私が私を見せるようにあなたが私を見せることはできない


お久しぶりでございます。


またしてもぼちぼち復帰しようかなと思っているのですが、どうなるのか先が見えないのが人生よ、という気もしておりまして、本当にどうなるのかわかりません。何それ。いずれにせよ、いきなり重量級エントリから入ると根がへたれなわたくしは自分の重量級エントリのプレッシャーに押しつぶされること必定ですので、気が向いたら思ったことをまとまらないいままに投げ出すという相変わらずの適当さで、地味に復活を試みようと思います。


というわけで。


世界のナベアツの悲しみと楽しみ/王様の耳はロバの耳
不具を笑えないという不健全がありはしないか?/Weep for me
あなたはなぜ笑っているのか?/キリンが逆立ちしたピアス


笑いと差別性の問題というのはちょっと重量級に入るのでここではとりあえず正面からそれを扱うのは回避するとして(へたれ全開です)、例によって気になった点だけメモ。

身体に特徴があることは、身体に特徴があることにすぎず、笑うことではない。(「あなたはなぜ笑っているのか」)


font-daさんが述べるように、その形状や機能において「わたし」が一般的に「身体」として認識するものとは異なっているような身体は、確かにそれ自体においては別に面白くも何ともない。しかしおそらくはそれにとどまらず、「わたし」にとって「異なる身体」は、しばしば「わたし」の身体の同一性を揺るがしかねない恐ろしいものになりうるのではなかろうか。恐ろしいからこそそこから目をそむけたくもなるし(これを同一化の可能性を拒絶しようとする欲望と考えることもできるだろう)、逆にだからこそ状況によっては、そこに目を引きつけられることにもなる(これを性急な同一化を通じて恐怖を解消しようとする欲望と考えることもできるだろう)。

規範的な身体と「異なる」身体を展示する「見世物」というのは、何よりもまず、この後者の欲望に訴えようとするものではなかっただろうか。だからこそ「見世物」は必ずしも「笑える」ものである必要はない。むしろ異なる身体を展示する「見世物」においては、ホラー映画を見るような「怖いもの見たさ」が先にあったと考えても不思議ではないだろう。「笑い」は「恐ろしいもの」の衝撃に対する防御反応として生まれたかもしれないし、あるいはすでにそれを「恐ろしいもの」と感じさせない何らかの装置があるからこそ、差異を劣性とみなして「嗤う」ことが可能なのかもしれない。

いずれにせよ、「見世物」が「見世物」であるために必要なのは、展示されている身体があくまでもそれを眺める身体から隔離されていること、眺める身体が展示されている身体に取り込まれ同一化されないことを保証する(ように見える)装置があること、であるだろう。そのような装置こそが「見世物」であるといっても良いかもしれない。見る者の同一性を脅かさない「対象」として特定の身体を展示すること。見る者と見られる者という明確な方向性を維持することで、見られる者からの働きかけをあらかじめ遮断すること。

もちろん、そのような装置が常に意図された通りにだけ作用するとはかぎらない。見る者の優位と同一性を脅かさないはずの「見世物」がそれにもかかわらず見る者をかき乱し不安にさせる可能性、封印したはずの欲望が、見る者と見られる者、「わたしの身体」と「異なる身体」との間に想定されていたはずの境界線を無効にする可能性は、常に存在する。あるいは両者の断絶を前提としていたはずの「笑い」がまさしくその断絶を必要としていた同一化への抵抗を取り除くことすらあるかもしれない。

とりわけ、見世物において「展示されていた」身体が、ただ単に「展示される」ことをやめてそれ自身を「見せ」はじめる時、見る者と見られる者の間に想定されていた関係は大きく変容せざるを得ない。自らを見せる身体は、それ自身を見る者を見ているのであり、見る者の視線を予期してそれを操作しようとするのだから。

そうであれば、たとえば映画『フリークス』は、異なる身体の展示への抵抗を引き起こしただけではない。むしろそれは、異なる身体が受動的な「展示されるもの」に回収されず、規範的身体の同一性を脅かすべく働きかけをはじめる事への恐怖と抵抗をこそ、引き起こしたのではなかったのか。

難しいのは、この手の笑いを不健全と見る態度が本当に健全か、という問題である。昔、トッド・ブラウニングという人が“フリークス”という映画を撮った。(中略)愛するサーカスを舞台にした映画に、同業者たちを使ったトッド・ブラウニング。この娯楽作品を非難し上映を妨害した良識人たち。果たして不健全なのはどちらか。(「不具を笑えないという不健全がありはしないか?」)


従って、たとえば『フリークス』という映画でおきていること、あるいは「異なる身体」を持つ人がその差異を含めて自らの身体を「見せる」ことは、規範的な身体を持つ人が特定の差異を記号化して利用することとは、根本的に異なっているというべきではないか。前者において「異なる身体」は、「展示される身体」から「見せる身体」への移行を通じて、規範的な身体による同一化の拒絶と、それと裏表にある規範的身体の優位性とを変容させる可能性を獲得している。それに対して後者における「異なる身体」は、「自らを見せる」可能性を拒絶されているばかりか、記号に回収されえない身体の「展示」を通じて記号化にさからう反応を見る者の中に引き起こす可能性すら、奪われているのだ。

誤解しないで欲しいのだけれども、これは、規範的な身体を持つ人が何らかの差異を演じてはいけない、ということではない。規範的な身体を通じて異なる身体を見せることによって、特定の身体への同一化の拒絶がやわらいだり、また別の特定の身体の優位性が揺らいだり、ということは、もちろんありうるだろう。ただ、それは「異なる身体」が自らを見せることと同じものではない、ということなのだ。

その二つを混同して『フリークス』への(あるいは「障害者が障害をウリにした芸人をやる」ことそれ自体への)非難と「ナベアツの芸」が依拠する記号に対する批判とを「安易なヒューマニズム」としてつなぐ考察は、「安易なヒューマニズム」の愚かしさに対して鋭敏であろうとするあまり、身体と視線をめぐるポリティクスへの鋭敏さを欠くことにならないだろうか。