ジェンダーフリーは性差の否定を否定するべきか。

成城トランスカレッジ!さん「ジェンダーフリーとは」というページを立ち上げられたり、04年の東大ジェンダーコロキアムの報告がアップされたりとか、「ジェンダー表現についての整理」男女共同参画会議の専門調査会から出されたりとか、昨年後半くらいから、アンチ・ジェンフリに対抗する動きが目に付いている。その流れの中で、微妙な居心地の悪さをずっと感じていた。「そうそう、そうなんだけれど・・・、でも、そうなの?」みたいな<研究者として絶対に駄目。
「アンチ・ジェンフリバッシング」の試みは心強く感じているし、うまく言語化できていないままに細かい揚げ足とりをしてもなあ、というためらいがあったのだけれども、一度ここでその「違和感」をまとめておこうと思う。
わたくしの違和感は、一言で言ってしまうなら、ウェブ上、ML上でしばしば見かけるジェンダーフリーバッシングへの対抗言説が、「ジェンダーフリー」、さらには「フェミニズム」という言葉の定義を狭めていく危険性を持っているのではないか、というところにある。
言葉の定義?そんなこと、今実際に起きているバックラッシュやさまざまな差別とどう直接に関係があるのよ、言葉がどう定義されようとそれを使って具体的に何がされているのかが問題でしょ、と言われそうだし、まあ確かにある程度まではそのとおりなので、そういう回りくどい空論の嫌いな方はここで終わってください。このエントリ、長いですし。けれども、へたれ机上フェミであるわたくしにとっては、言葉の定義というのは結構大切な問題だったりする。とくに、言葉の定義に変更が加えられようとしているとすれば、その変更にはどのような意図が、あるいはどのような効果(これは意図とは別モノとして)があるのか、へたれなりに考えてみたい。

ジェンダーフリー」:どのような目的で採用され、使われていたのか

最初に自己申告しておくと、「ジェンダーフリー」という用語については、一年半近く前に一度ブログに書いてかなり厳しくご批判を受けたことがある*1。わたくしはこのとき、「ジェンダーフリーは性差を否定するものではない」「男らしさ、女らしさに疑問を唱えるものではない」というような政府側の発言を続けざまに目にして、「そもそもフェミの側で<ジェンダーフリー>と言うことばで男女平等しか意味するつもりがないなら、ジェンダーフリーなんて言葉を使わずに男女平等って最初から言っていた方が良かったんじゃないの」と述べ、それに対して、実際の使用においてジェンダーフリー=男女平等では「なかった」し、その点こそが真っ先にバッシングの対象になったのであって、「ジェンダーフリーではなく男女平等という用語を使い続けるべきだった」などと安易に言うべきではない、という批判を受けたのだった。つまり、実際にジェンダーフリーがどう使われてきたのかについて、わたくしの主張の前提には誤りがあった。
わたくしは今でも自分ではジェンダーフリーという言葉は使わない。けれども、狭い意味での「男女平等」の達成に加えて、「男らしさ、女らしさ」の概念*2や男女を自明の前提とする「性別」の概念の問い直しをもその射程に入れるような一連の試みに名前を与え、しかもその全体にタテマエ上であれいわば公的な承認をとりつけるという目的で、一つの用語を採用・使用しようという戦略があったとすれば、それは理解できる。もっとも政府に近い立場で*3ジェンダーフリー」という用語を採用した大澤真理氏も、この用語にそのような役割を期待していたように思える*4。そして、実際にそういう方向で「ジェンダーフリー」が使われてきたのであれば、それはこの用語がその目的の一端を果たしてきたということだ。学術的にこの用語が曖昧であろうと、それが和製英語であろうとそうでなかろうと、「もともとの」意味がどういうものであろうと、「ジェンダーフリー」という用語が役に立つならばどんどん使えば良い。
もちろん、多くの人々が指摘しているように、女性差別的な制度や構造の解体あるいは改善(狭い意味での男女平等)に向けた努力も、「らしさの押し付け」への批判も、「男/女らしさとは何か」という問題提起も、「ジェンダーフリー」導入以前から、この用語とは無関係に行われ、一定の成果をあげてきた。それに加えて、ジェンダークィア研究に従事する研究者から、あるいはLGBTのアクティビストから、<男>と<女>とを自明の前提とする性別のあり方それ自体の問い直しの試みも、確実に進められてきていた。これらの多様な試みは「ジェンダーフリー」という用語によって可能になったり開始されたりしたものではなく、むしろこれらの試みを幅広く指し示しうる用語として、そしてさらにそれらの試みが社会的・制度的な後押しを得るための手段の一つとして、「ジェンダーフリー」という用語が使用されたという方が、正しいだろうと思う。

どのような効果をあげたのか

ただ、「社会的・制度的な後押しを得るための手段」としての「ジェンダーフリー」という用語と概念の利用が実際に成功したのかというと、これはかなり微妙だ。
ジェンダーフリー」が唱えられるようになった90年代後半に、LGBTの問題をはじめ、狭い意味での「男女平等」の枠では見落とされたり二次的なものとみなされることも多かった「ジェンダー」や「セクシュアリティ」をめぐる多様な問題設定が、フェミニズム(そして社会)が誠実に対応すべき課題として、より広範に認知されるようになっていったのは、間違いない。しかしそれは単純にそこにいたるまでの多方面での活動の結果にすぎず、「ジェンダーフリー」は(たとえば学校や会社、自治体などで講演会や勉強会を行うときの)便利な口実としてたまたまそこに現れたのに過ぎないということもできるだろう*5
その反面で、「ジェンダーフリー」が狭い意味での「男女平等」を超える射程を持っているというまさにその点が、非規範的なジェンダーセクシュアリティへのフォビアを煽る形で(「ジェンダーフリーは人間を中性化する/性同一性障害を生み出す/同性愛者・バイセクシュアルを生み出す」)、「ジェンダーフリー」総体に対する攻撃を容易にしてきた。もちろん、「ジェンダーフリー」をどのような意味にとったとしても、つまり、狭い意味での「男女平等」のみならず、「らしさ」の問い直しや男女という性別の自明性への異議申し立てまでをもその試みの射程内におくものとして理解したとしても、それは人間を「中性化する」こととは明確に異なるし、「性同一性障害を生み出す」「同性愛・量性愛を生み出す」ことにもならないのだが、それはここでは問題ではない。重要なのは、「男女平等への反対を表明する」ことが少なくともタテマエとしては駄目なことになっていたのに対して、非規範的なジェンダーセクシュアリティへのフォビア*6はより強固に存在していたし表明しても良いものだと考えられており、したがってそれがもっとも攻撃しやすい、もっとも容易なターゲットになったということだ。そして、「ジェンダーフリー」が多様な試みを包括的に示しうるある種必然的にあいまいな用語であったことで、もっとも感情的な拒否反応を引き起こしやすい試みを通じて、既により広範に受け入れられていたはずの試みをもまとめて攻撃することが、可能になってしまった。
そういう現在までの状況を見ている限りでは、「ジェンダーフリー」という用語のもたらすプラスよりもマイナスの方が大きくなってきているのではないかと、わたくしは感じている。ただ、たとえば初等・中等教育の場で、あるいは大学で、あるいは地方自治体の政策において、あるいは職場や地域での生活において、具体的に「ジェンダーフリー」が何をもたらしてきたか、そして逆に現在「ジェンダーフリー・バッシング」が何を奪い取っているか、そういうことについて正確に調べたわけではないから、わたくしがここで「ジェンダーフリー」の功罪を言うことはできない。

バッシングへの対抗言説

そうは言っても、このような状況のもとで組み立てられようとしている「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説の一つ一つにおいて、それが「ジェンダーフリー」の歴史的役割を肯定しているにせよ批判しているにせよ、「ジェンダーフリー」の概念なり用法なりをどのように規定しなおしているのか、望ましいフェミニズムの(あるいは場合によっては「ジェンダーフリー」の)あり方をどう表現しているのかを見ることはできるし、そしてそれらの規定や表現がどのような効果を持ちうるのかを考えることはできるだろう。
ネットやML上でよく見かける「ジェンダーフリー・バッシング」への対抗言説は、大きく二種類に分かれる。
一つは、「ジェンダーフリー」という用語の使用それ自体に誤りがあったのではないかとして、「ジェンダーフリー」ではなく「男女平等」「性差別撤廃」*7をこそ、フェミニズムの目標として確認しなおそうとするもの。ジェンダーコロキアム報告での基本的論調はこれにあたる。
もう一つは、「ジェンダーフリー」と言う用語とその使用をめぐって、都市伝説的な無根拠の噂が飛び交っている現状に対して極力正確な情報を示すことで、とりあえずこの用語に対する感情的なバッシングを沈静化させようとするもの。成城トランスカレッジ!さんの「ジェンダーフリーとは」はその代表的な一つにあたるだろう。

ジェンダーフリー」は<らしさ><性差>を否定しないのか

ジェンダーフリーが何を意味しているのか、とりあえずそのくらいちゃんと理解してから話をしよう」という系統の議論については、意図はよく分かるし重要な作業だとも思うから、その作業自体には全く異論はない。けれどもその過程で、バッシングを沈静化しやすい方向で「ジェンダーフリーが何を意味しているのか」の定義が少しずつ狭められてしまう傾向があるような気がしている。
たとえば、「ジェンダーフリーは<男らしさ><女らしさ>に反対するのではなく、その押し付けに反対するのだ」というような言い方がある。この点については、そもそも、女性学会の『Q&A男女共同参画をめぐる現在の論点』(03年3月)における表現自体が、政治的な配慮もあるのだろうが、曖昧なものになっている。

[批判1] ジェンダー・フリーは、男らしさ/女らしさを全否定するものだ。
[回答1] ジェンダー・フリーは、男はこうあるべき(たとえば、強さ、仕事・・・)・女はこうあるべき(たとえば、細やかな気配り、家事・育児・・・)と決めつける規範を押しつけないことと、社会の意思決定、経済力などさまざまな面にあった男女間のアンバランスな力関係・格差をなくすことを意味しています。ですから一人ひとりがそれぞれの性別とその持ち味を大切にして生きていくことを否定するものではありません。「女らしく、男らしく」から「自分らしく」へ、そして、男性優位の社会から性別について中立・公正な社会へ、ということです。

この回答の前半部分、ジェンダーフリーは男・女が「こうあるべき」と決め付ける規範を押し付けないことを意味するという部分は、そのまま上述した「<男らしさ><女らしさ>に反対するのではなく、その押し付けに反対する」という言い方につながる。規範を押し付けないことを目指す、それ自体はまったくもって結構なことに聞こえる。けれどもよく考えれば、「規範」というのはその定義からして「押し付け」られるものではないのだろうか。規範とは、法律あるいは学校や会社という組織の規則による強要を指すわけではない*8。「これこれの性質が男にふさわしく、男においてより望ましい、従って翻ってこれこれの性質を持たない場合には、本当の意味での男にふさわしくない、男としては十分ではない」というところまでを含意するのが「らしさ」という言葉であり、そのメッセージをたえず投げかけ続けることによって、やんわりと、しかし確実に、特定のジェンダーのあり方を承認し、別のあり方を否定する、それが「男らしさ/女らしさ」の「らしさ」という規範ではないのか。したがって、規範それ自体に疑いと批判を向け、規範の規範としての地位を突き崩していかない限り、「男はこうあるべき・・・女はこうあるべき・・・と決め付ける規範」は、押し付けられ続けるはずではないのだろうか。
この『Q&A』の回答は、「ジェンダー・フリーは男らしさ/女らしさを全否定するものだ」に対して、はっきりとは否定も肯定もしない。たしかに「全否定するのか」と問われれば、「全否定する」とは言いにくいだろう*9。だいたい、「らしさを否定する」という表現が非常に曖昧だ。「男らしさ/女らしさ」という区分法、あるいは「男らしい性質・女らしい性質」というカテゴリーが、現在の日本の社会や文化において存在するとは考えない、ということであれば、そもそもそのような区分法やカテゴリーが存在すると考えるからこそフェミニズムはそれを「批判」してきたのであって、「ジェンダーフリーは男らしさ/女らしさを否定する」というのは正しくない。ある特定の人が「あれは男らしい性質、これは男らしい性質」と考えることに関しても同様で、フェミニズムはそのような考え方を「批判」するかもしれないが、その人がそう考えているという事実を「否定」はできない。けれども他方で、「男らしさ/女らしさという区分、あるいは男らしい性質/女らしい性質が、人間の主観や社会的・文化的影響あるいはバイアスとは無関係に厳然として客観的に存在するとは考えない」ということを「らしさを否定する」と呼ぶのであれば*10フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す用語としてのジェンダーフリーが、「男らしさ/女らしさを否定する(あるいはそのような発想を内包する)」というのは、正しい。
だとすれば、ジェンダーフリーを正確に定義しようとして「ジェンダーフリーはらしさを否定しない」と強調することは、この用語に託されたそもそもの使命(フェミニズムの多様な試みを包括的に指し示す)を裏切ることにならないだろうか。ましてや、「ジェンダーフリー」をフェミニズムの試みの一環として擁護しようというのであれば*11、「らしさを全否定する」という批判に対しては、否定するともしないとも言わないのでも、否定を否定することによってあたかも肯定しているかのような印象をつくりだす*12のでもなく、「男らしさ/女らしさ」という言葉が「男にふさわしい/女にふさわしい」という意味を持つ限りそれを批判すると、明確に言うべきではないのか。
同様のことが、「ジェンダーフリーは性差を否定しない」という表現にも当てはまる。勿論、ジェンダーフリーは「性差」の概念の存在を否定することはないだろうし、現在の社会において「男性」と「女性」というカテゴリーが存在し、その両者の間に厳然として差異なり権力的不均衡なりが存在することも、否定しないだろう。しかし同時にたとえば、男性と女性とがどのように違うかはあらかじめ決まっているとか、「誰が女性で誰が男性なのか」というカテゴリーの境界線が変えようのないものであるとか、あるいは男性と女性という二つ以外には「性」は存在し得ないとか、そういった考え方を「否定する」あるいは「批判する」フェミニズムは確かに存在してきた。「性差を否定しない」という表現は、少なくともあらかじめそのような試みを排除したものとしてジェンダーフリーを定義しなおすことになるだろう。
もちろん、用語採用にあたってのもともとの意図や実際の使用のされ方にかかわらず、「<ジェンダーフリー>はフェミニズムの試みを包括的に示す用語ではない」とした上であらたな定義を与えることは、可能だ。ただしその場合には、その再定義の行為がどのようなメッセージを伝えようとしており、どのような影響をもたらしうるのかを、考えなくてはならない。「ジェンダーフリー」という用語に対するバッシングを回避し、この用語をとりあえず保持する方向で再定義が行われる場合、それは逆に、新たな定義(たとえば「性差を否定しない」「らしさを否定しない」)によって排除された領域を、とりあえずは保持する必要がなく感情的な攻撃にあっても仕方がない、それほど重要でも真っ当でもないことがらとして、定義することになる。

ジェンダーフリー」は「男女平等」と言い換えられるのか

逆に、「ジェンダーフリー」という用語およびその果たしてきた役割を批判し、フェミニズムの目標をジェンダーフリーとは別に確認しなおそうという方向で再定義が行われるとしたら、その場合には「フェミニズムの目標」の定義が問題になる。たとえば、「ジェンダーフリーフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、フェミニズムには他の射程がありうる」という方向をとるとしよう。この場合には「ジェンダーフリー」という用語が持ちえた可能性を(つまり、漠然と全体を指し示す用語を利用することで、フェミニズムの幅広い試みに対して社会的・制度的な後押しを得やすくすること)完全に捨て去るということになるけれど、まあ、捨て去るまでもなく既にその可能性がなくなっているという気はするし、わたくしはそのような「フェミニズム」の捉え方自体には異論はない。けれども、「ジェンダーフリーフェミニズムの試みを包括的に指し示しうる用語ではなく、そもそもフェミニズムにはもっと重要な目標がある」という方向で再定義が行われ、そしてその「もっと重要な目標」が「男女平等」「性差別撤廃」と言い換えられてしまう場合、あるいは「ジェンダーフリーとは要するに男女平等、性差別撤廃を目指すものだ」と定義されてしまう場合には、わたくしはそれに賛成することはできない。
たとえば、1年以上も前のことにはなるけれども、ジェンダーコロキアム報告において上野千鶴子氏は次のように述べている。

だから一つは、私はバイリンガルだと言いました。つまり学問のことばと日常用語とのダブルスタンダードを認めたうえで、日常用語としてはこなれないカタカタは使わないということです。2つめには、学術用語としてすら意味不明で定着していない、ジェンダー研究の業界で共通の了解がない概念を使わない、ということがあります。どちらの点から見ても、「ジェンダーフリー」は使わないという結論しか出ない、と言うのが私の立場です。で、代わりがあるかというと私はあると思っているのですがね。「男女平等」というりっぱな代わりが。

ここで上野氏がジェンダーフリーという言葉を使わないことそれ自体は別に問題ではない。けれども「ジェンダーフリー」の代わりが「男女平等」であると言ってしまう、しかもそれのみをを「りっぱな代わり」として挙げてしまうとき、それは、ジェンダーについてフェミニズムが設定するべき「りっぱな」課題を「男女平等」に限定してしまう効果を持たないだろうか。実際、その少し前で上野氏はこうも言っている。

ジェンダー」ということばを一切使わなくても話はいくらでもできますし、場合によってはフェミニズムということばすら使いません。このようなカタカナ言葉を使わなくても女性差別について話すことができますし、男女平等について語ることができると思いますので。

カタカナ言葉を使わなくても話ができるのはそのとおりであろうけれど、気になるのは、ここでもまた上野氏が「ジェンダーということばを使って話すこと」として「女性差別と男女平等」のみを念頭においているかのように聞こえる点なのだ。けれども上で述べたように、そもそも「ジェンダーフリー」は、男女平等に限らずフェミニズムの幅広い試みを包括的に指し示しうる用語としてこそ戦略的な意味もあったし、実際にそのような方向で使われてきたという過程もある。それをいまさら「男女平等」と言い換えてどうしようというのだろうか。もちろん、「男女平等」は当然に達成されるべきフェミニズムの重要な課題の一つではあり、「ジェンダーフリー・バッシング」を通じてそもそも「男女平等」の軸においてフェミニズムが達成してきた成果すらもあらためて攻撃の対象になっていることに対しては、真剣に対処策を考えるべきだろう。しかし、その対処策が「男女平等の原点に立ち返れ」で良いのだろうか。「男女平等」にはおさまらない視線の広がりは、「ジェンダーフリー」という不可解な用語がもたらし、あるいは後押ししてきたものの中でも、将来に確かにつなげるべき重要なポイントであったはずだ。その広がりを期待させておいて、いまさら「男女平等」こそが重要だというところに回収させ、もっともバッシングを受けやすい部分、ホモフォビアやトランスフォビアに直結する部分を不可視化させて、「男女平等」なり「フェミニズム」なりを守るのでは、羊頭狗肉も良いところだし、詐欺みたいなものだ。
別にジェンダーフリーという用語を守れと言っているわけではないし、男女平等という目標が過去のものだと言っているのでもない。その用語を使うのが嫌なら使わなければ良い。男女平等、あるいは女性差別撤廃に焦点を絞りって話をしたり活動をしたりしたければ、そうすれば良い。ジェンダーフリーという造語が曖昧で日常言語ではないと思うのならば、「性差別反対」と言っても良い。けれども、ジェンダーフリーという用語を使わない理由、使わないでも良い理由を述べる過程で、あるいは「男女平等」の目標を再確認する過程で、フェミニズムが語るべきこと、対処すべきことの射程をわざわざ縮小する必要はないはずだ。「性差別」について語るべきだというときに、セクシュアリティにかかわる差別やトランスフォビアの問題を切り捨てて、わざわざそれを「女性差別」や「男女平等」の問題として言い換える必用もないはずだ。それでは、バッシングに対抗しようとするあまり、フェミニズムがもともと取り組みうる、そして実際に取り組もうとしていた多様な試みの一環を、こちらからすすんで「より擁護の必要に値しないもの」として切り捨てるのと同じことだ。

結局のところ

ジェンダーフリー・バッシングに対する抵抗は、アカデミアで、それぞれの職場や学校で、行政の場で、文化表象を通じて、直接的にあるいは間接的に、言論を通じてあるいは法や社会の制度の改変を通じて、さまざまな形でさまざまな方向からなされなくてはならないし、その過程で「ジェンダーフリー」の用語の定義が人によってばらばらであろうと、変化しようと、あるいは消えてなくなろうと、それ自体はかまわないと思う。けれども、バッシングに抵抗する目的で、より攻撃や「誤解」を受けやすい領域をあたかも「男女平等」の達成後にゆっくり取り組めば良い二次的な問題であるかのようにとりあえず棚上げして、「ジェンダーフリー」なり「フェミニズム」なりの定義から消し去ってしまうことがあってはならない。わたくしはフェミニズムがアカデミアに限られるとは全く考えないけれども、少なくとも、女性学なりフェミニズムなりジェンダー論なりの研究者がバッシングへの対応に追われてそのような消し去りに加担するとしたら、それはアカデミックなフェミニズム、あるいはジェンダー論に対する裏切りだと思うし、それより何より、アカデミックなフェミニズムジェンダー論の側における、フェミニズムに対する、あるいはフェミニズムと共存しようとしてきたLGBTの活動に対する、裏切りだと思う。その点で、たとえば女性学会の『Q&A』、あるいはジェンダーコロキアムの上野氏の発言には、それが日本のアカデミアにおいてはそれなりの権威と影響力を持ちうるだけに、この業界で生きていこうとしている人間として強い違和感を覚える。
繰り返しになるけれども、わたくしは「ジェンダーフリー批判をするのはおかしい」と言っているのではない。たとえば斉藤正美氏が指摘しているような、「行政用語」としてジェンダーフリーを採用したことそれ自体に問題があるのかないのか、どのような採用のされ方をしたために期待された効果を果たせなかったのか、そういうことをきちんと論証していこうという試みは、とても重要だと思うし、その結果としてたとえばジェンダーフリーという用語がいけないのだ!ということになるならそれはそれで良い*13。あるいは、もうどうせできちゃった言葉なのだから、ここはこの用語を(自分が使用するしないにかかわらず)とりあえず擁護しておこう、という結論に達する人がいるなら、それもそれで良い。ただ、あくまでもその時に、フェミニズムが何を語り、何に取り組むべきなのかということについての定義を狭めないで欲しいと、わたくしは思う。

付記

っていうか、このエントリ書くのに、2週間以上かかっています。エントリにかかりきりになっているわけではないというのも勿論あるけれども、「ジェンダーフリーについて」というのが、生半可に机上フェミだけれどもいわゆるアクティビズムにかかわってもいないし社会学とか教育学とかの分野にも疎いわたくしには、とても書きにくい。とりあえずどこかで今の時点での自分の考えをまとめておかなくてはと思っていたので、無理やりに書いてみたけれども、こういうのってあまり得意ではないなとあらためて痛感。で、そんなこんなしている間に、ひびのさんのばらいろのウェブログで、わたくしが言いたかったことをはるかに要領よく分かりやすくまとめてくださったので、よろしければそちらを。

*1:こちらから始まって、こちら(これがメインです)、それからこちらにまだ置いてあって、ちょっと(というかかなり)恥をさらすようでみっともないことこの上ないのだけれども、まあ、やってしまったことは仕方ない

*2:「男らしさ、女らしさの<押し付け>」ではなくて、「男らしさ、女らしさという<概念そのもの>」

*3:と言っても問題ないよね

*4:『ラディカルに語れば』における議論もそう読めるし、大澤氏に直接うかがったときも、「ジェンダーフリーという用語は性別概念の問い直しまでを含み得るはずだ」というようなことを仰っていた

*5:「口実」としての役には立ったかもしれないけれども、それがなくても結局は同じような効果をあげられたかもしれない、ということ

*6:そこにはホモフォビア・トランスフォビアは勿論、「らしく」ないジェンダー表現全般に対する拒否感や嫌悪感も含まれるだろう

*7:この二つがしばしば並立されていることが問題なのだが

*8:そのような法律や規則に規範が反映するということは勿論あるだろうけれど

*9:どうして女性学会が自分でつくりあげたQ&Aでわざわざ「否定」に「全」をつけたのか、理解に苦しむけれど

*10:これは正確には「らしさ」という概念を批判する、というべきだろうけれど

*11:『Q&A』はその方向に沿っているように思える

*12:実際には否定の否定は必ずしも肯定の主張ではないけれど

*13:個人的には、そもそもフェミニズムは行政と結託してはならないはず、というような主張には賛成しないけれど