忘れていたという事実を思い出すために

id:yamtomさんのふぇみにすとの論考より、マスコミ学会での討論について

今回「バックラッシュ」という現象が起きた際、フェミニズムの間では「うわうわ大変だ、今フェミニズムの最大の課題はバックラッシュだ」というようなことになり、それは今でも続いている。確かに地方議会などで大変な事になっている場合もあるのですが、それはこれまでに例を見ないような最大の事態なのか、という疑問があります。
そもそも、フェミニズムというのはこれまでずっとバッシングを受けてきたものなので、そのあたりの歴史観が欠けてきたというか、共有されなくなっているという感があります。

実はわたくしは、「フェミニズムがこれまでずっとバッシングを受けてきたこと」が忘れられているとは、必ずしも感じていなかった。一般に日本の多少アカデミックなフェミ系言説で「バックラッシュ」について語るときは、「バックラッシュまではバッシングはたいしたものではなかったが、今回はひどい」という語り口ではなく、「フェミニズムってのは、バッシングと散々戦いつつ対抗しつつ、せめて各分野にある種の<フェミ風味の共通前提>を根付かせようということで、さまざまな戦略を*1模索してきたのに、その歴史をチャラに戻しかねない大規模なバッシングの盛り上がりがあるようで、それには警戒しなくちゃ」というスタンスで語られているような気がしている*2フェミニズムがそれなりに、それこそ「制度化」されてきて、行政の中、あるいは教育現場、あるいはそれ以外の文化的・社会的実践において「多少は共有されてきている」という感覚があったからこそ、「バックラッシュ」という言葉が(少なくとも一定の程度においては)現実味を持ったのだろうし、ここで引き戻されては、という危機感もあったのではないだろうか。*3
ただ、yamtomさんの指摘なさっているのは、そのような「ある程度のフェミニズムが共有されているという感覚」こそが「行政密着型」フェミニズムからの視座であって、「行政主導」の梯子がはずされたときにその「感覚」はそれほどの裏づけを持っていなかった、ということなのかな、とわたくしは理解しているし、その点からの再検証というのは確かに必用だという気がする。たとえばバッシングの盛り上がりを可能にした背景に「フェミニズム」を「リブにはじまる女性運動」から乖離させて行ったことがあるとか、「バックラッシュ」への対抗言説の組み立てにおいて既に蓄積されてきたはずの(あるいはその可能性が十分あるような)バッシングへの対抗戦略の歴史が無視されているとか、そういう批判は十分に意味のあることだだし、「今回の<バックラッシュ>が、これまでに例を見ないような最大の事態なのか」ということは歴史化して検証しなおすべきなのだろうとは思う。
この部分で、yamtomさんの批判の焦点がどこにあるのか、わたくしは完全には理解し損ねているのだけれども、つまり、「<バックラッシュ>って大騒ぎしているけれども歴史を振り返ればそんなに騒ぐ必用はないだろう」というところなのか、あるいは「<バックラッシュ>が、いわば制度的フェミニズムをどこかで支えている(<バックラッシュ>に対抗するという大義名分のもと、特定の制度的フェミニズム以外のフェミニズムの歴史が積極的に忘却されている)」というところなのだろうか。前者であれば、それは本当なのかな(制度的フェミニズムからずれた人たちにとっても「バックラッシュ」にシリアスに危機感を抱く根拠はあったのでは)と思うわけですが、後者であればそれはありそうと思う、ということなのだけれど。
で、その流れで思ったのは(というよりむしろわたくしのここ数ヶ月の問題意識にはこちらが先にあって、それと重なるのでyamtomさんのエントリが非常に示唆に富んでいるなと思ったのだけれど)、出雲まろうの編集日記のこのエントリ
実はここで言及されている本Queer Voices from Japan: First Person Narratives from Japan's Sexual Minorities (AsiaWorld) (Studies in Modern Japan)、それ自体はまだ買おうかどうか悩み中で*4、あ〜でもきっと買うべきよね。とか思っているのですけれども、それはそれとして。

現代思想97年5月臨時増刊号レズビアン・ゲイ・スタディーズ』に掲載した「座談会:日本のレズビアン・ムーブメント」も「Japan's Lesbian Movement: Looking Back On Where We Came From」というタイトルで翻訳されている。
 その座談会はちょうど10年前の90年代ゲイ・ブーム真っ盛りに、青土社の屋上にあった「現代思想」の編集小屋(?)で、深夜まで延々と続けたものだ。ゲイ・ブームとともに勢いを得た比較的新しいレズビアン・コミュニティのなかでは、もっとずっと以前から綿々とアンダーグラウンドで活動してきたレズビアンの歴史は、葬り去られる寸前だった。
 砂に書いた文字のように繰り返し、大事な真実が消し去られていくレズビアンの歴史。 
 知っていることは伝えておこうと、あの座談会を行ったのでした。

わたくしは、それこそ『現代思想臨時増刊号レズビアン・ゲイ・スタディーズ』が出た時に、「なんだって?これは誰だっけ?」みたいな感じに固有名詞がアタマの中でごちゃごちゃになりながら、この記事を一生懸命読んだのだったけれど、いわゆる「コミュニティ」とも、それを言うならアカデミックなLGBTスタディーズやフェミニズムのコミュニティとさえ、全く隔絶されて生きていたわたくしには(10年前から机上系)、「クィア・ブーム」で盛り上がっているように見えた当時の文脈*5の中でこの座談会が行われなくてはならなかったその理由が、上の引用にあるようなことだったとは、全く想像ができていなかった。レズビアンの活動の歴史がいわばコミュニティの「中でも」消し去られつつあるのだ、というメッセージをわたくしは完全に受け止めそこねて、むしろ、何か「コミュニティ」に属して「さえいれば」当然知っているべきことであり、コミュニティに属しそこねた「外部の」人間向けに「このくらいは知っておいてよね」というような類のものなのだろうな、と感じていたことを、覚えている。
けれども、今この対談を読み直してみると、70年代、80年代と「結局相変わらず同じ問題が話されて」いる*6という感慨がこの時点で繰り返し語られているにもかかわらず、さらにそこから10年たった現在でも「相変わらず同じ問題が」という点を容易に見つけることができ、「繰り返し大事な真実が消しされられていく」という指摘の有効性を実感せずにはいられない。
わたくしは以前、「バックラッシュ」へのフェミニズム側からの対抗言説における(レズビアンを含む)セクシュアル/ジェンダー・マイノリティの扱いという具体的な場で、上でyamtomさんのエントリに関連して述べたようなことが起きているのではないか、すなわち、制度化されたフェミニズムによるそれ以外のフェミニズムの積極的な忘却を通じた制度の自己強化と安定化が図られているのではないか、という危惧を、表明したことがある。けれども、そのような「フェミニズムにおける忘却」だけではなく、たとえばクィアスタディーズにおいて、あるいはLGBTQの運動やコミュニティーの言説において、同様の「忘却」が意図的にあるいは無意識に行われてはいないのかという点にも、十分な注意を向ける必用があるだろう。とりわけ、たとえば政治において、たとえばマーケティング戦略において、たとえばアカデミアにおいて、「制度化」に向けての動きが生まれつつある今だからこそ、自分がどういう事実を忘れていたのか、それを思い出さなくてはならない、と思う。
わたくしは、何を忘れていたのだろう。何を忘れているのだろう。忘れていたという事実を思い出すことが、できるだろうか。

[追記]

トラックバック送れていなかったようなので送りなおします。

*1:勿論成功したものもそうでなかったものもあるだろうけれど

*2:すみません、ちゃんと検証はしていません

*3:たとえば、yamtomさんのこのエントリを拝読する限りでは、初期リブから続く(ここでリブを出発点にすることは自体は「とりあえず」ということだと解釈して良いと思うのだけれど)、行政密着型の「フェミニズム」に還元できない多様な女性運動の歴史が指摘されている。これらの「行政密着型フェミニズムとは多少異なる女性運動」に携わってきた人たちにとっては、いわゆる2002年前後からの「バックラッシュ」と言われるバッシングは、それ以前のものとたいして変わらないように感じられてきたのだろうか、ということがちょっと気になる。その人たちにとって「バックラッシュ」は「目新しいモンでもない、大騒ぎするモンでもない」という感じなのだろうか。

*4:純粋になんかこう、「当事者の声を、英語のできる研究者が英訳して紹介」みたいなのが、必要性はわかる反面、微妙に好きじゃない、という、個人的な好みの問題ですが

*5:だからこの特集号も「どうしてレズビアン・ゲイ・スタディーズなんだろ?」と疑問に思っていたのを覚えている

*6:出雲まろう、原美奈子、つづらよしこ、落合くみ子、「日本のレズビアン・ムーブメント」、『現代思想 vol.25-6 臨時増刊 総特集:レズビアン/ゲイ・スタディーズ』、青土社、1997年、p.78