的説得力を意図的に拒絶しようとしている、ということの表明なのかもしれない。つまり、「そもそも感情的説得力がないわけよ、暴力ってのはさ」というところがポイントであるということかもしれない。暴力が暴力を生むのであって、そこに挿入される「愛の言説」は全くもって無意味なエクスキューズにしか過ぎない、と。
いやそれって今更?とも思うけれども、逆に、今だから重要なのかしら(英米の外交戦略への批判?)とも思ったり。いや、それでもやっぱり今更、かも。そういう意味ではちょっと『ショートバス』にも通じるのだろうか(わたくしにとってのあの映画の唯一最大の魅了は、セックスは愛じゃなくて(少なくとも愛であるよりはるかに大きな割合で)それなりの訓練を要する身体行為である、と主張しまくっているところだと思うので<これも目新しいわけではないけれども)。

ただ、ジョディーと二人の男性との「愛」が全くもってただのエクスキューズであることを白々と見せることそれ自体がポイントであるのなら、ジョディーというのは良いキャスティングなのかもしれない。そのセクシャリティをめぐるゴシップがその役柄にかすかに参照されてきたハリウッド・スターの系列に連なる一人。

他に気になった点。とりあえず主人公と感情的なつながりを持つ男性二人が有色人種であることによって、レイシャル・ポリティクス上の危険は回避されているのだろうか。っていうか、それなりに意味のある男性役って、全員非・白人で、その中止に真っ白いジョディーがいるわけで(映画の中でもわざわざ「肌がきれいで、ナチュラル・ブロンド」と呼ばれる、スノー・ホワイトなジョディー)、そのあたり何かあきらかにアヤシイ。


というわけで、映画自体は、多分、面白くありません。
それでは退屈だったのかというと、個人的にはそうでもありませんでした。この映画のジョディーは、格好いいのです。役柄がではなくて、髪型とか、服装とか、それより何より、小柄な身体の肩のあたりのいかり方とか、不機嫌そうな唇のひき結び方とそれにつれて少し強張った顎のラインとか、足の運び方とか、用心深さと挑戦的なところとその場から少しだけ身を引いたようなところが入り交じった目つきとか。わたくしの好みの女優さんのタイプというのはここのところかなり固まっていて、以前に大好きだったジョディーからはちょっとずれてきていたのですけれど、いきなりこう、古い忠誠心がよみがえるというか。
以前からわたくしにとっては、ジョディーはいわゆる欲望/同一化という二項の双方の対象として同時に存在してしまう人だったのですが、その点も相変わらずで、ジョディーいいわあ、近くにいたいわあと思うのと同時に、ジョディーのヘアスタイル見て髪切ろうかしらと真剣に考えたり。ちゃんと運動再開しなくちゃとか、ああいうジャケット欲しいなとか。何か方向性がずれてきていますが。

とにかく、ジョディーしか目に入らない。スターを配した映画としては、ある意味王道の楽しみ方が出来たということで、わたくし的には十分にモトのとれた映画でございました。