id:discourさんへのお返事

前回のエントリに対して、id:discourさんよりお返事をいただきました。
冷静に書いたつもりだったものの後になって読み返してみると多々失礼な物言いがあったかと冷や汗をかいておりましたのに、丁寧なレスポンスをいただいて、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
さて、いずれにせよdiscourさんは議論を新しい方向へ広げようとしていらっしゃるようなので、そちらはとりあえず拝読させていただくことにして、discourさんの最新のエントリに対するわたくしの方からの補足・追加を含めたレスポンスのみ、こちらに再度あげておきます。

30代論について

これはわたくしの書き方もまずかったかもしれません。「30代女性研究者」というテーマはdiscourさんが持ち出されたものでなかったことは理解していますので、「あれは非難です」と書いたのは直接的にdiscourさんに向けた異議申し立てではありません。わたくしが気になったのはdiscourさんが「30代女性学者と一口に言うのは無理だと思いますよ」という訂正をなさらず、むしろ「「権威主義」の(30代女性学者への)継承という問題」という書き方をなさった点だったのですが、その点についてはわたくしの早とちりだったかもしれません。申し訳ありませんでした。

ジェンダーフリーか男女平等か

「男女平等」を唱える方たちに必ずしもセクシュアル/ジェンダーマイノリティを排除する意図がないのは、了解しています。場合によっては、「男女平等」の名目を立て、その範疇での具体的な行動において、セクシュアル/ジェンダーマイノリティへの差別に対応していく、という方法が有効だろうということも、理解できます。
ただ、それでも今の時点で「ジェンダーフリーを男女平等と言い換える」ことについては、わたくしはやはり原則的には賛成できません。「女性差別撤廃」についてはなおさらのこと、「性差別撤廃」というべきではないかと思っています。日本語の「性」という言葉のある種の曖昧さは、「ジェンダー」「セクシュアリティ」などのそれなりに学問的に意味が定まりつつある用語よりも、時と場合によっては使い勝手がいいな、と、こういう時には思うわけですが<話がそれまくり。
理由としては、第一に、いわゆる「バックラッシュ派」なり「アンチ・ジェンダーフリー派」が、一番叩きやすいと感じているらしい、そして事実何かにつけて「ジェンダーフリーの恐怖」として持ち出してきているポイントが、セクシュアル/ジェンダーマイノリティに関係する部分だからです。ジェンダーフリーが「同性愛を認める」「同性愛/両性愛を作り出す・推奨する」「男女別のトイレや更衣室に反対する」などなど。
もちろん、これらの主張のうち、最初のものは「それのどこがいけないの?」であり、二番目のものは全く根拠がなく(同時に「どこがいけないの?」でもありますが)、最後のものについては、わたくしは個人的には「男女別のトイレや更衣室が<当たり前>であるようなあり方は考え直すべき」とは思いますけれども、それは一般にジェンダーフリーの名の下に主張されていることではないし、そもそも「反対する」というのは余りに大雑把です(「男女別のトイレや更衣室を考え直すべき」ということと、「男女別のものを全部廃止すべき」ということとは、全く違いますから)。
けれども、そのような言い方が現状において一定の「脅し効果」を持っているらしいことは事実であり、それに対して、「叩きにくい」部分である「男女平等」を持ち出すことは、確かに例えば個々の女性センターの運営や行政との折衝の内部において有効な場合はあるかもしれませんが、少なくとも「女性学」、あるいはフェミニズムという「学問」としては、卑怯だと、わたくしは思います。
もう一つの理由としては、「男女平等」が実質的に「ジェンダーマイノリティ」の問題への取り組みを排除するものではない、というのは確かだとしても、あくまでも名目的には「オトコ」と「オンナ」との平等について語っているわけで、実質的に排除するわけではないのだからそれでよしとしろというのは、マジョリティの傲慢ではないか、ということがあります。伝統的なフェミの例で言えば、「彼ら」という日本語は男女ともに含むことになっているけれども、あえて「彼ら/彼女ら」と書こうとか、英語で言えば一般人称のone 受ける代名詞は伝統的にはheであり、それは必ずしもそのpersonが女性であることを排除はしなかったけれども、やはりそこはhe/sheとかtheyで受けようよ、と変わって行ったとか、そういうことと同じだと思うのです。
勿論、そういう「呼称」が変わったからといって実質が変わるわけではないし、時には呼称よりも実質が重要であって「とりあえずは」呼称なんて二の次でいいや、という判断は、ありえます。ただその判断はあくまでもマイノリティ側がするものであって、マジョリティ側が「実質は排除していないのだから文句は言うな」というのは、ちょっと違うように思います。
ただし、これは「男女平等を使うな」とか、「ジェンダーフリーを使え」とか言うことではありません。「男女平等」こそが問題になる場合というのは、具体的な事例においては勿論あります。セクシュアル・マイノリティーの内部だって「男女平等」は達成されていないわけだし、そういう場合には「男女平等こそ」主張すべきだということさえあるでしょう。「ジェンダーフリー」にしても、discourさんが従来主張していらっしゃるような、行政との関わり方の問題というのは非常に説得力のある、重要なテーマだと思いますし、「今あるからそのまま必ずこれを使え」ということでは勿論ありません。実際にわたくしは行政が「ジェンダーフリー」に「乗った」のは、「男女平等」が怖かったからではないかという疑いを捨て切れませんし。ただ、それでも「ジェンダーフリー」が「男女平等」では前面に出しにくかった一連の主張を容易にする可能性を持っている以上、「ジェンダーフリーは男女平等で言い換えられます」と、一般論として「女性学」が主張するのは、納得がいかない、ということです。

「女性学」について

これについては、「具体的なプログラムを考えたりあるいはそのための基本的な考え方の議論をする」というのがどこまでをカバーするのかが、もしかしたらわたくしとdiscourさんとでは違うのかもしれませんが(わたくしが「基本的な考え方の議論」だと思っていることが、discourさんのお立場からは「小難しいどうでも良い抽象論」に思えるかもしれないなあ、という気が少ししています)、基本的には仰ることに賛成です。「主流の女性学」を含め、現状の「女性学」の研究者も、殆どがその「つもり」で仕事をしているのではないだろうかとは、思いますけれども。


いずれにせよ、丁寧なレスポンスをどうもありがとうございました。
discourさんのブログでの今後の議論の展開を楽しみに拝読いたします。