「女性学」の議論と実感

そもそも口出ししたことを激しく後悔しはじめているのだけれども、やりかけで放棄するのは後味が悪いので、学期が始まって過労死する前に、とりあえず。
id:discourさんのところでの議論へ、トラバです(日付の古い順に)。

最初の二つのエントリにはコメントを書いたのですが、今回はコメントはやめてトラバにします。エントリが次々と更新されてコメントの流れが断ち切られるためか、申し上げたいと思っていることをきちんと伝えられていない気がするのです。勿論、エントリの更新などは管理者のdiscourさんの御自由になさればよいことであってわたくしが不満をたれる筋合いはないのですが、他方で、こちらとしても、毎回毎回前に書いたことを参照したり書き直したり、あるいはこちらのブログで既に述べたことをあらためて繰り返したりするのもつらいので、もういっそこちらに書いてしまおう、ということです。
discourさんが「どうぞ議論をしましょう」と仰るのでついついその気になっていたのですが、もしかしたら既にdiscourさんはわたくしの考えている方向での議論をなさるつもりはないのかもしれない、とも思います。まあ、そうであればそれでもいいや、という感じで<突然の脱力。
わたくしがそもそも最初に口を出した理由と、「もしかして既に議論をなさるつもりはないのかもしれず、まあそれならそれでもいいや」と思う理由とは、全く同じではありませんが、重なっているような気がします。まだそこをちゃんと筋道立てて書ける自信がないので、ごちゃごちゃになってしまったら申し訳ありません。
細かい議論はdiscourさんのエントリおよびコメント欄をお読みいただくとして、ここまでの議論をわたくしなりにまとめると、次のようになります。
まず、「ジェンダーフリー」女性学運動という問題のエントリにおいて、「主流女性学が「保身のための学問」に陥」っているのではないか、というdiscourさんの御指摘がありました。それを受けたコメント欄で、女性学の制度化・権威主義化への批判、とりわけ制度化された女性学をバックにした30代女性学者がその権威主義化に拍車をかけて女性を分断するような権力構造を助長しており、結果として女性学が草の根の実感や運動とずれてしまった、という意見が出て、これをdiscourさんは「女性学における「権威主義」の(30代女性学者への)継承という問題に、ささやかな場であれ蓋をすることなく議論できたのは小さな一歩ではないかと」と評価なさいます。これに対して、june_tさんが同じくコメント欄で「30代女性学研究者の女性」という括りは大まかに過ぎるのではないかという疑問を提示なさり、わたくしは「(主流)女性学」「権威主義化」「制度化」などの用語で何が念頭におかれているのかをまず明確にして欲しいと述べました。
ここでわたくしが申し上げたかったのは、基本的には「女性学」批判は個々の具体的事例を検討していく形でなければ有効ではないだろう、そしてあえて「女性学の権威主義化」という形で批判をするのであれば、せめてそのそれぞれの用語をもう少し明確にしないと話が食い違うだろう、ということでした。
その具体例として、わたくしは、それまでのコメント欄で「女性学の権威主義化」として語られていた現象に、少なくとも三つのタイプがあり(「女性学」を代表している学者が行政を利用し、あるいは行政に利用されて、馴れ合いが生じている/小難しげな「女性学」と草の根市民運動の間に乖離が生じている/エリートである女性学研究者がその立場性に無自覚なままに制度の保持に走っている)、それらを全て一まとめに議論するのは無理ではないか、と述べました。
その個々の問題についてのわたくしの考えはまた機会があれば別に書くとして、この一連の議論でわたくしが非常に気になった点が、大きく言って三つあります。
一つは「30代研究者=エリート=勝者」という区分の乱暴さで、これについてはjune_tさんが述べられているので、詳しくは触れません。確かに研究者になれるだけの財政的・教育的資源のあった人はそれだけで恵まれていると言うことはできますし、大学教員という立場を確保することで得られる一定の「権威」もあります。それに無自覚であってはならないという批判には、わたくしも完全に同意します。
ただし、「30代研究者」が全て自動的に大学教員の立場を確保できているわけではなく、ましてや「キャリアのために」女性学を研究するなどという奇特な人はとても少ないだろうとも、思います(研究者としてのキャリアを考えるなら、女性学とかフェミニズムとかジェンダー論とか、そんなものはやらない方がはるかに得です)。そのような表現は「批判」ではなく「非難」であり、多くの場合に根拠のない非難です。
一部の成功している若手研究者を見て、研究者でない方がそのような誤解をなさるのは仕方のないことですが、日本の「女性学」「フェミニズム」系統の研究業界をご存知のはずのdiscourさんが、そこの部分で最低限の誤解を解くことをなさらず、むしろ「「権威主義」の(30代女性学者への)継承という問題」という表現で、非常勤の口さえ見つからずに苦労しているような人を十把一絡げに含んだ「若手」の研究者へと「権威主義」を転嫁し、あたかも他人のことであるかのように批判なさっている(少なくともわたくしにはそのように思えました)ことには、違和感を覚えます。
第二の点は、「女性学」「市民(運動)」という言葉の大雑把さです。discourさんはじめコメントを寄せられたかたそれぞれが「女性学」や「市民(運動)」という言葉で何をイメージしていらっしゃるのか、正確には分からないのですが、わたくしは、とりあえず皆様が「女性学」という言葉を、Women's Studies, Gender Studies, Feminist Studiesなどを全て含むものとして捉えていらっしゃるのではないかと考えておりました(「日本女性学会」の「女性学」はそういう感じだと思うので)。
その場合の「女性学」は非常に広い研究手法と研究対象を含む領域であると考えますし、個々の研究者がその全てを常にカバーすることは実際には不可能である以上、それぞれの研究者にとっての「女性学」が、どのような「市民(運動)」とどのように繋がっているのか、そのつながり方は非常に多様だと思っています。そしてその研究者それぞれの立場によって、「女性学」の何が主流で何が周辺的か、何が「市民」の必要と繋がっているのか、それは全く違って見えてくるだろうと思うのです。
たとえば、わたくしにとって現在もっとも関心もあり利害関係もあるテーマは、ジェンダー規範の下で非規範的な身体や性がどう生き延びるかということであり、それは具体的・日常的レベルでは、ジェンダーセクシュアルマイノリティが直面させられている諸問題をどう考え、それにどう対処するかということに、かかわっています。
このようなわたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリーは要するに男女平等だ。女性差別撤廃だ。」という論調は、ちょっと困ります。「ジェンダーフリー」には問題もあるでしょうし、これまでのところ、実際にプラスよりもマイナスの機能の方が大きかったかもしれないけれども、少なくとも理念上は、ジェンダーマイノリティ、セクシュアルマイノリティの直面する問題をすくいとる可能性を持った部分を、持っていました。「ジェンダーフリー」を「男女平等、女性差別反対」に戻してしまう論調を上野さんのようないわゆる「大御所」が引っ張るという構図は、そのような部分を切り捨て、とりあえずより分かりやすい「女性」の問題だけにターゲットを絞ってしまうという点で、悪い意味で「主流女性学的」だとわたくしには思えます。discourさんも参加なさっているジェンダー・コロキアムが「わたくしの立場からは主流女性学に見える」と申し上げたのは、そういう意味です。*1
繰り返しになりますが、わたくしがこういう例を挙げるのは、「こっちの方がもっと傍流、もっとマイノリティ」という「傍流あらそい」をしたいからではありません。discourさんやyamtomさんの御立場から見て、「ジェンダーとかジェンダーフリーだとかの小難しい定義に時間を費やして」、より火急の問題に取り組めなくなることをご批判なさるのは、良くわかります。けれども同時に、わたくしの立場から見ると、「ジェンダーフリー」をめぐる定義の問題(要するにそれを「男女平等で置き換えられる」と言うか言わないか、といったことですけれども)というのは、現実に望ましくない効果をもたらす可能性をはらむ事柄であり、日常レベルでの実感や運動にかかわることであって、どうしてそこを「主流女性学」がちゃんと考えてくれないのかなあ、と感じるわけです。
同じように、たとえばdiscourさんは最新のエントリで、「そうそう、仕事も家庭も両立して地域の役もしっかり仕事モードでこなしている人にとっては、性別にとらわれずに自分らしくなんて寝ぼけたことを言っているから、バックラッシュと呼ばれている人たちのほうへ走る人も出るんだよね。」という感想を、「仕事や暮らしに毎日一生懸命かつ元気にこなしておられる女性たち」のものとして、紹介なさっています。確かにそういう感想はあるでしょうし、そのような立場の人々が何を望んでおり、どういう問題に直面しているのか、それをきちんと理解して、問題の解決に向けて共に取り組むのも、「女性学」の重要な仕事だと思います。
ただ同時に、「仕事も家庭も両立」したくてもできない人はまた違う感想を持つでしょうし(たとえば同性カップルの場合だと、「家庭を維持する」だけのことに、事実婚を含む異性カップルとくらべて、はるかに多くの時間と労力が必要になりますよね)、また違う優先事項があるでしょう。「性別にとらわれずに自分らしく」というのは、それが「誕生時に法的に割り当てられた性別にとらわれることなく」ということであれば、ジェンダー・マイノリティの一部の人にとっては、「寝ぼけたこと」どころか就職から日常生活の細部にまで及ぶ重要事であり、そういう「寝ぼけたこと」を言わないような女性学は、それこそ実感と乖離した「寝ぼけた」ものだと感じられるかもしれないわけです。
discourさんが紹介していらっしゃるような実感が実感として十分ではないというのでは勿論ありませんし、そのような実感から生まれる批判が批判として妥当ではないというのでもありません。ただ、そのような実感だけが実感ではないし、そこから生まれる批判だけが批判でもない。だからこそ、「どの」「市民(運動)」と「どの」女性学とのつながり(あるいはそのつながりの欠如)について話しているのかを明確にしないと、意味がないと思うのです。
このような「実感」の問題は、わたくしが一連の議論で気になった第三の点と、つながってきます。「研究者」、ここではとりわけ、女性学なりジェンダー論なりの研究者のスタンスの問題です。
discourさんのエントリのコメント欄でも書いたように、わたくしは、「女性学」のあらゆる分野が、必ず、そして直接的に、何らかの「運動」の「役に立つ」べきだとは、思いません。ただし、それは学問の成果を社会に還元しない、ということとは必ずしも同じではありませんが。「学問」が直接的に「運動の役に立つ」ことを要求する考え方は、「女性学」を非常に狭く定義してしまうことになり、いわゆる「運動」に直結しない形で(けれどもそれを間接的に支えたり可能にしたりする形で)知や感性を組み換える可能性を持った一連の研究を切り捨てかねません。けれども、そのような知や感性の組み換えは、それがただちに直接的な形態を取らないとしても、社会へと還元されていくものだとわたくしは思います(discourさんも一度引用なさっていたバトラーの仕事などは、そのような研究の最良の部類でしょう。勿論、あれだけの影響を与える仕事ができる研究者は殆どいないわけですが、最初から成功することがわかっている人「だけ」をより分けてそういう仕事を許可することもできませんし)。
それからこれはより重用なことですが、わたくしは「女性学」の「研究者」の「責務」というものがあるとすれば、それは研究者以外の人々の実感なり「声」なりを常にただそのまま伝達することではなく、それを個々の研究者の視点で捉えなおしたり整理したり分析したりするところにある、と思っています。というより、それをするのでなければ、研究者なんて不要で、市民の代表としての政治家なり、表象のメディアなりがあればいい。
研究者は、研究対象にかかわる事象の当事者ではない。実際には、とりわけ「女性学」においては、一人の人間が研究者であり当事者でもある場合はいくらでもあるでしょうし、その場合にはその二つの属性を切り離すことは事実上不可能でしょうけれども、少なくとも名目上研究者に求められているのは、「研究者として」、つまり自らの「当事者性」からは一度離れて、事象を整理・分析し、提示することです。個々の当事者の「実感」は、他の当事者の「実感」と整合性があるかもしれないし、ないかもしれない。研究者は、それらの「実感」に文脈を与える作業のために、時間とお金と資源を与えられているわけで、そのためには、具体的な個々の「実感」からは、少なくとも名目上というかタテマエとしては、一度離れなくてはならないだろうと思います。
従って、研究者は研究対象(それは人であったり作品であったり事象であったりするわけですが)に対して常に必ず不当であり、暴力的であるし、それを避けることはできない。研究者にできるのは、その不当さや暴力を自覚すること、そしてその程度を可能な限り減らそうと努めることだけです。だからこそ、「研究者」が「当事者」を無媒介に紹介しているだけであるかのように振舞ったり、あるいは「無媒介な当事者性」を自らの議論における錦の御旗に仕立てたりすることに対しては、警戒しなくてはならないと思っています。
そしてこれが、discourさんが本当に議論をなさるおつもりなのかどうか分からないとわたくしが書いた理由でもあります。わたくしが最初のエントリのコメント欄で「主流女性学」「権威主義」などについてどのような定義をなさっているのかを伺った後、discourさんは今のところそれに答えて下さってはいません。「活発な議論をお願いします」とおっしゃるわりには、discourさん御自身の議論は保留なさっていらっしゃるようにも思えます。
そのかわりに、最新のエントリで、「一生懸命かつ元気にこなしておられる女性たち」の言葉や、「在野のあんぽんたんな人間」と自称なさる御友人のメールなどを紹介なさって、「世の中的には批判的な意見があふれている」とおっしゃる。discourさんの真意は勿論わたくしには分かりませんが、なんとなく、「研究業界の外部で本当にちゃんと頑張って生きている女性は、私の議論をこうやってサポートしていますよ」という身振りのようにも思えます(深読みのしすぎだったら申し訳ありません)。「主流女性学=<世の中>と乖離」、「discourさんの主張=<世の中>の実感に即している」という構図設定があるように思えるのです。これは、わたくしの気になった第一の点、「女性学の権威主義」を「30代女性学研究者」に転嫁してまるで他人事のように批判なさっているのでは、という違和感にも、つながります。
けれども、上で述べたように、そこで例示されている「実感」は、わたくしの周囲(研究者ばかりではないですよ、もちろん)から聞こえてくる「実感」とは必ずしも同じではありません。あえて「わたくし自身の実感」を例にあげれば、「一生懸命かつ元気に」仕事も家庭もこなせる女性たちも色々と大変な問題に直面しているだろうけれども、[ ]問題も、それと同じくらいか、わたくしにとっては明らかにそれ以上に、大変です。そして「ジェンダーフリーの定義」の問題は、「女性学」がたとえばそのような非婚カップルの「実感」にどう対応するつもりなのか、ということを指し示す、それなりに重要な問題なのです。
ただ、既に書いたように、わたくしは「どちらがより傍流か、どちらがより大変か」という「傍流争い、実感くらべ」をしたいわけではありません。けれども、「こういう実感があります」ということだけをぽんと投げ出して、それを他の「実感」とつき合わせることなく「これは実感だから正しい」「この実感に直接答えられない学問はダメだ」というような議論の進め方をされてしまうと、そこで議論が止まってしまうのも、事実です。いくつもの「実感」をどうつきあわせるのか、どう折り合わせていくのか、それを考えてこそ「女性学」という「学問」であり、「議論」になるのではないでしょうか。
もしかしたらdiscourさんはあえてそのような戦略をとっていらっしゃるのかもしれない。議論ではなく、ある特定の「実感」を提示することこそが、一連のエントリの本当の目的なのかもしれず、だとすれば、わたくしはdiscourさんの御主張に全面的には賛成しませんが、まあ、それならそれで仕方ありません。あるいは、yamtomさんがご自分のブログに書いていらっしゃるように、さまざまな「実感」の存在を前提とした上で、あえて今もう一度ある特定の「実感」に焦点を当てなおし、狭い意味における「女性学」をきちんと立ち上げよう、ということかもしれません。だとしたら、北田暁大的に言えば、わたくしが「ネタ」と「ベタ」の区別がついていなかったということであり、今回の場合discourさんやyamtomさんの戦略に賛成するかどうか以前に、わたくしが一連の議論を読み間違えていたということになります。
ただそれでも、そういう形での「ベタ」な「実感」の利用が女性学なりフェミニズムなりにとって良いことだとは余り思えませんし、ましてやdiscourさんが本当に「女性学や女性運動の将来」を議論しようとお考えなら、このような議論の方向が生産的だとも思えないのです。わたくしも現在の日本の「女性学」(あるいは「女性学会」ですか)がこのままで良いとは思いませんし、「フェミニズム研究者業界」の現状も多くの問題を含んでいると思っています(「ジェンダーフリー」をめぐる一連の動きは、その一例です)。だからこそ、どうせ議論をするなら、ちゃんと議論をしませんか、と思うのですけれども、いかがでしょうか。

*1:これについては、このブログの別エントリで書いていますので、よろしければご参照ください。discourさんのコメント欄でもそうお伝えしたので、わたくしが「主流女性学」と言うときに何が念頭にあるのかご理解いただけるかなと思ったのですが、言葉が足りなかったかもしれません。