余計なお世話と批判とのあいだで

先のエントリについてGORDIAS(まだ星が出せない)にてfont-daさんから反応をいただきました。コメントを書こうと思ったら長過ぎたので、こちらにあげます。

わたくしはこの研究会に所属しておりませんし、『NANA』も『報告』も読んでいないので、ここに書かれたエントリからしか判断ができませんが、挙げて下さった例に関しては、仰ることに概ね賛成です(「フェミニズムがあれば違ったものになっただろう」と「フェミニズムがあれば解決するだろう」は意味合いが違うようには思いますが、全文を読んでいないので何とも言えません)。
また、「研究会」の会員同士が批判を書き合うこと(研究会会員同士ではなくとも、フラットに「ここはおかしいのではないか」という批判を投げかけること)と、「大学人フェミニストはわかってないなあ、同じ大学人でも私はちゃんと気がついたけれどもね」と上から啓蒙することとは、もちろん違います。「余計なお世話」だなあとうんざりしたのは、後者です。というか、kanjinaiさんのエントリが後者の方に読めてしまったので(これはわたくしの被害妄想だったようなので、実際にkanjinaiさんのエントリがそうだったということではありません。申し訳ありませんでした。)、そのような「上目線」な表現に対して「余計なお世話だわ」と脊髄反射してしまったのでした。その意味では、font-daさんのエントリが「余計なお世話」だとはわたくしには読めませんでした。
ただ、その上で。「正しいフェミニズム」「完成されたフェミニズム」はないだろうけれども、個々のフェミニストが「より正しいと思うフェミニズム」「より良いと思うフェミニズム」はあるだろうと思いますし、大学の、とりわけ講義においては、それを伝えようとするものではないかとも思います。個人的には、学生としてであれ同僚の研究者としてであれ、わたくしが自分で接して信用できると思ってきたジェンダー論の講師(あるいは研究者)たちは、「わたくしはこれがより望ましいと思う。わたくしはこうだと考えている」と、きちんと伝えようとする人たちです。というか、わたくしにとってはそれが最低限の条件です。
もちろんそれが押しつけにならないようにすることは重要だとは思います。講師/生徒の力関係がすでに存在している中で何かを伝える時に、「押しつけ」の危険を完全に排除するのは難しいとも感じますが。これまた個人的な経験で恐縮ですが、わたくしが学生の時には、「わたくしはこれがより望ましい、より正しいと思う。それはこういう理由だ。あなたはどう考えるのか?」と問うてくれて、こちらの返答がおかしいと思えばきちんと論破する、納得できる点があれば「その点は確かにそうだったかもしれない」と認めてくれる教員に対しては、いくら論破されても、あちらの考えを押し付けられたという気持ちにはなりませんでした。現在の自分にその先生と同じことができている、ということではありませんが<ダメじゃん。
それから、蛇足ですが。一つ二つの批判くらいで「大学人フェミニストからハブにされる」って、すごくなさそうだと思います。というか、そんなに密でタイトな「大学人フェミニストコミュニティー」なんて存在しないと思います。あ、それともわたくしが(いちおう大学人フェミニストなのに)「大学人フェミニストのコミュニティー」を知らないだけなのかしら。怖。
で、それもあって「大学人フェミニストのイメージ」が悪いのも、わかってはいるし残念なことだとは思っても、どうしようもないなあとも思っています。「大学人フェミニスト」といってもあまりにも色々な人がいますし、わたくしが好ましくないと思うタイプの「大学人フェミニスト」一人一人に「それは違うと思います」と「啓蒙」してまわるわけにもいきません。個々のエントリや発言や行動に対する御批判については「わたくしはそれについてはこう思います」と反応することができるけれども、「大学人フェミニスト」という漠然とした総体のイメージについて危機感を持たないのかと批判を受けても、どうすれば良いのかちょっと想像がつかない、という感じです。ごめんなさい。