あなたのクィアがわたくしを動かす

わたしが探求したい晩年の経験とは、不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らい続ける、ある種の意図的に非生産的な生産性である(28-29)

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まだ一章を読んだだけなので本全体について何が言えるわけでもない状態で、文脈も何も滅茶苦茶な自由連想みたいな話で恐縮なのだけれども、この本に出てくる「晩年のスタイル」は、わたくしには圧倒的に「クィア」なものとして響く。それは、「クィア」の学術的な、あるいは政治的に有効な定義にかかわるのではなく、むしろ、わたくしにとってクィアという語が含み持つ感覚、あるいは誤解を恐れずに言えばわたくしにとってその語のいわば「原型」を形作った二人の人物に、かかわっている。

この章を読んだのがクィア学会立ち上げ大会直後だったこともあるのかもしれない。「晩年」についての記述を読みながら、雑務に追われる中でこころの片隅におしやっていたのかもしれないその感覚、彼らのクィアがいかにわたくしを動かし落ち着かなくさせたのかを思い出し、わたくしのしていることが彼らのクィアからいかに遠ざかりつつあるのかを考えて、わたくしは夜中に一人部屋の中を歩き回ったりした。

ベートーヴェンの晩期の作品について語るアドルノを介してサイードが語ること。

「部分が一丸となって創造する全体像」を喚起せずに、部分をつないでいるものが何かは語れない。部分間の差異を最小限にとどめることもできない。そしてまた実際に統一に名前をつけること、統一に特別のアイデンティティをあたえてしまうことは、作品のカタストロフィとしての力を殺ぐことになるだろう。したがってベートーヴェンの晩年のスタイルの力は、否定的なところにある。もっと正確にいえば、否定性こそが力になっている。晴朗さと成熟とが期待できそうなところに、頑迷固陋で、気難しげな、非妥協的なーーおそらく非人間的ですらあるーー挑戦的姿勢が見いだせるのだ。「晩年の作品における成熟は」とアドルノはこう述べているーー「果物に見出せる類の成熟とは似ていない。晩年の作品は・・・・円熟していない。むしろ、しかつめらしく荒々しい。甘さがなく、苦く刺々しく、容易に享楽へと身をゆだねない」(EM564[195])。ベートーヴェンの晩年の作品群は、高次の統合によって和解へと到達したり懐柔されることはない。それらはいかなる枠組みにも合致しない。それらは調和とも和解とも無縁である。(35-6)

その二人の人物のセクシュアリティが「何」であるのか(あったのか)、わたくしは知らなかったし、今も知らない。おそらくこの先も知ることはないだろう。クィアから同性愛の具体的連想を切り離すことの政治的問題とは別の次元で、わたくしにとってその言葉は、最初から同性愛という特別の名に留めつけられたものではなかった。

ただし彼らがわたくしと違うのは、彼らにとってのクィアは、圧倒的かつ非妥協的に、クィアという名前にすら留めつけられていなかった(いない)だろう、というところだ。アカデミックに厳密に言えばこうだが政治的有効性を考えれば違うとか、アカデミックな議論への理解が一方にあって自らの生活やアイデンティティが他方にあるとか、そういう安易な妥協に回収されない、そう、「頑迷固陋で、気難しげで、非妥協的な」何かをわたくしは彼らに見ていた。それはわたくしを怯えさせ(「おそらく非人間的ですらある」)、わたくしを魅了し、わたくしの中での「クィア」という言葉を、ただしその言葉の意味ではなくその感情を、形作っていったのだ。

ひとりはわたくしの先生、正確にはわたくしが勝手に先生だと考えている人で、わたくしに「クィア」という言葉を最初に教えたのはその人だった。「教員だからこそとりあえずゲイならゲイ、レズビアンならレズビアンだと名乗ることに意味があるのではないのですか」と絡んだ学生時代のわたくしに、その人は「いや、だからわたしはクィアですから」と答え、「クィアって、じゃあ、何なんですか」とさらに言い募ると、「しりませんそんなの、自分で考えて下さい」と応じた。

時には、学生であったわたくしがぎょっとするほどに挑発的であったり断定的であったりした。クィア理論の小さなブームがあった90年代半ばだったか、もっと後になってだったか、「今の日本で高等教育を受けた女性がフェミニストでないとしたら、その人には知性がないんです」とその人が言った、と聞いた時の驚愕を、忘れることができない。その時にその人が何を伝えようとしていたのかわたくしは知らないし、今、別の文脈で別の人に対して、その人が同じことを言うのかどうかも、わからない。けれども少なくともわたくしは、なぜその当時その人が「日本で高等教育を受けた女性がフェミニストでないということ」を「知性がない」と表現したかったのか、それについて考え続ける羽目になった。

就業事情が悪化するアカデミズムの中で学生が生き延びる可能性を高めるための制度的支援を整える反面で、自分の人間関係や「学会での立場」は言うまでもなく、学生の就職やら「学会での立場」やらが不穏なことになったとしても、批判においても挑発においても、懐柔されたり妥協したりしない人だった。普通そういうことはしない/言わないもんでしょうという思い込みがしばしば通用しない人であるように、わたくしには感じられた。

その人が学会の設立大会に来て下さらなかったことは、わたくしにとっては幸運だった。制度をつくりあげるお祭りの前に言葉を呑み込んだこと、しかも「クィア」と名乗る場でみずから率先してそれをおこなったこと。場をわきまえた行動を、少なくともわたくしに可能な範囲で、こころがけること。その人がいらしていたら、恥ずかしさ(あるいは罪悪感だろうか)のあまりわたくしはその場でひび割れてしまっただろうと思う。あるいはその方がましだったのかもしれないけれども。

場をわきまえた行動。時宜にかなうこと。その場にある制度に自らを入れ込むこと。

かくして遅延性=晩年性(tummygirl注:lateness)は、みずからがみずからに課した追放状態、それも一般に容認されているものからの、自己追放であり、そのあとにつづき、それを超えて生き延びるものなのだ。(40)

そしてわたくしはもう一人の人を思い出す。追放されることを決して容認せず、ましてやそれを追い求めることもなく、しかし、どうでもよさそうな小さな事柄への執着によって、常に微妙に追放されていた人、そしてその事に歯ぎしりしながら抗議をしていた人のこと、その人の愛らしさのことを。その人の晩年を。

その人は一つの国の中で植民地化されたもう一つの国の文化を引き継ぎ、けれども植民地化した国の制度においては十分に(圧倒的ではないにせよ、「ほどほどに」)恵まれた条件を具えており、二つの国の言葉を自由に操りつつ、どちらにおいても常に言葉につまづき言葉を探してお世辞にも雄弁とは言えず、学術書を出版することが夢だという学生でありながら、大学内の掃除の女性や売店のお姉さんとは、あるいは外でビッグ・イシューを売っているお兄さんとは、気がつけば誰より早く誰より仲良くなるのに、学部の有名教授や学会で活躍しはじめた先輩に自分を売り込むことが下手で、どこにいてもいつも居心地が悪そうだった。そして、はみ出しものや半端ものをなぜか惹き付けるその人は、言葉もろくにできないくせに、クラスメートよりも大分年をくっているために理屈っぽいことだけは理屈っぽい、不機嫌な留学生であったわたくしの、一番の友達になった。

その人は、与えられたジェンダーになじめず、けれどもジェンダー越境という概念にもなじめず、通り過ぎる同僚学生を品定めするダイクの友人の姿勢についていけず、自分は十分にダイクではないし余りにフェミニストだと悩んでいた。けれども、必死で女らしい装いを心がけているのにどこかでやりすぎて失敗しているようなぎこちないヘテロ女性ばかりに、しかも「全然友達になりたくないのに、ああいうタイプ」という女性ばかりに、全力で片思いし続けるその人の欲望のあり方は、そのおさまりの悪さと、その人自身にとっての欲望のどうしようもない他者性のゆえに、わたくしにはまさしくクィアなものであるように思えた。

その人について何よりも思い出すのは、しかし、その人が居心地の悪い状態を選んでみずからそこに身を置いているように見えつつ、同時に、決してその状態を穏やかに受け入れていたわけではないこと、常に自分が追放されていることに憤り、憤りを適切に表現するための言葉を探すのに決して妥協をしなかったことだ。だから、その人がマスターの論文のテーマとして「ユートピア」を選んだのは、とても自然なことのように思えた。この世界にしっくりおさまらない人が、そしてそれを悠然と穏やかに受け入れる気持ちなど微塵もない人が、研究のテーマとするのに、500年近くも前の著作からはじまる「ユートピア」の概念ほどふさわしいものが、あるだろうか。

もちろん、その人が論文を書き上げることはなかった。そのような「適切で」「時宜にかなった」結末を迎えるわけなど、そもそも可能性としてもなかったようにすら、わたくしには時に感じられる。けれども、実際に起きたのはそのようなことではなく、もっとずっと散文的で退屈で絶望的なことだった。その人は、自宅の前の道路を横断しようとして学生の運転する自動車にはねられ、一週間ほど意識のないまま眠った後、二十五にもならない歳で、あっさりと死んだ。

「自分はダイクっぽく見えないから馬鹿にされるのだ」と言って、その人がいきなり髪を全部刈ってきた時のことを、思い出す。丸刈りにしたその人は、ちっともダイクっぽくは見えなかった。単に、子供であって子供でないような、人であって人でないような、何か別の存在に見えた。その人の葬儀の後、「あの人は、でも、何か最初からこの世界に属していないようだった」と言って周囲の顰蹙を買った同級生がいたけれど、その発言のタイミングのまずさは別として、わたくしには何となくその気持ちがわかった。その人の何かが、わたくし達が「この世界」を認識するために使っている何かからはみ出していて、その人はそのはみ出した部分を決して誤摩化そうとしていなかったのだ。

あなたは今のわたくしと友達になってくれるだろうか。

晩年のスタイルは、まぎれもなく現在のなかに存在しながら、奇妙なことに現在から離れている。(51)