「制度化されたフェミニズム」批判

tummygirl2007-07-03

今回の学会では、LGBTQ系の人がそれなりに少なくないけれどもそんなに多くもない、という感じだったので、若い学生さん(院生さんというべきですか)から研究者の人から何となくわさわさ集まって話をする機会が多くて、それがとても良い感じだった。オオモノに弱いわたくしは、最終日のフェアウェルパーティーで若い研究者と一緒のテーブルに座ってわらわらご飯を食べていてふと気がついたらいつの間にか斜め前にJosephine Hoが座って普通にその場の馬鹿話に加わっていて一気に食事が喉を通らなくなったりもしたけれど、そのくらいのカジュアルな雰囲気というのは良いものだなあと思う。
学会の中日に現地のガールズ・バーに10人ほどで出かけたところ*1、その日は非常に客の入りが悪くて驚くほど盛り上がりがなくて、それは残念だった。写真はそのイベントの入場券。お店の人によると「普段はもっとずっと盛り上がる」のだそうで、もしかすると他で何か大きいイベントがあったのかもしれない。けれどもいずれにしても「レズビアン・バー/ガールズ・バー」というのは商売として成立しなくて、基本的にはミックス、時折ガールズイベント、という感じらしい。トランスボーイの子も普通に入れたけれど、現地のお客さんはトランス系、ブッチ系が少なくて、女の子女の子なカップルが多かったような気もする。もちろん、たまたまこのイベントがそういう客層を集めていたのかもしれないけれど。
その土地で現地版(翻訳版ではなく)の『ヴァジャイナ・モノローグズ』の上演をしている演出担当者という人にも出会えたりして、色々と聞いてみたかったのだけれども、土地の言葉が出来ないわたくしは一々英語の出来る知人に通訳をしてもらわなくてはならず、ただでさえ大音響で音楽のかかっているバーでは話にならなかった。やっぱり言葉ができないとダメです。
その帰り道、映画監督でもあるヤウ・チンとタクシーをシェアして、色々と話をした。彼女が『レッツ・ラブ・香港』の上映にあわせて国際基督教大学トークをしたときに一度会ってはいるのだけれども、どうせこちらのことを覚えてはいるまいと思っていたら、学会初日に「私のこと覚えてる?」とむこうから声をかけてきてくれて、記憶力の良い人だなあと、ちょっと驚嘆*2。わたくし、人の顔を覚えられない、名前はもっと覚えられない、という大きな欠陥の持ち主なので、相手がこちらの顔と名前を覚えていると何だかもうすごく罪悪感がぞくぞくと背筋をあがってくるのですが、まあそれはそれとして。
日本と香港、土地は違うけれども、フェミニズムや、ましてやクィアスタディーズを大学でやっていくのはかなり厳しい、という状態は共通していて、お酒も入った深夜のタクシーでぶつぶつと愚痴を言い合ったりしていたのだが、その過程で、「でも台湾はちょっと違うよね」という話になる。もちろん台湾の人に言わせれば台湾だって大変だし、はたから見るほどうまくいっているわけではない、ということになるのだけれど、それでも「傍から見る限りでは」、やっぱり台湾のクィアスタディーズやアクティビズムは盛況だという印象を受ける。何が違うのだろう、とわたくしはかねがね不思議に思っていた。勿論そこには、たとえばメインランド・チャイナに対して「自由なくに」という印象を生み出したいという台湾の国際政治があったりもするし、前のエントリでも言及した発表にあったように、香港ではキリスト教原理主義による活動があったりもしたらしいのだが、それに加えてヤウ・チンは「台湾では制度化されたフェミニズムの歴史があるから」ということを言っていた。
わたくしは不勉強で台湾のフェミニズムの歴史というのを全く知らないのだが*3、ヤウ・チンによれば、台湾においては政府主導で「フェミニズム」がアカデミアに導入されて定着したという歴史があり、だから、アカデミアにおいて、そして大学教育を受けた人々の間で、ある種の「フェミニズム」が前提として共有されている。そのことの弊害は勿論あるだろうし、制度化してしまったフェミニズムがあるからこそ、そうではないフェミニズムの可能性を切り開くのがより一層難しくなるという側面もあるだろう。けれども、そのような「前提の共有」があることによって、台湾の大学や社会において、クィアスタディーズやアクティビズムが場を確保していく余地も大きくなったのではないか、というのが彼女の考えだった。
繰り返しになるけれど、この分析が正しいのかどうか、わたくしには判断ができない。でも、その話を聞いた時には、もしそれが本当だとしたら「制度化されたフェミニズムっていうヤツが一つ日本にも欲しいですなあ」とは、思った。フェミニズムがアカデミアにおいて、あるいはそれを超えて、制度化されていくことの弊害というのは勿論あるだろうけれど、なんというのか、ちゃんと制度化されたフェミニズムが存在している状態で「あんなフェミニズムなんてダメだ」と思う存分言って見たい、と言ったら良いだろうか。ヤウ・チンと二人、心臓が縮み上がるほどの荒々しい運転をする深夜のタクシーに揺られながら、「フェミニズムが制度化しちゃってダメだ、という批判ができるほどの、安定した制度化されたフェミニズムが、欲しいね〜」「ね〜」と、ため息を付き合ったのだった。
夜が終わって、学会が終わって、日常に戻って冷静に考えれば、フェミニズムクィアスタディーズが悪い形で制度化されることよりは、制度化されないことの方が良いのかもしれない、あるいはそもそも良い形の制度化というのはありえないのかもしれない、とも思う。けれども同時に、アカデミックな「領域」としてある程度の制度化がされないことには、ジェンダーセクシュアリティに関する研究の裾野は広がりにくく、深度も大きくなりにくいだろう、とも思う。どこの、誰に、どの程度まで、範を求めることが可能なのか、あるいはそうすべきなのか。多少なりともアカデミックな制度化を試みようとするならばそのようなリサーチくらいは行うべきなのかもしれず、しかし、そもそもそんな専門的バックグラウンドと余力のある人を、どこに探せば良いのだろう。わたくし個人には、日本の大学で仕事をしていると、そんな余力はとてもないのだけれど。*4

*1:開催した土地のレズビアン・シーンを調査している人がいて、その人がインタビューのために出かけるのにみんなでくっついていきました。ただの邪魔者たちです

*2:彼女は今年下北沢であったアジアクィア映画祭に行きたかった〜、と言っていた。次の機会に来日してくれるといいなあ

*3:とか威張っていないで調べなくちゃいけないなあ。そのうち。いつか<違

*4:こんなブログを書いていなければ良いのかも。例によって例のごとくの自爆ですが。