バイセクシュアルの不可視化を可視化する、ということ

直下のエントリに色々とコメントを戴いておりまして、御返事をしようと考えていたらやったら長くなったので(悪癖)、別エントリとしてこちらにあげます。

セクマイの括りについて(>えむさん)

歴史的にも、当該運動でのセクマイという括りは当初からのものだったのでしょうか?(えむさん)

これは違うのではないかと思います。えむさんが仰るように、LGで始まったというのが、少なくとも英米の運動の歴史のような気がします(違っていたら御教示ください>Macskaさん)。
ただ正確には、LGで始まったというのも多分少し違っていて、19世紀末くらいからの同性愛者権利擁護運動というのは、少なくともイギリスでは男性同性愛者が中心だったと思います。これは男性同性愛行為(というか正確にはソドミー)が違法であったということに関係しているわけですが。で、このような男性同性愛者権利擁護運動に、地域や団体によっては女性同性愛者が参加したりしなかったりする。
で、この時点からすでに、「同性愛者権利擁護運動」であったけれども、実際にはバイセクシュアルはその運動内部に存在しいていた(自称として「バイセクシュアル」ではなかったけれども、現在の観点から見れば「ゲイ」と言うよりは「バイ」だろ、という人がいた、ということですね)、というのが、ガーバーの指摘の一部でもあります。このような、「運動名称には含まれていないけれども、運動の内部にはバイセクシュアルの人間が存在している」という状態は、その後ずっと続くわけです。
さらに、アメリカでもイギリスでも、当然のことながら、LGが最初から一まとまりだったわけではなく(つまり「LGとして」運動がはじまった、というわけでは必ずしもなく)、たとえばゲイリブとレズビアンフェミニズムとが一般論として協働していたとはちょっと言いにくい。その上、その双方で明らかに抑圧されながら、でもその双方の内部に、バイセクシュアルもトランスの人たちの一部も存在していた。
だから、LGではじまったというよりは、GやLが時には「同性愛者」というくくりで一緒に、時には全く別々に、その両方に明示されないBやTを抱えこんだ形で、運動してきたというのが、比較的正確なのかなと思うのですが。
日本ではまた多少違うような気がしますが(すみません、こちらについても運動史には詳しくないのですが)、やっぱりGとLとが常に協働してきたかというとそういうわけでもないし、BやTがしばしばすでに存在していたということもあったようです。

包括的括りを掲げずにおこなう「分離主義的」運動は一般論としては、尊重したい(えむさん)

これは難しいところだと思っています。「分離主義的」運動と言うときの「分離主義」が何を指すのかとか、そもそも「分離」が可能なのかとか、そういう問題がどうしても入ってきてしまうので。ただ、ある種のアイデンティティ・ポリティクスを常に「分離主義的である」と呼ぶのであれば、場合によってはアイデンティティに基づく主張なりアイデンティティの主張なりというものを行う必要性もあると、わたくしは思っていますので(この後に書いたとおり、ここはひっぴーさんとは少しずれるのだと思います)、分離主義的運動も「一般論でなければ」尊重したい、というのがわたくしの今の考えかもしれません。

バイセクシュアル・アイデンティティの政治はありえるのか(>ひっぴーさん、永易さん、Makikoさん)


御参入ありがとうございます。
ひっぴーさん、Makikoさんはおそらくご承知の通り、わたくしは机上で屁理屈をこね回すことしか出来ない人間で、言っていることがそれこそ禅問答みたいになりがちなので、実現性がないというか現実味がないことになっていたら、申し訳ありません。御指摘いただければと思います。

「同性愛者のアイデンティティーの政治」は、原理的に「バイセクシュアル」を不可視化すると思います。ですので、「同性愛者のアイデンティティーの政治」を解体/一掃すること、もしくはその弊害部分についての責任をとるように同性愛者に課していくことが必要だと思っています。(ひっぴーさん)

この部分なのですが、「コミュニティーの中」でのバイセクシュアル(あるいはトランスセクシュアル)不可視化の一因がいわゆる「同性愛者のアイデンティティーの政治」にあることは、わたくしもそうであろうと思いますが、同性愛者のアイデンティティーの政治が、「原理的に」バイセクシュアルを不可視化するのかどうかについては、ちょっと留保があります。
もちろんこれは「アイデンティティーの政治」というのを厳密にどのようなものとして考えるのか、「バイセクシュアル」をどのようなものとして考えるのか、ということにも影響されるとは思いますが。
たとえば、「LGBT」を常に明確に表記したとして、それはやはり「同性愛者のアイデンティティーの政治」の一環ですよね。それが「トランスのアイデンティティーの政治」や「バイセクシュアルのアイデンティティーの政治」と連合したものだということではないかと思うのですが、どうでしょうか。それでもこの場合、「バイセクシュアル」は一応可視化されています。
従って、「同性愛者のアイデンティティーの政治」が「原理的に」バイセクシュアルを不可視化するわけではないような気がします。いわゆる「LGBTコミュニティー」に「同性愛者」しか存在しないように振舞うこと、あるいはいわゆる「LGBTにかかわる問題」が「同性愛者」のみの問題であるかのように振舞うことが、問題なのだと思うのです。
もちろん、「バイセクシュアル」を(わたくしがtakashiさんのコメントへの返答として書いたように)そもそも「アイデンティティ」としては成立しにくいもの、つまり、「バイセクシュアルアイデンティティ」をたてた瞬間に、その重要な構成要素の一つ(欲望を喚起する第一の要素が性別以外であるということ)がそれこそ不可視化されてしまうようなものとして考えるとすると、このようなアイデンティティの政治であってもバイセクシュアルを不可視化するとは言えるでしょう。
けれどもひっぴーさんはこちらには賛成なさらないわけですよね?(違っていたらごめんなさい)
ひっぴーさんの御指摘のとおり、「ゲイ」「レズビアン」についても「原理的にはアイデンティティというのは成立しない」ことは確かに言えるのですが(というかそれを言ったらどのようなアイデンティティについてもそれが言えるということは承知しているのですが)、とりあえずここで「ゲイ」「レズビアン」が「性的対象が同性であることが対象選択における最重要要素であるような存在」であるとすると、「同性愛者」というアイデンティティはそれをある程度まではカバーしうると思うのです。それに対して、「性的対象の選択における最重要要素が性別以外である」ような「バイセクシュアル」においては、「バイセクシュアル(両性愛者)」というアイデンティティはそのようなセクシュアリティのあり方を不可視化するものでしかない。そこにバイセクシュアリティの可視化のはらむ問題があると言うのが、先のエントリおよび過去のコメント欄においてわたくしが述べようとしてきたことです。
つまり、この場合、バイセクシュアリティそのものの可視化というのは、それこそ原理的に難しいのではないか、と思います。可能なのは、そして必用なのは、むしろバイセクシュアリティの不可視化の可視化なのではないでしょうか。要するに、「性別」を最優先としないような性的対照選択が承認されないという事態を可視化することに、意味があるのではないか、と。
で、その上で、そのような不可視化の可視化のためには、たとえばパレードのような場面において「LGにB(とT)を加えるように求める」ことというのは、ありえるだろうと思うのですね。これもtakashiさんへのコメントで述べたことですが、

バイセクシュアリティというのは、あくまでもホモ/ヘテロセクシュアリティへの対抗(というのが強すぎれば、それとの関係)という形でしか、そもそも成立しないし、しかもおそらくは、バイセクシュアリティを承認しない/排除する力への抵抗としてしか、成立しない(tummygirl)

と考えて、その文脈において「バイセクシュアル」という名称を利用するということです。わたくしはそれは現状では意味のあることだと思います。(この点で、TLGPについての、あるいは今回エントリで取り上げた問題についての、ひっぴーさんの問題提起のあり方を、わたくしは「あり」だと思うし、支持するわけです。)
ただし、これはこれ自体でまさしく一種のアイデンティティ・ポリティクスです。これと全く同じ理由において(つまり不可視化されているアイデンティティを可視化するという理由において)同性愛者のアイデンティティ・ポリティクスが要請されてきた部分もあるわけです。
同様に、性別を対象選択の第一要素としない人間が、現状で自動的に「バイセクシュアル」ことにされ(そしてその上で不可視化され)てしまうことに対して、仕方ないなあ、とりあえず「バイセクシュアル」と名乗っておきます、そういう人間もいるんですよ、と主張せざるを得ない場合があるように、対象が同性であることを重要視する人間が、本人が「同性愛者(あるいはゲイでもレズビアンでもいいですが)」という名称にアイデンティファイするかしないかとは別の問題として、現状では自動的に「同性愛者」であるとみなされ(そしてその上で不利益や抑圧を受け)てしまうことに対して、仕方ないなあ、とりあえず「ゲイ/レズビアン」と名乗って抗議しておきますよ、という行動をとらざるを得ない場合もあるかな、と思うわけです。
従って、「同性愛者のアイデンティティの政治を解体・一掃すること」には、わたくしは原則としてそのまま常に賛成というわけではないです。そのような政治(あるいはそのような政治が必用であるとする議論)が、個々の場でどのような形を取り、どのような効果を生んでいるのか、どの程度有効であり、どういう点において弊害があるのか、ということには注意を払わなくてはいけないとは思いますが。
その上で、永易さんの仰るような、「それじゃ具体的に何がしたいんだ」という問題というのか、

バイセクシュアリティを承認しないということの問題を承認する」ことに、できれば私は取り組みたいと思いますが、それは具体的にどういう実践をさすのか(永易さん)

という問題ですけれど、上のような理由によって、わたくしは、「承認しないということの問題を承認する」というのは、結局はある意味ポジティブな「こういう風にバイ!」みたいな運動にはならない、と思っています。バイセクシュアリティが「バイセクシュアリティを承認しない/排除する力への抵抗としてしか、成立しない」というのは、極限すれば、バイセクシュアリティが承認されない/排除される場合において「あ〜すみません、そこちょっと待ってください」と突っ込むという形でのみ、「バイセクシュアリティの可視化」は要請されるし、逆に言えば突っ込む必要がなければ(承認しない/排除する力がそもそも働いていない場合は)別にバイセクシュアル可視化関係の「実践」も必要がない、ということではないかと思うのです。
で、ややこしいのですが、異性愛秩序に対しての異議申し立ては(少なくとも現状の日本では)、殆どの場合「対象が異性であることが対象選択の絶対要件であるべきだ」という前提に対してのものになります。ですから、「対象が異性でなくも構わないでしょ?」という形にできるわけで、これ自体はバイセクシュアルにとっても全く問題のない異議申し立ての形だとわたくしは思いますし、LGと一緒に異議申し立てをすることが出来る。
同性パートナーシップをめぐる運動はその点で納得のできる形になっている。アクト・アゲインスト・ホモフォビアも、寄せられた賛同コメントには微妙なものも多かったけれども、それ自体の趣旨にはわたくしは賛同できました。こういう場合は、「バイセクシュアルとして」何かを主張する必要を、わたくしは特に感じません。対象が異性であることを常に要求するのはおかしいですよ、と言うことを、同性を性的な/生活上のパートナーとする(あるいはその可能性のある/法的にそうみなされる可能性のある)人々と一緒に主張していけば良い、と思うからです。
逆にたとえば東京パレードのような場合は、それこそ非常に明白にバイセクシュアルの不可視化が起き、しかもそれを是認する発言も目に付いたわけで、そういう場合には「ちょっと待ってください」と言う必用が生じるわけです。あるいは、「セクシュアリティ」について、「世の中にはホモセクシュアルヘテロセクシュアルがあります」というような形で「のみ」語られるときにも(そんな単純な言い方今更しないでしょ、と思われるかもしれませんが、大学レベルの入門授業でさえ、そういう表現をしてしまっている「善意の」講師はやっぱりまだ見かけます)、ちょっと待ってくださいね、と言う必要が生まれる。
つまり、「同性愛者に対抗することでしかバイセクシュアリティの不可視化を指摘できないことは勿論ない」わけですが、「バイセクシュアリティ」の可視化それ自体を目的としない以上は(これはあくでもわたくしの立場であり、バイセクシュアリティの可視化それ自体が必用だと考える人は、それには同意しないだろうとは思いますが)、皮肉なことに現在の日本においては、同性愛者の存在「のみ」を念頭において非規範的なセクシュアリティが主張される時に、バイセクシュアリティの不可視化を指摘する必要が生じることが多いように思うのです。
ここが非常に厄介な部分であり、たとえばひっぴーさんの指摘に対して「じゃあ、バイセクシュアル・アイデンティティの可視化のために、LGに文句つける以上の何かをすればいいじゃないか」という苛立ちが生じるもとでもあるだろうと思うのです。その苛立ちは分からなくもないのだけれども、同時に、「バイセクシュアリティの可視化」の主張は、日本の現状では、ある種構造的にそうならざるを得ない部分があるのではないか、と。(日本の現状では、というのは、不完全な形であれ「世の中には異性愛者と同性愛者とがいる」というような認識がより広く共有されるようになった場合に、takashiさんのコメントへの返答として書いたアメリカのテレビドラマの例のように、たとえば主流メディアの表象や様々な言説に対して、「いやだからどうしてそこでホモ/ヘテロという枠組みしか存在しないわけかな?」という突っ込みが必用になるということはあるだろうと思うからです。)
これはMakikoさんが御指摘くださった、

制度を批判することは、ロールモデル的な政治(これはアイデンティティ政治と密接に結びついている)に比べて「わかりにくい」。(Makikoさん)

という点ともつながっていると思います。わたくしが考える「バイセクシュアリティの不可視化の指摘」というのは、まさしく「制度の批判」であり「ロールモデル的な政治」にはなりにくく、その分「わかりにくい」。「わかりやすさ」というのが政治(であれ社会運動であれなんであれ)に第一に求められているらしい風のある現在の日本の風土において、運動論としてはこれはもしかしたら致命的欠陥なのかもしれません。確かにAAHなんかはどうも「盛り上がった」とは言えない部分があるし。けれども少なくとも机上屁理屈屋である以上、ロールモデル的な政治に問題があるときに、それを「わかりやすいから」という理由によって正当化しないことが必要なのではないか、というのが、わたくしの今の立場です。
ただ同時に、それこそ同性パートナーシップをめぐる運動を「同性愛者に結婚の権利を求める運動」としないことで、いわゆる「バイセクシュアル」、法的・あるいは自認の問題として「同性愛者」にはならないようなトランスの人々やそのパートナー、あるいは「結婚」という形式には賛成しない(異性愛者を含めた)人々をさえ、そこに巻き込んでいく可能性が生まれるように、「ロールモデル的な政治」ではないからこそ容易になるような広がりというのも、確かにあるように思います。AAHについても、他の運動なり、それこそパレードなり何なり、あるいは教育の現場での個々の取り組みなりと、もう少しうまく連携が取れれば良かったのかもしれないとは思います(実際問題として今回わたくしには何もできなかったので、ただの反省ですが)。単発で終らずに時間をかければ可能性としてはあるかな、と。
ちっともまとまらず、具体的にならずで、申し訳ありません。しかも、結局のところ具体的に文句をつける以外に何ができるのか、あるいは「わかりやすく」するためにはどうすればいいのか、ということについては、現時点ではわたくしの能力をはるかに超えた問題で、一般論としてお答えすることは難しいです。とりあえず現状では、自分がかかわる場では「バイセクシュアリティの不可視化の指摘」を一々しなくても良いような形で問題を設定するようにつとめること(<アイデンティティ政治>ではなく<制度批判>の方向で問題を設定すること、になりますが)、そして「不可視化」がおこっている場ではそれを指摘してみること、くらいしか、わたくし自身にも出来ていないので。(しかもそうやって<制度批判>の方向で問題を設定すると、<アイデンティティ>単位での不可視化が再燃したりしますし。)