クィアとコミュニケーションと宣伝と


ほとんど死地と化している更新されないブログを更新したとおもったらただの宣伝だけかい!というのもアレでございますので、ちょっとだけ雑感など。まあ、ただの宣伝に雑感だけかい!と言われたら、もう汗かいて寝るしかないのですけれども。

直前になってばたばたと準備をしている下のワークショップなのだけれども、コミュニケーションの空間において「クィア」という概念に内包されるある種の「引きさかれ」がどのようにあらわれてくるだろうか、みたいなところから話がはじまりそう。わたくしじつはコミュニケーション論的なことはまったくわかっていなくて、その部分はほかのみなさまにおまかせして沈黙しそうなのだけれど。

ただ、わたくしにとってのクィアという概念の魅力というのは、この概念が、一方では主体の解体とか安定したアイデンティティという概念への批判とかとむすびつけられたり、名詞というよりは動詞として考えられたりしつつ、同時に他方ではどこかつよく「アイデンティティ」、あるいは(承認されるものとしての)主体の主張への欲望にいろどられている、という点にある。

クィアってLGBTのことじゃないわよ!まちがえないでよ!」といった横から、「そっか〜じゃわたしもクィアね!」と楽しくなっているひとに、「クィアって人をさすわけじゃないのよ〜」ではなくて、「ノンケがクィアとかいってんじゃないわよ!」とかみつきそうなかんじ。アイデンティティに回収されることをあくまで拒んでいるくせに、「そうそう、みんなそれぞれことなる個性をもった人間なのよね」などといわれてイラっとしたりして、その理由を考えてみるに、そもそもLを、あるいはG/B/Tを、「人間」にカウントしてこなかったくせに、なにを今更「みんなちがった人間」とかほざいているのよ!という、アイデンティティ・ポリイティクスちっくなところに根があったりする、そういうかんじ。

そのあいだで引きさかれながら、頑固にどちらもてばなさない。もしかするとそのせいで議論が堂々めぐったり突破口がなかったり新展開がみえなかったりすることもあるのに、それでもてばなさない。というより、どちらをてばなしてもヤバいような気がしていて、かといって引きさかれてるのも大変なので、いっぱいいっぱい。ああそういうところがクィアなのよね、と、いとおしい<なにか違う

そういうふうに引きさかれた状態というのは、コミュニケーション空間においても、発言者が一貫して同定(アイデンティファイ)できる空間への要請と、そういう安定したコミュニケーションがすくいとれないものへの欲望との葛藤として、わりと見られるものなんですよ、という話を、参加者の一人であるid:seijotcp氏が前準備の段階でしてくださった。もちろんそれじゃそういう葛藤のあるコミュニケーション空間は全部クィアなのね!というわけではないし(だってクィアはやっぱりLGBTアイデンティティ・ポリティクスちっくなところから完全には根っこがぬけないんですもの)、クィアってコミュニケーションの問題だったのね!というわけでも、もちろん、ないだろう(コミュニケーションというものをどのくらい広く定義するのかにもよるのかもしれないので断言できないけれど)。

けれどもそのふたつの「引きさかれ」が交錯するところに注目するのはおもしろそうだとは思いますので、みなさまお時間があれば、是非<また宣伝。

そういう交錯の問題を最初にわたくしに指摘してくださったのは、発表者(というか発題者かな?)でもあるid:cmasak氏で、そのときに氏はそれとからめて、ウェブ上の時間の経過が特定の発信者にきわめて「ストレート」な成長物語を付与する可能性の問題にすこし触れていらしたのだけれど、じつは、個人的にはそこにより興味があったりする。たとえばホルバーシュタムなどが論じている「クィアな時間」というのが実際どこまで「クィア」なのか、わたくしには少し疑問があるのだけれども、こちらの議論はそういう「クィアな時間」の考察にもきりこめそうで、刺激的だと思う。実際にワークショップでその話になるかどうかは微妙だけれども。

正直、「メディア」系のワークショップに参加するには、わたくしはかなり力不足というか資格不足なのだけれど、それでも今回いれていただいたのは、ブログを通じてのつながりがあったからだろう。メンバーを見ても、なんだかこう、あそことあそこはああつながってるんだっけ?というのがわかるような。

そんな中ではある意味異色でもある飯野由里子氏とご一緒できるのが、今回わたくしにはとりわけうれしい。この間の『女性学』に氏が書いていらした研究ノート「〈クィアする〉とはどういうことなのか?」もとても良かったと思うのだけれど、ミニコミからAll About Japanまで、いわゆる「ブログ界隈」とは少し異なる「コミュニケーション空間」というか「発信形態」にいくつもかかわっていらした方でもあるので、今回のテーマであるコミュニケーション空間における葛藤と「クィア」に内在する葛藤との交錯について飯野氏と議論できるのは、とても楽しみだ(わたくしが前者についてまったくわかっていないので議論にはならないかもしれないですけれども、まあそれはそれとして)。

わたくし飯野氏には個人的にお世話にもなり、だから当然存じあげてもいるのだけれども、氏は、参加者紹介にも「無邪気な〈毒舌家〉」とあるように、わたくしとちがってすぐに感情的になるタイプではなくいつも冷静でおだやかなのに、というよりだからこそ、大変な毒舌家でもある(とわたくしは信じている)。内容以前にそんな氏のトークそれ自体が楽しみだったり<おい

ちなみに飯野氏は今年になって御著書も出版されているのだけれども、これがまたよい本です。フェミニズムクィア関係、あるいは日本の女性運動に興味のある方は、是非ご一読くださいませ。とても重要な本だと思います(知りあいだからじゃないですよ)。


レズビアンである「わたしたち」のストーリー

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というわけで、いろいろとおもしろくなる可能性のあるイベントではないかと思います。あらためまして、みなさま、是非<最後まで宣伝。