『レッツ・ラブ・香港』

ICUでの上映会に行ってきた。寒いのでやたら着込んで出かけたら、上映教室はたいそう暑くて、若さを失いつつある身体にはちょっとハードな上映会。でも12月の中野での上映を見逃していたので、とりあえず見ておけて良かった。
「香港のレズビアン映画」という感じの宣伝だったし、実際にメインになっている性愛関係は全て女性同士のものなのだけれども、ストレートにセクシュアル・アイデンティティそのものがテーマなのかというとそういう感じでもなかった。
メインキャラクターのチャン・コク・チャンはネット上のポルノサイトでストリッパーの仕事をしている。彼女は自分がその仕事をしていることを誰にも言わないようにと仕事先から口止めされており、彼女の生活は、仕事と、両親との家での暮らしと、街中をあてもなくさまよい続ける時間と、そして恋人と過ごす時間とにきっちりと分けられていて、それぞれの側面が入り混じることはない。流暢な英語を操って仕事をし、高収入を得て広いフラットに暮らすニコールは、不眠症に悩まされる夜、ネット上のチャンの映像に慰めを見出す。住む家を持たず、あれやこれやの仕事を日々見つけて生きているゼロは、街を歩くチャンの「キリンのような」佇まいに惹きつけられ、彼女に近づこうとする。ゼロも二コールもチャンに繋がっているのだけれども、そのつながりは殆ど完全に一方通行でチャンの側からつながりを認めることはないし、そのつながりがチャンの人生の切り分けられた断片の一つ一つをまたぐこともない。チャンが唯一身体を開いて親密でリラックスした関係を持っている相手はセックスワーカーで、彼女はチャンにとって「恋人」と言っても良い相手であるにもかかわらず、チャンは彼女との時間に対してあくまでも金銭での支払いを続けようとすることで、彼女とのことも人生の特定の断片にとどめておこうとする。登場人物たちは互いにほんの少しかすりあうように関係しながら、けれども決して十分には関係しあうことなく生きており、それらのつながりは同時並行的に存在しているけれども決して同じ場に存在することはなく、どの一つのつながりも何らかの結末や解決にたどりつかない。
登場人物たちをつなげているのはセクシュアリティなのだけれども、セクシュアリティは登場人物たちをつなげるのに十分ではない、そういう印象が残る。セクシュアリティが登場人物たちをつなぐのに十分ではない理由がこれと特定されるわけではないけれども、たとえばニコールとチャンの間、あるいはチャンとゼロの間にすら存在する経済的バックグラウンドの差もあるだろうし、ニコールのセクシュアリティが具体的な身体を持つ他者を必用としていない(あるいは必用としていてもニコールはそのような他者に対応する余裕なり準備なりがないのかもしれない。映画はその部分は明確にしていない)こともあろうし、チャンにもチャンの恋人にもセクシュアリティだけに回収されるはずもないそれぞれの人生の目標があるということもあるだろうし、チャンの人生を互いに隔絶された断片に切り分けることを要請する社会的背景もあるだろう。それらの要因のどの一つが特権化されることもなく渾然と入り混じり、登場人物たちは何らかのハートウォーミングなつながりを手に入れることもなく、生きていく。
そういう意味ではわりとペシミスティックな映画だとわたくしは思う。安易な解決を避け、リアリスティックであろうとしているだけで、単にそれが現状ではどちらかといえば悲観的な世界像になってしまうということかもしれないけれど。
映画の中では、チャンが自分の仕事について口外を禁じられていることが、彼女の人生が(彼女のアイデンティティがと言ってもいいだろうけれど)幾つかの相互につながりのない断片に分かれている最大の要因になっている。こういう状態はいわゆる「クローゼット」の状態と非常に近いもので、実際に監督は上映後のトークで「香港においてセックスワーカーとセクシュアル・マイノリティは同じようなスティグマを負っており、そのようなスティグマに取り込まれない表象を意図した」というようなことを言っていた。けれどもかといってこの映画は、セックスワーカーレズビアンとがスティグマの類似性だけを理由に共感しあうという図式を示したりはしない。
同様に、チャンのそのような断片化した生のあり方というのは、明らかに一つのサバイバルの方策である反面、生がある種の一貫性なりつながりなりを失ってばらばらに崩壊する危険性を常にはらんでいる。この映画はチャンの断片化した生を悲劇的なものとして描くことをしない一方で、「他の人が感じない地震を感じる」という形でチャンが一貫性の欠如のもたらす不安にさらされていることを示しつつ、その不安を解消してくれるはずの、ゆれることのない確固たる土台をチャンに与えることも、しない。
とにかく、登場人物が、孤独でちっともつながってくれないし、安定感や安心感というものがない。映画としては良心的だと思うけれども、同時に見ている方としてはちょっとつらい<わたくし強引にして安易なハッピーエンドが大好きなので。
映画自体はそれを意図していないかもしれないことを承知の上で、あえて強引にハッピーエンドへの期待を読み込むとすれば、ラストシーンだろうか(「エンド」だし)。
ゼロは実際にチャンに声をかけるものの(「あなたはキリンのようだ」)、チャンはゼロが自分に近づくことを許さない。ラスト近く、偶然オンライン上のチャンの仕事を知ることになったゼロは、チャンを転職させようとして再びチャンに接触するものの、またしても拒絶される。そしてラストシーン、夜の街にたたずむチャンにゼロが近づき、「キリン」であるチャンに、そうやって長い首を伸ばして相手を探しているのなら自分を選んで、と呼びかけ、それに対してチャンはハイネックのセーターの襟を持ち上げて「キリンのような長い首」をすっぽりと襟の中に隠す。
このラストシーンについて監督は、「チャンは自分自身に戻っていったというだけ。それが拒絶になるかどうかは別の問題」と話していた。だとするとその「自分自身」は、いくつもの断片に分けられた彼女の生のどの部分を指すことになるのだろう。このシーンは、チャンとゼロとの間に性愛や友情ではないにせよ、何らかのつながりが生まれる可能性を兆しを示すもののように、わたくしには思える。
街中をさまようチャンは小柄で所在なげで人の波に埋没しそうで、とても「キリン」のようには見えない。けれども、その同じチャンが恋人のところで「高いところにある葉だけを好んで食べ続けた結果植生を変えてしまったキリン」について魅せられたように話し続けていたことを、観客は知っている。「キリン」は、チャンがそうあり得るかもしれない姿、そうでありたいと願う姿、あるいは既にそうであるにも関わらずチャンがいまだそれを認めたり表現したりすることができずにいる姿を指し示していると考えることができるだろう。ゼロはその「キリン」に惹かれ、その「キリン」に呼びかけるのだけれども、チャンが「キリン」としてゼロの求めそれ自体に応じることはない。彼女は「キリンである自分を隠すしぐさ」を通じて、「キリン」との親密な関係を求めるゼロを拒絶する。
けれども、「キリンである自分を隠すしぐさ」は同時に「自分がキリンであることを認めるしぐさ」でもあるだろう。ゼロがチャンに見出していたものが幻影や自己投影ではなく、隠しうるものとして実際にそこに存在することを認めるしぐさ。チャンはそのしぐさを通じて、ゼロの親密さの要求を拒絶しつつも、ゼロの呼びかけそのものには応えているのだとは、いえないだろうか。そしてその応答のしぐさを通じて、チャンは、それまでは存在していなかった、あるいは少なくとも彼女自身が認めたり表現したりすることのできなかった「キリンとしてのチャン」を存在させ、認め、表現することができるようになったのではないだろうか。その意味において、かすかなものではあるけれども、必ずしも一方通行的ではないつながりの萌芽が、そこには存在するのではないだろうか。
もちろんここでは求愛は拒絶されており、チャンとゼロとの間に何らかの親密なつながりが生じるだろうとは考えにくい。ここで可能性が芽生えている関係性は、愛や親密さとは別のもの、お互いの存在の特定の側面に気がつき、気づいていることを伝える、そして気づかれていることに気づき、それを伝える、そういう関係性でしかない。けれどもそういう関係性が、とりわけマイノリティの歴史において(セクシュアル・マイノリティに限らず、たとえば人種のパッシングにおいて、あるいはエスニック・マイノリティにおいて)、生き延びるため、支えを得るために重要な役割を果たしてきたということも、忘れてはなるまい。チャンとゼロとの間に生まれかけているそのようなかかわりがいわゆる「コミュニティ」の予兆であるのか、それともそれとは全く別の新しい関係性に彼女達を導くのか、それはわからない。けれども、ラストシーンでの関係の可能性の萌芽が、登場人物たちがあくまでも分断され、孤独で、不安定な状態のままに放置されているこのペシミスティックな映画にかすかな希望の予感を与えているように感じられて、わたくしはそこがとても好きだった。
これはあくまでもわたくしの理解で、見る人によって他にいくらでも違う見方が生まれるだろうなと思わせるような映画だった。近いうちにまた東京で上映をしたいと監督は話していたし、DVDも出るかも〜、ということだったので、未見の方で興味のある方は、機会があれば、是非。