これがおそらく、「『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」

[追記]

追記って最初に書くのもどうかと思いますが。
コメント欄で「通りすがり」さんからの御指摘いただいたように、「映画製作上映の試み」への評価を一切せずに特定の発言を取り上げたのは確かに失礼であり、その点についてはお詫びを申し上げます。

今回の試みは意味があるものだと思っています。それが成功して多くの観客を集めたこともすばらしいと思いますし、今後も再上映の機会があったり、あるいはGLOWに限らず他の大学でさまざまな自己表象の試みがうまれたりしてほしい、とも思います。

また、以下でも繰り返すことですが、以下のエントリは「映画」についてではなく、「企画」についてでもなく、その時のトークであったと報告された特定の発言についての批判です。わたくしは映画自体は見られませんでしたので、それについての判断をすることはできません。

最後に、本エントリのタイトルですが、「これがおそらく、『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」というのは、わたくしのエントリ自体を差しています。エントリにおいて言及したakaboshiさんのブログにおいて、この映画を『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさがなくて良いと評価されていましたので、そこから援用して「わたくしのこのエントリは、まさに、プロパガンダ臭ただよう押し付けがましいエントリになるのだろうなあ」と思ってつけたのが、このタイトルです。エントリの文中で複数回にわたって「わたくし押し付けがましいですね」という自己言及を入れたことでその意図は伝わるだろうと思ったのですが、そうでもなかったようです。不明瞭な表現であったことについて、お詫びを申し上げます。(この点については、どうも消えてしまったような気がする今朝のコメントでも書いたのですが、それが消えてしまったわけなので、ここであらためて書いておきます。)

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LGBT可視化に向けて074●早大GLOW「ゲイとビアンのキャンパスライフ」にパワーをもらうから。

一連のトークの司会を担当した監督の小林浩之さんが、念を押すように語っていた言葉が印象的です。

 「『おネエMANS』とかで、同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだということを伝えたかったんです。だから、映画の中で日常的な場面をいっぱい撮りました。日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。日本は欧米に比べて大幅に立ち遅れています。まるでアメリカの70年代の頃のように、まだまだカミングアウトどころか自分のセクシュアリティーを認めることすら出来なくて悩む人がたくさんいるんです。だから、この映画のレベルは、非常に『古い』ものなんです。」

学生さん(?なのですよね?)に絡むのもどうかと思うし、上映の案内をいただきながら実際には見に行けなかった負い目もあったりするのだけれども(だから当然映画それ自体については何も言いようがないのだけれども<でも「ゲイとビアン」なんですもの。またここでいちいち言うのって疲れる、と思ってちょっと萎えました)、色々なレベルで上の発言は何か微妙。

「日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。」って、これはかなり検証や批判が必要な気がする。わたくしは自分自身が当時コミュニティにも何らかのアクティビズムにも参加してはいなかったのだけれど、それにしたって。
メディアの中でゲイブームがあったのは確かだけれども(「美青年」ゲイ映画のブームとか)、同時にそれこそアカーの府中青年の家の裁判があり(それはメディアでも報じられましたが)、ダイクマーチや何かがあり(「コミュニティ」から断絶していたわたくしでも噂として聞いてはいた)、アカデミアではゲイブームというよりはクィア理論のブームがあってかなり興味深い論文が執筆されたり翻訳されたりしはじめており、そして「メディア」を通じてではあっても確実に多くの人に届いた「女を愛する女たちの物語」のような出版物や、それを通じて可能になる出会いがあった。
それらを全てまとめて「メディアの中だけ」と言ってしまうのは、やはり違うと思う。GLOWの若い学生さんたちにおそらく何の悪気もないのだろうと思うだけに、もう少し気をつけて歴史を見てほしい、とも思う。いろいろな事の準備が90年代にははじまっており(それが直接的にもたらした結果の評価はさまざまだろうけれども)、そしてそのような事が90年代に可能になる前、70年代80年代にも、確実にさまざまな運動があったし文化活動があった。当たり前だけれども、その事にもっと注意を払って欲しい。学生さんなんだし<押し付けがましいです、はい。

それから、あらまあまたその話なのねと退屈されることを承知で、言います。「同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだ」は、あああそれはねわたくしはどうかと思いますあまり望ましくない用語選択だと思いますというよりおそらく考え方としてどうよそれ<本当に押し付けがましい

派手なのはフツーじゃないのかしらとか日常じゃないのかしらとか派手な同性愛者は「実際」にはいないのかしらとか、もうそのあたりの話は良いのかと思っていましたが、やはり「可視化」という主題は恐るべしと言うのか、以前のチャットでmakikoさんが仰っていたとおり、制度化と可視化(あ、顕在化か)の方向性が少しずつ強まっているように見える現在だからこそ、可視化のされ方(何がどのように見えるようになるのか、その時に何が見えなくなる/見なくても良いことになるのか)に、注意を払わなくてはいけないなあ、と。