「狂女」たちのフェミニズム

大分以前に書きかけたエントリで(その後、まあそういうことになって新しいエントリをきちんと書く余裕がなかったりもしたので)、かなりタイミングのずれがある上に、特に答えがあることではないのですけれども(<これはいつもですわね)。
以前のエントリで触れたfont-daさんの考察に、「大学人フェミニストのイメージ戦略」に関する疑問があって、わたくしは「イメージが悪いことはわかっても、それについてはどうしようもない」と書いた。そして基本的には「どうにかしたくても(というより、どうにかしたいのだけれど)、どうしようもない」と、おそらく今でも、思っている。
けれども同時に、ちょっとだけ、思う。イメージが悪かったら、いけないのだろうか。
確認しておきたいのだけれど、これはfont-daさんが仰っていることへの直接の反論ではない。あのエントリでの「イメージ戦略」は非常に特定された文脈における特定されたイメージの話であって、ここでわたくしが書いているのはそれに触発された別の話である。「フェミニズムに親和性がある」と言っている人を、それにもかかわらずフェミニズムから遠ざけてしまうようなイメージをまき散らすのは、もちろん業界的には望ましくないのだろうし、そもそもfont-daさんの御指摘のケースについては(アカデミアという知の特定の形をめぐる権力構造に依拠した「啓蒙」の問題については)たしかにそこには問題があるとも思う。
その上で。
イメージのよしあしというのは、言うまでもなく、難しい問題である。わたくしにとっての「フェミニストのいいイメージ」が、他の大学人フェミニストが感じるそれと同じだとは限らないし、完全に大学業界外の人間で、しかもフェミニズムには一定の親和性のあるわたくしのきょうだいや友人の感じる「フェミニストのいいイメージ」が、同じように大学業界の外でフェミニズムに親和性を感じている別の誰かのいだく「いいイメージ」と同じとも、限らない。
しかしそれはある意味ではどうでも良い話であって、気になるのは、フェミニスト(あるいはフェミニズムでも良いのだけれども)というのはそもそも「良いイメージ」と親和性が高いのだろうか、ということだ。あるいは「フェミニスト」を自認するわたくしが他の「フェミニスト」に対して、その人が「良いイメージを(他の誰かに)与えること」を期待/要請するというのは、かなり奇妙ではないだろうか、ということでもある。
これは、ある人(あるフェミニスト)の主張に対して、それは正しくないとか賛成できないとかという批判を投げかけることとは、違う(わたくしはそれはあっても良いし、むしろあるべきだと思っている)。「正しい」ことを言っていてもイメージの悪い人/団体もあるだろうし、その逆のケースもあるだろう。
ただし、「イメージ」について言えば、少なくともフェミニストではない「一般の」人々にとって、フェミニズム(あるいはフェミニスト)の「イメージ」が良かったことは、それほどあるのだろうか。「髪を振り乱し」「気がふれて」「うらみ節で」「醜怪で」「ヒステリーを起こし」ながら、しかも「他人の迷惑をかえりみず」「押し付けがましく」「自分勝手に」振るまっている女、というのが、いわば「由緒正しい」フェミニストのイメージだったのではないかと思う。そしてそれは勿論「フェミニズム」にとっても「フェミニスト」にとっても、一面でとても不幸なことではあったけれども、同時にその反面、少なくとも「フェミニスト」の一部にとって(そして「フェミニスト」を遠巻きに見ていた女性たちの一部にとって)、それは喜ばしいことでもあったのかもしれない、とわたくしには思える。
「まともさ」の域外で「悪いイメージ」とともに髪振り乱して自分勝手に生きている女性たちを知ることは、とりわけその女性たちが時に驚くほど幸福そうであったり闊達であったりすることがあるのを見る時、不思議なよろこびと力をもたらしうる。「悪いイメージ」を与えられることを恐れなくても良いのだという実感のもたらすよろこび。「良いイメージ」を持たなくても生きていけるのだという実例のもたらす力。単純ではあるのだけれども、フェミニズムにとってそれはやはり重要な力なのだと思うし、逆説的にフェミニズムの「最良のイメージ」の一つを構成するものでもあるのだと思う。へたれ机上フェミとしては、やっぱり「まともさの域内」にとどまって戦うという戦略を、自分では採用したいわけなのだけれども、ヒューマニ系としては、おそらくそこにとどまらない(少なくとも表面的な感覚のレベルにおいてはとどまらないように見える)ことの力をも、どこかで信じていたりするわけで<優柔不断
「良い(あるいは受け入れうる)イメージ」の問題は、フェミニズムの制度化の問題と直接に繋がっている。「フェミニズム」をより広く浸透させようとすれば、ともすれば不必要な同一化の拒否を引きおこすような(「あんなのと一緒にされたらたまらない」)、あるいは恐怖感や嫌悪感を引き起こすような(「あれはちょっと無理」)、そういう形象は「フェミニズム」から極力取り去るべきだということになるだろうし、そういう「フェミニスト」はむしろ余り前面にはしゃしゃり出てくれるな、ということになるだろう。けれどもその時に「フェミニズム」はひどく退屈でやせ細ったものになってしまう。
繰り返すけれど、これはfont-daさんのエントリへの批判ではない。他の「フェミニスト」を見て「この人はわたくしちょっとだめ、引いちゃうわ」「こういうやり方で<フェミニスト>って言われても困るわ」と思うことが、わたくしにはたまにある。というより、最近まさにそういう出来事があって、font-daさんのエントリとコメントとを拝読しながら、その事が苦い気持ちで思い出されたのだった。引かれているのはお前だよ、というのはとりあえずおいておいて、その時のわたくしの勝手な個人的な視点から見ると、同じフェミニストとしては「わたくし」より「この人」の方が「ダメ=イメージ悪い」なのであって、「ちょっとどうにかして頂戴よ、これでフェミニズム語られてもみんな引いちゃうわよ」という事になっている。
さらにもう一つ繰り返せば、これは主張の妥当性の話でもない。主張の妥当性だけが問題であれば「その主張はこういう理由で同意できる/できない」という話になるだろう。そうではなく、「イメージ」というか「感じ」というか、そういうレベルの話である。勿論これはとてつもなく傲慢な姿勢であって、それ自体まったくもってとんでもない話なのだけれども、それにもかかわらず、一瞬、「でも<フェミニズム>に対して、良いイメージを持ってほしい/間違えたイメージを持ってほしくない」みたいなことがわたくしの脳裏をよぎり、その瞬間には「良いって誰にとってよ?」とか「間違えたって誰が決めるのよ?」とかいう問いはすっきりと消え失せてしまっている。その時わたくしはフェミニズムにとってきわめて重要であるはずのものを、フェミニストとして、否定しているというのに。
要するに、あれです。それと極めて類似した傲慢さと愚かしさに直面した時にそれを批判するのは簡単だけれども、そうは言っても、そういう「感覚」をもたらす愚かしさと傲慢さとが自分の中にも拭いがたくしっかりと根を下ろしていることを、忘れるべきではないなあ、と。