<スピ・シン>イダ氏の発言について、あえて「ココロの問題」として語ってみる

成城トランスカレッジ!さんでも紹介があるように、今度出るらしいバックラッシュについての本に関連したブログエントリーでイダヒロユキ氏が山口智美氏のことを「フェミニズムを誤解している」と唐突に非難したことをきっかけに、ちょっと前に斉藤正美氏のところで行われていたイダ氏批判なども絡めて、イダ氏批判が再燃。
わたくしはジェンダーフリーに関しては山口・斉藤両氏に全面的に同意するわけではなく、表面的にはむしろイダ氏同様「どうせならジェンフリでもう少しねばってみてもよくない?」方向で考えており、しかも理由が微妙にイダ氏とかぶるので、イダ氏のパフォーマンスにはちょっと困る。しかも学会のエライ人だし(多分。知らないんだけれども。学会のエライ人って誰なのかしら、下層部でぼんやりしていてそんなことも知らないということに、今、気がつきました。ダメすぎ)。
イダ氏が批判されている最大の点は、彼が自分のポジショナリティに全く無自覚であり、結果として彼の発言なり著作なりが、一見マイノリティ擁護を唱えているにもかかわらず、実際にはマジョリティのもつ権力を隠蔽あるいは擁護する効果を持ってしまっている、ということ。これについては斉藤正美氏の判(こことかここ)、およびMacskaさんの批判で、言い尽くされていると思う。わたくし自身は『スピ・シン』も『はじめて学ぶ』も拝読していないので、斉藤氏の批判に関連したエントリで前に書いたように、それらの著作全体での著者のスタンスについてここで批判をすることは出来ない。しかし、Macskaさんも取り上げているAAHのサイトにおけるイダ氏のコメントに限って言えば、この批判は的を射ているように思える。
で、それならそれ以上付け加えることもないようなものなのだけれど、わたくしがイダ氏のこのコメントを読んだ時に、人文系の研究者として、単に「それおかしくない?まあ興味ないけど」と言ってもいられない「気が重い感じ」がしたのは、イダ氏が「自分にとっての性」という、いわば「ココロの問題」を前面に打ち出しているからだ。
最近のアンチ・バックラッシュ関係の議論においては「これは意識の問題ではない」という発言が諸所で繰り返しなされていて、その特定の文脈においては、わたくしはそれに何ら異議はない。たとえば法的に「男女は平等だと信じなくてはならない」とか「個々人がホモフォビアを持ってはいけない」という強制がおこなわれるとしたらとんでもない話だし、そもそも男女平等なりセクシュアリティジェンダーのあり方を根拠にした差別や抑圧の撤廃なりを目指すなら、「意識を変えましょう」「ココロのあり方を変えましょう」という前に行政や立法がやるべきことはいくらでもあるはずだとも、思う。
けれども同時に、文学畑出身の机上フェミであるわたくしにとって、意識なりココロなりというのは十分に重要なフェミニズムの問題領域だ。意識が変わることなく制度が変わることはないだろうし、制度が変わることなく意識が変わることも難しいだろう。だとすれば、女性差別的な意識だのホモフォビックな感情だのに対して、あなたの意識や感性を変えましょうと、フェミニズムはもちろんそう言うだろう。強制をしない*1ということは、「そういう意識って変だよ!」「わたしはそうは感じないよ!」という批判をしないとか、「こう考えられないかな」という説得をしないとか言うことと同じではない。
そんなお節介なと言われれば、その通り。けれどもそれを言ったら、どのような表象形態にしたって、受け取り手の意識やココロや感性に働きかける限りにおいて、お節介なのだ。わたくしにとって、というか人文系の人間にとって、と言ってもいいかもしれないけれども、そもそも意識とかココロとか感性とかいうものは、社会や文化の制度と切り離しては考えられない。言うまでもなく、わたくし達の意識とかココロとか感性とか言うものは、どこからともなくわたくし達の中に芽生えてきたのではなく、文化や社会からのさまざまな働きかけを通してつくられてきたわけであり、わたくし達の文化や社会の制度が性差別的であれば、わたくしたちの意識やココロや感性は、大なり小なりその影響を受けて形作られることになる。わたくしたちは文化の中に生れ落ちたときから、たとえば特定の制度のあり方を通じて、あるいは特定の表象の型を通じて、あるいは特定の言説に触れることを通じて、「こう感じるのは良くないよ!」という批判や「こういう意識を持とうよ!」という説得を受け続けているのだ。フェミニズムが意識やココロに働きかけようとするのは、そのような多様にして多量の批判や説得の一つに過ぎず、それをお節介だと批判するのであれば、社会や文化と人間の意識や感性との関係そのものを根本から変革するしかない。
そうした意識やココロへの働きかけは、社会システムや法制度の変革と連動しつつ、わたくしたち一人一人にフェミニズムがもたらすインパクトの重要な一部をなしていると、わたくしは考えている。だからわたくしはフェミニズムが「意識の問題に特化すべき」とは決して思わないけれども、フェミニズムは、意識の問題、ココロの問題、わたくしたちが何をどう見て、どう感じて、どう考えるのか、という問題、わたくしたち一人一人にとってどのようなフェミニズムがどういうインパクトを持ちうるのかという問題「にも」、取り組むべきだと思っている。
その点でわたくしは、イダ氏がフェミニズムの課題として「ココロの問題」「意識の問題」を取り上げること、それ自体が問題だとは思わない。「たましい」は用語選択としてわたくしとはセンスが違うとは思うけれど、イダ氏が「フェミニズムは<たましい>の問題だけに取り組むべきだ」と言っているのであれば論外だとはいえまさかそう言っているわけでもないだろうし、それならまあそれでかまわないと思う*2。そうであれば、イダ氏が「ココロの問題」に取り組み、他の誰かが他の問題に取り組めば良いだけの話だ。実際、少なくともAAHのサイトに寄せられたイダ氏のコメントに限って非常に好意的に解釈すれば、イダ氏は、ジェンダー論なりフェミニズムなりアンチ・ホモフォビアの主張なりが、一人一人の個人にとってどういうインパクトを持ちうるのかの例を提示しつつ、「こうやって考えてみようよ」という説得を試みている、と言えなくも、ない*3
「ココロの問題」に取り組みたがっている人文系フェミであるわたくしがイダ氏の発言に賛成できないのは、イダ氏が意識の問題を扱っているという点ではなく、その扱い方だ。「こうやって考えてみようよ」の中身そのものに、どうにも違和感があるのだ。
Macskaさんも引用されている箇所なのだが、あえてもう一度AAHのコメントから引用したい。
ジェンダーセクシュアリティにおけるマイノリティの人権を考えるためには、マジョリティが自分自身の「性」を見つめなおすことが必要だ、という主張に続けて、イダ氏はこう書いている。

各人が自分の「性」をみつめるとは、例えば、私は自分が「男性である」とか「異性愛である」という自覚の中に揺らぎを見出し、自分のそれと他者の「男性」「異性愛」との違いをみつめるような感覚に至ることだとわかってきた。つまり、こうしたほんとうに多数派の人それぞれも実は、一人一人異なる人であり、単純に多数派とはくくれない、男性とはくくれない、という、シングル単位感覚へ至ることこそ大事なんじゃないかってことだ。 
結局、これを短く言うと、自分らしい、他者と異なる「X」の「性」としての自分になっていくということだ。換言すれば、自分のなかに「複数の性」、マジョリティの面とマイノリティの面、複雑性・複数性・流動性をみるということであり、私の感覚で言えば、繊細に自分の中の“声”をみつめるというスピリチュアルかつシングル単位な感覚にいたることになる。
そうして突き当たる「自分の“自由なあり方”とはなにか?」という問いを抱え、自分の〈たましい〉に向き合っていき、それを模索する旅に出て行くような生き方こそ、マジョリティ性の解体だと思う。

もしかするとイダ氏とわたくしとのディシプリンの違いの問題なのか?と思わなくもないけれど、というより、そうでも思わなければ理解できないくらい、「ココロの問題」を扱う時のイダ氏の手法はめちゃくちゃなように、わたくしには、思える。別に手法がめちゃくちゃだって何だって構わないといえば構わないけれども、イダ氏はこのコメントにおいて、著書紹介などを通じて、自分はジェンダー研究者だよん、女性学会の会員でもあるよん、そして女性学会の名前で自分が本をつくっているよん、とほのめかしているわけで、それでこんな書き方をされたのではたまらない。
上でくだくだしく書いたように、そもそも意識とかココロとか感性という問題を社会や文化の制度と切り離しては考えられないというのは、ジェンダー論における常識ではないだろうか。フェミニズムの主張の歴史を見ても(それこそベティー・フリーダンまでさかのぼっても)、現在の「ジェンダー論」に流れ込んでいる様々な思想や哲学においても、それは繰り返し述べられてきたことであり、わたくしの知る限りでは「そうではない」という有効な反駁を受けてはいない主張であるように思う。
シングル単位でスピリチュアルに自分の中の「声」を見つめたければ、それはご自由にそうなされば良いとは思う。けれども、そこで見つめられているシングルな「自分」はシングルに虚空からふってわいたものではないから、いくら繊細に見つめたって、そこには常に社会や文化の痕跡が残っている。言い方をかえれば、本当にシングルな自分を、というかイダ氏はsingularな自分と言おうとしているようにも感じるけれど、とにかくそういう自分を見つめようとすれば(そんなことが可能だとして)、いやでも自分の中に痕跡を残している文化や社会、つまり自分の中に入り込んでいる「自分ではないもの」を、見つめていかざるを得ない。「自分と他者との違いを見つめる」前に、まず、自分の「自分らしさ」を作り出している「自分ではないもの」、「他者」、を見つめざるを得ない。イダ氏の主張からは、その部分が完全に抜け落ちているのだ。
「自分のそれ[男性であるとか異性愛であるとかの自覚]と他者の『男性』『異性愛』との違いをみつめ」「自分らしい・・・自分になっていく」、「自分のなかに『複数の性』・・・をみる」前に、まず、自分の「男性」とか「異性愛」、自分の「自分らしさ」が、どこから来ているのか、それを考えざるを得ないはずなのに、イダ氏の上の主張では、それはあたかも「他者の『男性』『異性愛』」あるいは他者の「自分らしさ」からは、そしてもちろん「他者の『女性』あるいは『同性愛』からも、最初から独立して存在しているかのようだ。イダ氏は、社会のヘテロセクシズムを(ジェンダーフリーフェミニズムに言及している以上、おそらくセクシズムをも)指摘しているにもかかわらず、自分の「男性」、自分の「異性愛」、自分の「自分らしさ」それ自体がつくられていく中で、そのような社会のホモフォビアが、あるいは女性差別が、あるいはトランスフォビアが、すでに影響を与えているとは、考えないらしいのだ。だからこそ、「自分の<たましい>に向き合って・・・それを模索する」ことが推奨される。
けれども実際には、「自分らしく」あろうとするわたくしたちの「自分」は、社会や文化でわたくしたちが置かれた特定の場においてつくられてきたものだ。それはつまり、好むと好まざるとにかかわらず、ある特定の点において「単純に多数派とくくられる」側にいることによって利益を受けたり、また別の点において「単純に少数派とくくられる」側によって不利益を被ったりしながら、わたくしたちの「自分らしさ」は育ってきたということだ。わたくしたちの「自分らしさ」や「たましい」は、いやおうなく、「他者の『男性』『異性愛』」と、あるいは他者の「女性」「同性愛」と、そのような利益の配分の歴史を通じて、繋がっているということだ。
そうだとすれば、わたくしたちが自分のなかを見つめるとすれば、そこに見えるのは「他者とは異なる自分」ではなく「自分の中の他者」であり、「シングル単位感覚」ではなく「シングルであるとして切り離せないもの」であるはずではないのだろうか。そして、そのような「自分」を見つめつつマジョリティ性の解体に向かおうとするなら、「自分のたましい」の「シングルさ」を大事にするのではなく、何よりもまず、「自分」をつくってきたさまざまな利益配分の形態を問い直し、作り変えようとしてしていくことから、はじめるべきではないのだろうか。
Macskaさんがイダ氏のこのコメントの問題点を

「権力性」「マジョリティ性」を単なるわたしたちの意識に還元してしまっていることだ。

と指摘しているのは、そういうことではないかと、わたくしは思う。ただ、「意識の問題」を扱いたい人間からすると、イダ氏の上記コメントの問題点は、「権力性・マジョリティ性を意識に還元した」ことよりもむしろ、「意識の問題から権力性の問題を消去してしまった」ことではないかと思える。したがって、

「権力性」とは、ただ単にわたしたちが個に目覚めていないから抱いている幻想のようなものではない。それは、社会構造のことだ。それは、不均衡な権力や権利の配分であり、意識の有り様ではないはずだ。

というMacskaさんの批判にはわたくしは全面的には賛成しない。わたくしは、「権力性」とは、間違いなく「幻想のようなものではない」反面、「意識のありよう」に深くかかわっているものだと考えている。もちろんそれは、意識のありようを変えればただちに権力構造が変わるということではない。けれども、意識のありようは、不均衡な権力や権利の配分に影響され、そしてそれに影響を与えるものであり、権力性と無関係な「単なる意識」を想定していること自体が、イダ氏の問題なのだ。
繰り返すけれど、ジェンダー論の研究者としてのイダ氏のこのコメントにわたくしが賛成しないのは、イダ氏が意識のありようを考えているからでもなく、権力性やマジョリティ性を意識の問題として捉えているからでもない。わたくしが批判したいのは、イダ氏が上記コメントにおいて、意識の問題を権力性やマジョリティ性の問題として捉えていないということ、その両者を切り離して考えているということだ。その意味で、「権力性」と「意識のありよう」とを別物だと主張するとしたら、それは、「意識の問題」から「権力性」を捨象してしまうイダ氏の議論に寄り添いかねないのではないだろうか。

*1:そもそも意識や感性の強制というのはなかなか難しいだろう

*2:ジェンダーフリーの課題」として意識の問題を「も」取り上げるべきだとの主張に関しても、わたくしは反対ではない。「ジェンダーフリー」が基本的に教育・行政畑の用語である以上、行政で意識の問題を取り上げるのはどうかと思う反面、教育の分野においてどのような改革を行うにせよ、そこから「意識の問題」を完全に排除するのは、実際問題として不可能ではないかと思うからだ

*3:説得が下手だなあという感慨はあるけれども、全く説得が得意ではないフェミとして、わたくしには他人をとやかく言うことはできません。