講演会「キリスト教とセクシュアル・マイノリティ/セクシュアル・マイノリティとコミュニティ」


お知らせエントリ続きで申し訳ありません。
以下、CGS Onlineより、イベントのお知らせでございます。


ちょっと前に、東日本における〈西洋〉(とりわけ米国)のキリスト教原理主義の影響とその政治的影響力について一緒にパネル報告をやる気はありませんか、と、香港の研究者の方からお誘いを頂いた。わたくしそちらの方はほとんど知らないので残念ながら御一緒できなかったけれども、米国の原理主義勢力が、東アジア各国で、ローカルな道徳的保守勢力と結びつきつつ、ちょっと無視できない政治的な力を発揮しはじめているのだというお話で、日本はどうなのだろうかと少し気にならないではない。最近また少し見かけないけれども、〈ジェンダーフリー〉をめぐる対立が激しかった頃には、純潔さん達のデモなどにも数回遭遇したし、宗教的原理主義と道徳的保守勢力の組み合わせというのは日本でも全く他岸の火事というわけではないだろう。

かといって、それは勿論、キリスト教(なり他の宗教なり)をそのまま全て拒絶すれば政治的には万歳なのです、というような単純な話でもないわけで、その意味で(どんな意味だ)このようなテーマの講演会をこのような環境で開催することには大きな意義があると思う。

言うまでもなく、ある点においては敵対的な意味の体系の内部から「新しい意味や抵抗の可能性」を探るというのは、フェミだのクィアだのという分野においてはそもそも非常に根本的な要請でもあるわけで、そんな意味でも(どんな意味だ)直接宗教(あるいはキリスト教)にかかわっていない方も、是非、という感じなのですけれど、主催者でもないのに何故ここで力説しているのか、わたくし自分でも良くわかりません。

ICUキリスト教大学であるにも関わらず、キリスト教ジェンダーセクシュアリティの問題を考える機会は少ない。キリスト教がいかにセクシュアル・マイノリティを差別しているのか/してきたのかという問題について2006年にご講演いただいた堀江有里さんを、再びお迎えします。

今回の講演では、キリスト教の厳しい環境の中でセクシュアル・マイノリティの人々が残り、助け合い、コミュニティを形成することによって、信仰とアイデンティティをどのように両立させるのか、そしてその助け合いの過程がいかなる新しい意味や抵抗の可能性を生み出すのかを中心にお話しいただきます。ぜひ皆様お誘いあわせの上、ふるってご参加ください(予約は不要です)。



■講演タイトル:
キリスト教とセクシュアル・マイノリティ/セクシュアル・マイノリティとコミュニティ」

■日時:2010年2月16日(火) 14:00〜16:00

■場所:国際基督教大学 本館 303教室

■講師:堀江有里さん(「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」代表、日本基督教団牧師)

■言語:日本語(質疑応答あり)

■主催:国際基督教大学ジェンダー研究センター
住所:東京都三鷹市大沢3-10-2 ERB-301
電話:0422-33-3448

笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめて


そんなわけで、既に今年になって二本もエントリをアップしているので(そしてその時点で昨年の更新数を抜きました。ブログというより完全に跡地です)、今更ではございますが、みなさま新年おめでとうございます。

新しい年をぱっと華やかに滑り出し、本年もへたれ机上フェミとして明るく楽しく生き延びて行きたいものだという夢と希望をこめまして、新春のイチオシフェミイベントであると前評判しきりの爆笑トークを鑑賞してまいりました。


新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」


結論から書いてしまうと、本当にもう、フェミにとって笑いは大切よね、わたくしたち笑わなくてはいけないわよね、笑いってこういう時に否応なくこみあげてくるものよね、という、いわばフェミ的笑いの原点、シクスー的な「メデューサの笑い」の原点へといざなわれる、そういう経験でございました。

死から抜け出すには、はじけるような笑い声をたてるしかないのだと、私は思っています。[. . .] そして、私は笑いました。身をよじらせて笑っていました。私は完璧なまでに一人でした。私のまわりには何もありませんでした。[. . .] まず初めに起こることと言えば、死ぬこと、深淵へと跳躍すること、最初の笑い声を[死から抜け出すために]たてることだけなのです。
エレーヌ・シクスー、「エクリチュールへの到達」 (松本伊瑳子・国領苑子・藤倉恵子編訳、『メデューサの笑い』、紀伊國屋書店、1993年、p.308)


上野・澁谷両氏のお話それ自体には微笑すら浮かばなかったのではございましたが、イベントの後に絶望とともに確かにこみあげてきたのは笑いであり、その意味では上記WANサイトの宣伝文句になんら嘘偽りはありませんでした。もっともその笑いは、サイトの説明にあるような「ゆかい」な「爆笑」ではなく、「死から抜け出す」ためのそれのような、「身をよじらせ」るような、拒絶に満ちた笑いではありましたけれども。

さすがWAN肝いりでウェブ中継までおこなった爆笑トークというだけの事はあり、笑いのこみあげる箇所は数えきれないほどでしたが、新春から細かい笑いを脈絡なく書き連ねるのも無粋ですから、どう頑張っても忘れることのできない笑いどころ2点のみ、記録と記憶のために、ここに記しておきたいと存じます。

ただ、わたくし、ジェンダーコロキアムという伝統あるアカデミック・フェミイベントに初参加の人間としてはあるまじき事に、上野氏の『男おひとりさま道』も澁谷氏の『平成オトコ塾』も拝読しておりません。おそらく、「基本、上野さんも澁谷も男子のことは好き」とおっしゃる両氏とは異なり、わたくしが「基本、男子のことは別に好きではない」のもその一因かとは思いますけれども、参加者としての怠慢は否定しがたく、従いまして、以下に書き連ねることは両氏の著作とは、おそらくは(むしろ願わくば)、直接は関係がございません。あくまでも、この度の爆笑イベントについて、怠惰な参加者が身をよじって笑いながらその合間に書き記したことと、ご理解下さい。


さて、その上で。


まず、クィア系フェミ研究者であるわたくしにとってまったくもって笑いがとまらなかったのは、販促目的の公開イベントとはいえ、一応「アカデミックなフェミニズム」とも無関係ではないはずの場、澁谷氏はともかくおそらくは上野氏のゼミ学生もいるであろう場、そしてWANという一応日本の女性運動をつなぐことを目指しているはずの団体が共催をしている場、そのような場を、あっけらかんと見事なほどに明るく楽しく、異性愛中心主義が支配していることでした。

イベントの場で出会った友人が指摘していたことですし、動画をご覧いただければすぐにお気づきとは思いますが、トーク開始早々10分ほどで、「オトコは自分のペニス一本しかしらないけれどもオンナは何本も知っている」という卓越した知見が開示されて、瞠目することになりました。わたくし浅はかにも、学生もいるであろう大学の場でそのような発言を堂々として恥じることがないのは、フェミニズムクィアスタディーズも知らない、偏見に満ちた、お前なんてハラスメントで訴えられてクビになればいいんだ、というような教員だけかと思っておりましたが、どうやら(セミ・)アカデミックなフェミニズムのイベントでは、「オトコはオンナだけ、オンナはオトコだけとつがうべきである(そしてつがわなくてはならない)」という、修道院も僧院も裸足で逃げ出す厳しい性的規範が、あたたかな爆笑をもって受け入れられる、という事のようです。

この性的規範とゆかいな仲間たちの爆笑はイベントを通じて続き、たとえば「オンナはおばさんと娘さんに別れる。オトコに受けようと思っている人は娘さん、そこから早めに降りたらおばさん。フェミニズムはおばさんの言説」という、まあそもそもオンナってそんなに簡単に降りられないというのが90年代以降のジェンダー理論ではなかったのかしらという野暮な突っ込みはおいておくとしても、要するにオンナはオトコ受けを狙うところから始まって後はどこかの時点でそこから降りるか降りないかしかない、という、ヒトはオンナになるのだボーヴォワールに真っ向勝負どころか、フェミニストが腹を立てた相手であるはずのフロイトすら逆さむきになぎ倒す、ごりごりの生得的ヘテロジェンダー主義(笑いながらでっちあげた造語です)が教授された瞬間などは、驚きに満ちた笑いが暖かく心の中に広がったものです。

けれども何よりも笑いで身体がうち震える思いをしたのは、質疑応答の中で「男女混合のシェアハウスでは性的関係があるのかどうか」を問題にする上野氏に、やおい研究者の方が「男性同士のシェアハウスでもそこに性的関係のうまれる可能性はある」と指摘したのに対して、その場にたのしげな爆笑がわきあがり、「さすがやおい研究者」という澁谷氏のコメントによってさらにその輪が広がった時です。わたくし、本当にへたれで今思い出しても奥歯が削れるくらいに歯ぎしりをしてしまうのですが、その場のあまりの楽しさとこみあげる笑いとに動揺して、身動きも取れませんでした。さすがの爆笑企画、破壊力は並大抵のものではございません。

いや、だって、あれです。今より10年以上もさかのぼる90年代、当事者性を打ち出した若いゲイ研究者たちが異議を申し立てたのは、まさにそのような爆笑のあり方ではなかったのでしょうか。そしてそのような爆笑の構造を当然のように受け入れていた上野氏ご本人に対して、今回のイベントが行われたのとまさに同じ東大で、批判がされたのではなかったでしょうか。

ですから、このイベントの場を支配していたものを異性愛中心主義と呼ぶのは、不当な過小評価かもしれません。失礼をいたしました。ホモフォビア、と言うべきでした。

どんだけのシシュポス、のれんに腕押し、ぬかに釘、地獄の業火にスポイト一滴。

それが過去15年にわたる上野ゼミの雰囲気であり、ジェンコロの日常であるのであれば、参加した若い院生の方がついつられて「自分の周囲を見ても男らしさから降りていても平気な人が多い。別にそういうやおい系ではないけれど」と断って三たび爆笑を誘わなくてはならない気持ちになったとしても、必ずしも彼一人を責めることはできないのかもしれません。わたくしのゼミなら即!超!批判!しますけれども。

「ほら、コッチの人がさ」ときわめて無理のある体勢で片手の甲を唇の反対側の端に押し付けて、みんなでどっと爆笑する、それは少なくとも公的にアカデミックな、しかもフェミニズムを標榜する場では、すでに絶え果てた奇習だとばかり思っておりましたのに、何このナショナル・ジオグラフィック。わたくしが昔風の文化人類学者だったら、今も東京のアカデミアにひそやかに受け継がれているらしいこの特異な風俗を見逃すことなく、ふるって参与観察にとりかかったに相違ありません。


笑わなくては。脳を煮えたぎらせ、身体をこわばらせ、息をつまらせる、その「死」から抜け出すために、笑わなくては。


そして、もう一点。こちらはクィア系というよりもむしろほとんど伝統的なフェミニズムにかかわる問題で、わたくしのようなへたれ机上人文アカデミアフェミが口をはさむのはシルバーフォックスのコートを羽織ってミストサウナに入るくらいの場違いぶりなのですけれども、けれどもそんなわたくしのさらに斜め上を行く場違いぶりを発揮していたのがこの新春爆笑企画それ自体であったことは、腹の底からこみあげる笑いどころとして、書いておくべきであろうと思います。

この爆笑イベントにおける澁谷氏の基本的な御主張は、「弱者男性」は経済的な困窮という問題にくわえて、「男であること」の要請、たとえば包茎であってはいけないとか、彼女がいなくてはいけないとか、そういう要請に苦しんでいるのだから、彼らにフェミニズムを伝えることで彼らの「自己解放」を手伝い、彼らを救いたいのだ、というものでした。それに対して上野氏の御主張は、男性はそもそも競争の原理に貫かれないような存在にはなれず、従って自分たちだけでは互いに助け合っていくことはできないのだから、相互扶助システムを作り出してきた女性に助けてもらって生きる方法を学ぶべき、というものであったようです。

弱者男性がいかに結婚できないか、女性にモテなかったり包茎だったりすることが彼らの弱さにいかに追い打ちをかけるのか、それを延々と語り合うこの爆笑トーク、WAN/ジェンコロ公認でウェブ公開までおこなったこの〈フェミニズム〉の優先課題は、そのような弱い男性に寄り添い、救い出してあげるところにあるらしく、とりわけ澁谷氏にとってはそのような男性たちに「もういいんだよ、無理しなくていいのよ」という声を届けることこそが弱者に向き合うということであるようでした。上野氏はさすがにこれに対しては何度かおだやかに異論を唱えていらしたものの、基本的には、このイベントにおける〈爆笑〉は、ダメ男を支えるおだやかで慈愛に満ちた聖母の、すべてを許す微笑なのです。そのきわめて斬新なフェミニズム解釈の衝撃を受けて、誰が笑いを押さえていられるでしょう。

わたくしは、フェミニズムの笑いというのは、てっきり、「聖母ってさ、あんだけ曖昧に微笑み続けるってありえないわよね〜安いボトックス打ちすぎよ絶対!っていうか同じボトックスうつならむしろ叶姉妹になるべきよ!」という露骨にして不謹慎な心とともにあるのかと思っていたのですけれども。

そしてまた、「弱者男性」の経済的困窮について考えるのであれば、経済的に困窮しても包茎でも彼女ができなくてもいいんだよ、と現状を心穏やかに受け入れてしあわせに暮らすことを「提案する」のではなく、なぜ「弱者男性」の経済的困窮については国をあげた問題になって「弱者女性」の経済的困窮は問題にならないのか(「あ、そっかそれって恒常的なものだから今更問題にする必要ないのよね!わかったわ!」)、男性が経済的に困窮しているとしたら従来男性よりも低賃金で使われていた女性たちの経済状態はどうなっているのか、そういうことを噛み付くようにして「問い直す」のがフェミニズムだと、わたくしは思っていたのですけれども。

さらに、男性であろうと女性であろうとそれ以外であろうと、弱者を弱者たらしめる制度や規範や権力の配分はそのままに、現状の受け入れを通じて幸運になろうと模索するのではなく、それらの制度や規範や権力配分の正当性を笑い飛ばし、その不当性を糾弾し、それらに抗って生き延びようとするところから、フェミニズムは始まるのだ、わたくしはそう思っていたのですけれども。

わたくしのような古臭いフェミニストにとって、大手さんのなさることはあまりに先鋭的で、そしてあまりに宗教詐欺的に感じられます。イベント終了後、あの部屋にずるずると残っていたら、必ずや、壷かハンコか、良くても羽毛布団を、買う羽目になったはずです。

けれども何よりも笑うべきなのは、この議論が共催者であるWANをめぐる労働争議のただ中で行われており、そして、にもかかわらず、非正規雇用で働き、経済的に困窮する「弱者男性」を救う方法を澁谷氏が熱く力説する中、女性労働者に対する不当な賃金引き下げ(少なくともWAN側からの声明が出されていない現在、労働者側からの状況説明を読む限り、不当なものであるような印象を受けます)についてはただの一言も触れられなかった、という点であり、そしてまた、女性は男性には不可能な相互扶助の体制を作り上げてきたと繰り返して述べた上野氏が、女性同士の相互扶助が一方的収奪へと転換する構造のもっとも新しい例が眼前に存在していることはおくびにも出さなかった、という点です。

ここまで避けがたい話題を取り扱いながら、ここまで完全にその話題を避けるのは、並大抵のことではありません。はらはらドキドキのスリル満点なニアミスを繰り返しながら、ぎりぎりのところで徹底して危険を回避する。人間は緊張がとけた瞬間、笑うものです。さすが爆笑トークの名手だけあって、ツボを心得ていらっしゃいます。笑いをこらえすぎて空気が薄く感じられるほどで、わたくしはへたれのあまりに声も出せずに逃げ出してしまったのでしたが、イベントの後で浴びるように解毒するように飲んだビールは、笑いのスパイスがきいて、いつもよりなお一層まわりが早かったように思います。

そして最後に忘れてはならないのは、この慈愛に満ちた爆笑トークが、日本のアカデミック・フェミニズムの一つの象徴である研究者の主催するイベントで行われ、女性の運動をつなぐと銘打ったWANによってウェブ中継されたということ、それどころか、WANは有り難いことにこのイベントの録画版を配信し、どうやらYoutubeで公開までするつもりらしい、ということです。いやいやいやいや。まさかそこまで肝の座った自虐ネタだとは、想像すらできませんでした。このような高度な爆笑トークを堂々と公開できると考えるのが現在の日本の代表的なアカデミック・フェミニズムの場の雰囲気であり、代表的な(少なくともそれを目指している)フェミニスト・ネットワークの中での了解であるとしたら、わたくし達は本当にもう、笑わなくてはならないのでしょう。バカも休み休み仰って下さい(いやむしろもう黙って下さい)、という気分でございます。


笑わなくては。わたくし達の脳を煮えたぎらせ、身体をこわばらせ、息をつまらせる、その「死」から抜け出すために、笑わなくては。


WAN新春トークの慈愛に満ちた楽しい笑いではなく、憤りと、皮肉と、拒絶とを込めて、笑わなくては。

デニス・アルトマン講演


転送歓迎ということで、以下転載いたします。
〈アジア的価値〉とか〈ゲイ解放〉とか、何故今その用語?それはあえてなの?あえてなのね?という、ある意味挑発的なタイトルに、ちょっと惹かれております。

デニス・アルトマン講演

  • 日時・場所
    1. 東京:1月22日(金)18:30−20:30(18:15開場)東京大学駒場)アドミニストレーション棟 学際交流ホール
    2. 京都:1月24日(日)18:00−20:00(17:50開場)京都大学医学部 芝蘭(しらん)会館別館 2階研修室1   
  • 題目「アジア的価値とゲイ解放」(講演90分、Q&Aセッション30分(予定))
  • 講演者名・プロフィール:デニス・アルトマン氏(オーストラリア ラ・トローブ大学教授、同大学人間の安全保障研究所所長)。1970年代以降、ゲイ解放運動の理論家として広く知られ、1980年代以降は、エイズ分野でも活躍。著書に『グローバル・セックス』(2005年、岩波書店)、『ゲイ・アイデンティティ―抑圧と解放』(2010年1月、岩波書店)等。
  • 言語:英語(ただし、東京会場では同時通訳者、京都会場では逐語通訳者による通訳がつきます)
  • 参加申込先・問合せ先:以下のメールアドレスまで、ご氏名、ご所属、人数についてメールでお知らせください。(参加申込は、配布資料等、準備を円滑に行うためのものであり、当日参加を妨げるものではありません)。大阪大谷大学人間社会学部 岡島克樹 Tel. 0721-24-4395(岡島研究室・ファックス兼)・E-mail okajimkあっとosaka-ohtani.ac.jp (〈あっと〉部分を@に変えて下さい)
  • 協力: <東京会場> 市野川容孝(東京大学大学院総合文化研究科)、<京都会場> 木原正博(京都大学医学研究科)・鬼塚哲郎(京都産業大学文化学部)・MASH大阪

ヴァージニア・ウルフはやっぱり怖い


以下、ちょっと前に某所で喋れと言われて喋ったものです。タイトルはついていません。当日のイベントをまとめて冊子にするのしないのと色々言われておりまして要するに未決定なのですけれど、とりあえず様子が判明するまではこちらに挙げておきます。

「日本の大学でのクィアスタディーズの現状や問題点についての簡単な紹介と将来の展望」を、10-15分で、クィアにもフェミニズムにも(おそらく)超!無関心!な聴衆を相手に話せという、わたくしの能力をはるかに超える御仕事で、無理無理無理わたくしには無理!と泣きわめきつつ、とりあえず先方の御仕事上の要望には極力御応えしようとした結果、かなりの省略と単純化が目立つものになっておりますが、かわいそうに力及ばず倒れたのねとゆるく見逃していただきますよう、お願い申したい次第でございます。

同時通訳だの何だのの問題がございまして、当日は急遽これより多少短いバージョンに変更いたしましたので、正確には、これは喋ったとおりのものではなく、喋る予定だった原稿、ということになります。

相も変わらずブログエントリとしては無意味にずるずると長いのですけれども、ポイントとしては「ヴァージニア・ウルフってエラい」という事でお願いいたします<なにそれ。

ちなみに、非常に個人的な怨恨だの不満だのがぎっしりと詰まっておりますが、それらの怨恨だの不満だのを向けたはずの先には全く伝わらなかったようでございました。その程度の力だということだと思い知り、ハンカチを振り絞り噛み締め引きちぎりつつ、一層の精進に励みたいと思います。多分。

また、このスピーチは某クィア系ブログに「クィアスタディーズなんて役に立たないものですがそれが何か」といわんばかりの喧嘩上等なエントリを書いている知人との会話の中から考えてきたことをもとにしています。エントリに何か問題があればそれは勿論わたくしの責任ですが、エントリに見るべきところが万が一あるとすれば、その少なくとも半分はその知人に帰せられるものであろうと思いますので、ここに謝意を表します。

イントロダクション:『自分だけの部屋 』

でも、とあなた方はおっしゃるでしょう、私たちは女性と小説についてお話下さるよう御願いしたのですよ――それが自分だけの部屋と一体どういう関係があるのですか、と。[ . . .] 私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、女性が小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、いうまでもなく、女性の本質及び小説の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。
Virginia Woolf


もちろん、これは私のスピーチの冒頭ではありませんし、「大学における人文科学の未来」についてのスピーチの冒頭ですらありません。皆さまもご存知のように、これは、全く別の女性が、全く別のテーマについておこなった講演の冒頭部分です。けれども、今日ここで「大学における人文科学の――私の場合には、大学におけるクィアスタディーズの――未来」についてお話するにあたって、ヴァージニア・ウルフのこの講演の冒頭を盗み出し、それを幾分違うお話に接ぎ木するところから始めることを、お許しいただきたいと思います。

女性と小説について話すようにといわれたウルフは、女性の本質および小説の本質という大きな問題を未解決のままにして、お金――年に500ポンドの収入――と鍵のかかる部屋という「小さな点」について意見を述べたい、と言いました。500ポンドと鍵のかかる部屋、これを物質的・制度的な制約の問題と読み替えることができるでしょう。ですから、私も今日はウルフのまねをして、まず制度的な制約の問題からお話しようと思います。

けれど、ウルフのこの講演を読んだことのある方ならお分かりの通り、この「小さな点」は、実際には、小さいどころか、彼女のいう「大きな問題」――女性とは何か、小説とは何か――に直接かかわる問題でもありました。それを「小さな点」にしてしまったのは、当時の(つまり1928年の)イギリスの制度であり、その制度の中では他の「大きな問題」こそ、より重要で本質的だと考えられていたわけです。重要ではないといわれている事がらの重要性を主張すること、本質的で大きな問題とされている事柄が大きく見落としているものがあると指摘すること、これはフェミニズムの、そして部分的かつ非正統的にフェミニズムの伝統を引き継ぐクィアスタディーズの、重要な企ての一つです。私が今日二番目にお話するのは、この点についてです。

とはいえ、私が今申し上げたように、クィアスタディーズはフェミニズムの伝統を正統に受け継ぐ存在ではありません。フェミニズムクィアスタディーズの母であるとしても、クィアスタディーズはフェミニズムだけの子供ではありません。クィアスタディーズには他にも(そして、他にも多くの、というべきでしょうが)母がおり、そのいずれにとっても、クィアスタディーズは正統な子供ではないのです。私がウルフの良く知られた演説の冒頭を盗み出し、それを少し違ったお話へと接ぎ木しようとしているように、クィアスタディーズは、何かを盗み出し、非正統的にそれらを接ぎ木しながら、進んできました。この非正統性の問題が、私が今日お話する三番目の点です。

制度的な問題

それでは、まず最初の点、制度的な制約という点、今日のテーマに従って、大学という制度の中での制約の問題から、お話をしたいと思います。そして、これはクィアスタディーズという領域、とりわけその未来について話そうとすれば、避けて通れない点でもあります。

ここではあらためて詳細には立ち入りませんが、クィアスタディーズ成立の背景をなす歴史的諸要素を少し考えれば、クィアスタディーズというこの領域が、すでに存在している制度において自らの存在が許されていないという事態に対する抵抗からうまれてきたのだ、という事は、明らかです。

たとえば女性学からはじまるフェミニズム研究を動機づけてきた必要性を思い浮かべていただいてもいいでしょう(これはまさしくウルフが述べている事柄の延長線上にあるわけです)。あるいは、ゲイ/レズビアンスタディーズを可能にした100年にわたる同性愛者の権利獲得運動を、さらには、80年代後半のエイズ・パニックにおいて明らかになった国家の制度的な見殺しへの憤りに裏付けられたエイズクィア・アクティビズムを想起していただいてもかまいません。日本の状況に限って言うのであれば、そこに、日本には伝統的に同性愛者差別は存在しないと言い放ちつつ同性愛者やそれに関連する用語が失笑なしでは語られない文化的閉塞感への憤り、不健全であるはずの同性愛者には公的施設は使わせられないと主張する行政組織との対決、などを付け加えることもできるでしょう。

いずれにせよ、既存の制度のもとではみずからの存在がおびやかされているのだという意識、そしてそれは自分たちの問題ではなく制度の問題であるはずだという意識は、クィアスタディーズの根幹の一つをなしているのであり、そしてそのような制度の問題は、様々なところで、様々なレベルで、今も存在しているのです。

それでは、大学という制度のもとで、この制約はどのような形で、どのようなところに、あらわれてくるのでしょうか。ウルフにならって長大な物語を紡ぎだし、その中から問題が自然にあぶり出されてくるというような手法をとるだけの時間も能力も私にはありませんから、ここでは幾つかをきわめて散文的に列挙しておくしかないのですが、たとえば、建物の構造の問題があります。大多数の教職員や学生が男女二つにわかれたトイレを当然の事だとみなし、それ以外のオプションが存在すらしていない状況で、そしてそれに対する違和感も批判もほとんど表明すらされない(あるいはできない)状況で、男女の性別二元制に異議を申し立てるトランスジェンダーの学生が、どのように存在できるのでしょうか。あるいは、そのような異議申し立てをおこなうクィアスタディーズが、どのように現実味をもって存在できるのでしょうか。

あるいは、講義やゼミのおこなわれる教室において、教員からの、あるいは同僚学生による、セクシズムやヘテロセクシズム(つまり男女二元制に基づく異性愛主義のことですが)に満ちた発言が日常的に存在する中で、異性愛者ではない、あるいは伝統的な男女の区分にあてはまらないと感じている学生は、自分が大学という制度の中にいても良い存在なのだと、どのように信じられるでしょう。セクシズムやヘテロセクシズムに居心地の悪い思いをする学生は、自分の感じる疑問が不当なものでも軽微なものでもなく、学問的な検討に価するものなのだと、どのように信じることができるのでしょうか。

たとえ大学におけるそのような制度的なセクシズムやヘテロセクシズムに打ちのめされることなく研究に打ち込む学生がいたとしても、そのような研究を裏うちしてきたさまざまな基本的な事柄について――その理論的な基盤について、その歴史的な出自について、あるいはそこにあった不正や憤りや戦いについて――学ぶことのできるコースも、それどころかそれを伝えることのできる教員すら、今の日本の大学の制度においては、ほとんど存在していないのです。

さらに申し上げれば、それだけの多くの制度的な困難を乗り越えたとしても、クィアスタディーズを研究しようとすれば、とても大きな――ウルフであればそれを「小さな」と呼んだことでしょうが――障壁が控えています。つまり、ウルフによれば「知的自由は物質的なものにかかっている」のですが、彼女の言うところの年に500ポンドの収入、つまり研究に打ち込むための資金、奨学金や研究奨励金、あるいは講座を維持するための資金などを獲得するのは、非常に困難です。

もちろん、資金の枯渇はクィアスタディーズのみの問題ではなく、人文科学の多くの領域、とりわけ学際的な領域であればあるほど――つまりこれは既存の制度によってうまれる、あるいは少なくとも促進される問題であるという事ですが――、同じ問題を抱えていることは、言うまでもありません。けれども、クィアスタディーズにおいては、学際的であり、従来の大学における学問の制度のどれか一つに完全にはあてはまらないという事だけが、資金の不足をもたらしているわけではありません。そもそも大学における学問の制度において、資金をまわすには値しないと判断されやすい要素を、クィアスタディーズは持っているのであり、そしてそれはクィアスタディーズにとってきわめて本質的な、あるいは本質という言葉がクィアスタディーズと相容れないとすれば、クィアスタディーズを特徴づける非常に重要な、要素なのです。

普遍性への異議申し立て

その要素の第一としてあげられるのが、クィアスタディーズは人間主義的な伝統における普遍性の主張――そして私はここでという単語を哲学的な概念としてではなく、あまねく誰にでもあてはまる、という日常的な意味で使っていますが――に異議申し立てをするものだ、ということです。もちろん、これはクィアスタディーズの専売特許ではありませんし、クィアスタディーズはこれをフェミニズムの歴史から(少なくとも部分的には、非正統的な形において)受け継いでいるのです。

人文科学の領域におけるフェミニズムの挑戦については、ここで多言を弄する必要はないでしょう。法学において、社会学において、文学において、あるいは哲学において、フェミニスト達は、人間主義的な普遍性の理念が、いかに男性中心主義的な制度のもとでのみ成立し、それを維持するべく機能してきたのか、いかにそれらの理念それ自体が、きわめてしばしば、女性の排除を前提とすることによって可能になったのか、それを指摘し続けてきました。たとえばウルフがお金とくらべれば重要ではないと述べたまさにその投票権を求めた女性達。たとえば精神と肉体との大いなる自由、自己への大いなる信頼のあらわれた男性作家の作品を皮肉なまなざしで描き出したウルフ自身。あるいはたとえば男性作家の描き出す多様で個性的な女性像と現実の女性がおかれた状況との奇妙な不一致に驚いてみせるウルフの考察を、いわば押し進める形で、西洋の形而上学の伝統は女性をそもそも存在させなかったのだと看過したイリガライ。

これらのフェミニスト達は、既存の人間主義的な普遍性の片隅に女性も加えて欲しいと要求したわけでも、普遍性の理念と対峙するべくある種の特殊性を主張したわけでも、ありません。たとえば投票権の要求のように、一見したところ既存の普遍性への参入を要請するかのように思えるものであっても、あるいはイリガライの哲学のように女性の固有性を主張するように見えるものであっても、それらの主張が実際におこなおうとしてきたのは、ユニヴァーサリティーを標榜する主張それ自体のローカリティー、普遍性の主張が暗黙のうちに前提としている特殊性を批判的に問い直すことであり、最初に申し上げたウルフの言葉を使うなら、何が本質的で重要で大きな問題であるのかは、問題の設定の仕方によって変容するのだ、と指摘することでした。

それは、クィアスタディーズにおいては、例えば、主体の成立の過程において近親相姦タブー以前に同性愛タブーがあるのではないかと考えたバトラーに、あるいは英国近代の規範的な男性性がホモフォビアによってかろうじて支えられているのではないか、それどころか19世紀末以降の西洋文化は同性愛/異性愛の定義の危機をめぐって構造化されているのではないかと論じたセジュウィックに、引き継がれる姿勢です。言うまでもなく、彼女達の主張も、それまでは殆ど重要ではなく、特殊で局所的であるとされていたまさにその問題が、問題の設定の仕方によって、いかに普遍的な、あるいは大きな、あるいは重要な問題としての姿を見せるのかを、示そうとしたものだったのです。

つまり、クィアスタディーズは、既存の人間主義的な普遍性の理念に強く異議申し立てをし、それにあらがおうとするものであると同時に、局所的な特殊性へと回収されることをもかたくなに拒もうとする、そのような性質を持っているのです。普遍性にも特殊性にもあらがいつつ、そのどちらをも手放そうとしない、そのような性質によって、しかし、クィアスタディーズは既存の大学制度においては中途半端でうさんくさい存在になります。現在の大学における学問は、すでに設定された大きな、重要な、普遍的な問題を受けいれるか、あるいは――というよりむしろこれは同じ要請の二つの側面なのですが――特殊個別な事象を特殊個別なものとして扱いつつ、すでに設定された普遍的な問題へと昇華させるか、そのどちらかに身を落ち着ける研究を、要請しがちであるからです。

そのために、クィアスタディーズの研究者は、しばしば、研究の普遍性の不足を批判されるか――なぜなら、そこで扱われるような、ジェンダーセクシュアリティ、欲望や親密性の制度にかかわる問題は、より〈大きな〉問題へと接続・昇華されるならまだしも許せても、少なくともそれだけでは特殊な一部の人々にとってのみ重要なのだと考えられているからですが――、さもなければ、あるいはそれと同時に、そもそもの最初から特殊個別な問題を扱う――そしてここが重要なのですが――特殊な人物として、いわば、その特殊性を忘れ去らない限りはそもそも普遍性には到達できない存在として、その範囲内で、思考し研究するよう、要請されることになります。

つまり、多くのフェミニズム研究者同様、クィアスタディーズの研究者も、次のような質問に常にさらされているのです――「女性/同性愛者である君にとっては、それは重要な問題かもしれないが、そんな事にとらわれず、もっと大きな問題を考えるべきではないのか?」と。けれども、「男性/異性愛者である君にとって、それは重要で大きな問題なのかもしれないが、そんなに視野を狭めるべきではないね」などと批判された事のある研究者が、いったいどれほどいるのでしょうか。さらに悪いことに、このように研究者個人の特殊性への回収がおこなわれるとき、クィアスタディーズの研究者は〈特殊な人物〉としてアウティングされてしまいます。哲学の/文学の/社会学の専門家であれば、そのような専門家として研究し発言することを期待されることでしょう。けれども、クィアスタディーズの研究者は、しばしば、クィアスタディーズの専門家としてではなく、日本語で言う「当事者」として、つまり「同性愛者として/トランスジェンダーとして」、研究し発言しているのだろうと、勝手に想定されてしまい、そして、彼らの研究も、彼らのような特殊な一部の「当事者」だけにかかわる問題なのだろう、と決めつけられてしまうのです。

非正統性

しかし、実のところ、クィアスタディーズにとって普遍性が問題となるのは、大学という制度の中においてだけではありません。ひとたびアカデミアを離れ、さまざまなアクティビズムの場やコミュニティーにかかわる時、クィアスタディーズが、今申し上げたのは逆の方向からの批判、すなわち、普遍性を主張する知の体制への指向が強すぎるあまり、「当事者」にとって何の役にも立たなくなっている、という批判を受けることも、少なくはないのです。あるいは、クィアという概念がそもそもそのように特殊性を帯びた存在としてアイデンティフィケーションされる事それ自体にあらがう衝動をも持つものであるために、クィアスタディーズの研究者はそもそもそのようなアイデンティティを持つ「当事者」の特殊性を忘却しているのだろう、彼らの研究も、普遍性の理念に従う「研究者」だけにかかわる問題なのだろう、と考えられてしまうのです。つまり、ここでは今度はクィアスタディーズの側が、このように問われるのです――「知の体制にとってそれは大きな問題かもしれないが、もっと焦点を当事者に絞るべきではないのか?そちらの問題の方が重要なのではないのか?」と。

ここで、アカデミックな制度に対して既存の人間主義的な普遍性の理念の問題点を指摘することはできますし、アカデミアの外の、ひとびとが時に〈現場〉と呼ぶものに対して、割り当てられた特殊性を受け入れることの危険性を唱えたり、短期的には役にたたないように見えたとしても、普遍性の概念を問い直し、知を再編成することは重要なのだと主張したりすることも、できるでしょう。そして実際、クィアスタディーズは今までもそれをしてきましたし、これからもそれを続けるでしょう。

けれども、正直に認めなくてはならないのは、そのどちら側からの批判も、少なくともある一定の程度においては、外れているわけではない、という事です。ユニヴァーサリティーとローカリティー/パティキュラリティー、アカデミアと〈現場〉、クィアスタディーズはそのいずれかをとる事ができませんが、残念な事に、とりわけクィアスタディーズが扱う事象に関して、この両者はしばしば仲良く両立してはくれません。ですから、クィアスタディーズはその間で引きさかれ、どちらにおいてもどこか足りず、もしくは過剰で、どこかずれているのです。あるいは、先ほどの表現を再び使うなら、クィアスタディーズは、どこかうさんくさく、いかがわしいのです。しかしまた、どこかうさんくさくいかがわしくなければ、どうして〈クィア〉の名を冠していることが出来るでしょう。

いずれにせよ、私が、大学という制度においてクィアスタディーズが支援を受けにくくなる理由であり、しかしクィアスタディーズにとっては非常に重要な要素だと申し上げた、これが二番目の点になります。クィアスタディーズは、常に非正統的な学問にならざるを得ない、ということです。

この非正統性は、アカデミアと〈現場〉の境界線でのみ生じるわけではありません。そもそも、人文科学の枠内に限っても、クィアスタディーズはきわめてうさんくさく、きわめて非正統的なやり方で、先行する思考の蓄積を引き継いできました。ここで、またもやウルフの言葉に耳を傾けたいと思います。十九世紀前半の女性作家の境遇に思いを巡らせつつ、ウルフはこう述べます――「彼女たちには背後に何の伝統もなかった、否、あっても、殆ど助けにならないほど歴史の浅い不完全な伝統しかなかった」。そしてそのような伝統の欠如の中で、「何かが裂け、何かが引っ掻かれ」たような、文章も物語の進行も壊れたような小説を綴る一人の女性作家が、ついにそれまでの小説では描かれ得なかった場面――女性同士の情愛に満ちた親交の場面――を描き出すのに成功する過程を、描写してみせるのです。

不完全な伝統。クィアスタディーズの背後にあったのも、まさにそれでした。どの一つの思考伝統もクィアスタディーズが手放そうとしない特殊性を語るには十分ではなく、従って、手に入るもの全てをかきあつめ、本来の流れを壊して継ぎ合わせなくてはならなかったのです。あるいは、セジュウィックが見事に明らかにしたように、性愛や親密性の規範がそれ自体矛盾に満ちているために、それを考察しようとすれば、相矛盾するいくつもの思考を盗み出し、それらを不当にも接ぎ木してしまう必要があったのです。

ですから、クィアスタディーズの論考は、しばしば、先行する思考を参照する際に、読み間違えている、それぞれの思考伝統や文脈を理解していない、と批判されます。そしてこの批判は時にまったく正当なものです。しかしまた、時には、読み間違えること、参照する思考をそのもともとの文脈ではなくクィアスタディーズの文脈に暴力的にもすえ直してしまうことは、必要なことでもあったのです。ウルフの女性作家にとって、新しい場面を描くために、文章も物語の進行も壊してしまうことが必要だったように。

展望

私が今申し上げた二つの問題、つまり、普遍性の主張の批判と、非正統的な形での思考の接続とは、クィアスタディーズに固有のものではない、という御指摘を受けるかもしれません。そして、その御指摘はまったくもって正しいのです。皮肉なことに、この二つの要素は、少なくとも人文科学という領域においては、研究と思考とを促進させるダイナミクスの一部であったはずですし、その意味においてはいわば普遍化されうるものではないかと思います。しかしもちろん、そう言うのと同時に大急ぎで、クィアスタディーズ固有の問題意識やその成立の歴史へのある種の忠実さ、つまり普遍化されえないことがらに対するある種の固着の必要性を、強調しておく必要はあるのですが。

ただ、まさしく、このような普遍化への指向と特殊性への固着を臆面もなく共存させるその身振りにおいて、アカデミアとその外にある事になっている〈現場〉との間で引きさかれているそのうさんくささにおいて、その結果としての非正統的な盗み出しと接ぎ木の作業の露骨さにおいて、クィアスタディーズは、少なくとも日本の大学における人文科学が、直面はしていても必ずしも直視しているとは限らない、この緊張に満ちたダイナミクスに、もっとも自覚的に向き合っている領域の一つだと言えましょう。

そしてその意味では、現在、クィアスタディーズがその世界的な潮流として、普遍性の批判と非正統性とに彩られたもう一つの人文科学の学問領域であるポストコロニアルスタディーズに急速に接近しているのは、当然の結果でもあります。言うまでもなく、日本のクィアスタディーズは、日本の他の多くの学問領域と同様、ポストコロニアルな――あるいはその用語が不正確であるならば、それに加えて、西洋化と近代化が重ね合わせされてきたところに生じる――非正統性の問題を、抱え込んでいます。けれども、日本における最初期のクィアスタディーズが――それは英米においてとそれほど変わらない時期にはじまったのですが――早くからそのことに自覚的であったにもかかわらず、過去10年ほど、この国でのクィアスタディーズの中心がその問題に明確に取り組んできたとは言いがたいのも、事実です。私たちは、少しずつ慣れ親しみ始めてしまった形での引きさかれや、うんさんくささや、盗み出しではない、別の非正統性、別の居心地の悪さ、別の接ぎ木の仕方を、探し始めなくてはならないだろうと思います。結局のところ、慣れ親しんでしまったうさんくささのどこに、クィアなものがあるというのでしょう。

けれども、だからといって、私が最初に申し上げた点、すなわち、制度的な問題点を、放置しておくわけにはいきません。もちろん、ずっと申し上げてきたように、クィアスタディーズの直面する制度的な問題点の幾つかは、クィアスタディーズを特徴づける性質と深くかかわっているのであり、従って、私たちは、制度的な制約に苦情を言いつつ、いざクィアスタディーズがすっぽりと制度に落ち着きそうになれば身をよじって逃げ出すという、厚顔無恥なふるまいを続けなくてはなりません。しかし、それは、制度的な問題点の全てを放置することが望ましいということではないのです。最後にもう一度だけウルフに立ち戻ることを許していただけるのなら、ウルフは、想像の中にしか存在しないシェイクスピアの妹が現実に生まれてくる未来を想像して、演説の原稿を締めくくっています。けれども、この未来の女性詩人は、ただ黙って待っていても生まれては来ないのです。ウルフの結びの言葉を、またしても盗み出して、私も終わることにいたします。

私たちがそうした準備を、そうした努力をすることなくして、彼女が再び生まれてきた時には、詩を書いて生きていくことができる世の中にしようと決意することなくして、彼女が立ち現れることは期待できません。それは、不可能なことでしょうから。だが、私たちが彼女のために努力すれば、彼女は現れるでしょうし、かつ、たとえ貧しく無名であろうと、そのように努力することは、やり甲斐のあることだ、と私は主張したいのです。

Judith Halberstam 来日イベントのお知らせ

最大長期間ご無沙汰しております。一年以上になりますでしょうか。ほぼ一年ネットからほとんど離れておりました後、某所にてちょびちょびと戻ってきておりますが、まだなんとなくブログまで戻れず、ふらふらしている今日このごろでございます。

おそらくここをご覧になっている方はもういらっしゃらないだろうと思いつつ、しかも久しぶりにブログエントリを書くのであれば、他にもっと書かなくてはいけないことが、あの事やらこの事やら、とにかく山ほどあるはずなのですけれども、そういうものはすべてとりあえず置いておくとして(重要な案件を脇に置いておく癖は、一年たっても消えるものではございません)、何となくやっぱり宣伝しないのもな〜、ということで、申し訳ございませんが、宣伝でございます。

今週木曜日より三日間連続で、_Female Masculinity_の著者で、トランスジェンダースタディーズの第一線で御活躍なさっているJudith Halberstam南カリフォルニア大学教授の来日講演および関連イベントがございます。

平日ではございますが、そして何だか激しくぎりぎりの宣伝ではございますが、お時間と御興味のおありになる皆様の御参加を、心よりお待ち申し上げております。

Judith Halberstam教授講演会 "Global Female Masculinities"

  • 2009年11月26日(木)|16:30–18:30
  • 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1
  • 使用言語:英語 (通訳なし) |参加無料|事前登録不要
  • 司会:清水晶子(総合文化研究科・准教授)
  • 主催:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)
  • Judith Halberstam:南カリフォルニア大学教授。サブカルチャーを中心に、ポピュラー・カルチャー、ヴィジュル・カルチャー、クィア・カルチャーなどの分野で研究活動をおこなう。1998年の著書Female Masculinityで、男性身体を持たない男性性という革新的な観点から支配的なジェンダーのあり方への考察をおこなったのち、1999年にはDel LaGrace Volcanoと共に写真エッセー集The Drag King Bookを、2005年にはクィアサブカルチャーにおける時間・空間概念の再編成を記述し、その可能性をあきらかにするIn a Queer Time and Place: Transgender Bodies, Subcultural Livesを出版するなど、米国におけるクィアスタディーズ、トランス・ジェンダースタディーズを代表する研究者として活動を続けている。
  • "This talk is divided into three sections. In the first, I survey the work of Judith Butler, and in particular her theories of transgender identification, to consider the parochial nature of discussions of gender variance in North America and in Europe. My aim in this first section is to show how contradictory the politics of performativity can be and how much confusion there is in a US/European context in relation to thinking about gender stability and gender flexibility and their relations to gender normativity. Having localized a set of debates about gender variance in a US/European context, I turn to a global context and trace the way that these very local debates about gender variance become stabilized and universalized when they form the basis for studies of gender variance elsewhere. In the final section, I survey some recent films that take the diversity of global transgenderism seriously." - J.H.

ワークショップ  Discussion about "Global Female Masculinities"

学生イベント 「大学でQueerStudiesを学ぶこととは――Judith Halberstam教授 講演・座談会」

  • 目的:Queer theoryの著名な研究者であるハルバーシュタム教授と、幅が広く、敷居の低い話し合いの場を学部生と共有すること
  • 日時:2009年11月28日(土) 15:30-17:00
  • 場所:国際基督教大学(ICU)、本館H-116 大学までのアクセス:http://www.icu.ac.jp/access/index.html 会場へのアクセス:こちらの地図の1番の建物です。
  • 使用言語:英語(通訳なし)
  • 対象:大学学部生を中心としてQueer Studiesに興味のある方。ICU学生以外の参加も歓迎します。
  • 参加費:無料(講演・座談会)、500円(懇親会)
  • 参加申し込み:要連絡(人数確認のため、シンポシオン(ヒナコ)までお願いします)
  • 主催:シンポシオン(ICU学内LGBITサークル)
  • 担当:ヒナコ sumposion_event09 [at] yahoo.co.jp([at]を@に変更してください。
  • 共催:UTCP (東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」)

残像に目をこらし、ノイズをかきわけて聴く


ダムタイプ《S/N》上映および関連トーク・イヴェントに行ってきた。

わたくし実はこの超・有名にしてほとんど超・定番のパフォーマンスを生で見たことがない。いろいろ理由はあるのだけれど、パフォーマンスってジャンル自体がオシャレで頭の良さそうな人がわたくしにはわからないことをふふふんとささやきかわしているような雰囲気で、まあ要するに当時のわたくしには勇気がなかったのです。けれどもいつまでもそうも言っていられないし、トークイヴェントもあると言うし、時間もとれるし、そもそもこの歳になるとオシャレで頭の良さそうな人がわたくしには理解できないことがらをふふふんとささやきかわしている状態にもいい加減なれっこになってしまったので(涙)、おばさんって偉い!わからなくても行っちゃう!場違いでも行っちゃう!おばさんって勇敢!とマントラのようにつぶやきつつ、出かけてきた次第。

《S/N》という作品そのものについてはいまさら簡単になにかまとまったことが書けるわけでもなく、そもそもパフォーマンスを映像化したものを(14年の時間を経たのちに)見るのと、パフォーマンスをじかに(そして同時代的に)見るのとでは、まったく違う経験であるはずなので、ここで書くのは、《S/N》という作品についてというよりは、《S/N》の上映について、それからトークイヴェントについての、メモです。《S/N》において発せられる(あるいは表示される)言葉については、資料が手元にあるわけではないので、多少記憶違いがあるかもしれません。そんなに大きくずれてはいないと思うのですけれども、間違えていたらごめんなさい。

タイトルのS/Nをもっとも直接的に表現しつつ、HIVウィルスの経路としての血流音でもあるような(それはまた同時にしばしば「愛」や「性」と結びつけられる心拍音ということでもある)、リズミカルで力強く、同時に何か切迫しているようなビートの連続(シグナル)がもたらす緊張感や、ノイズを除去してシグナルを取り入れるための補聴器をマイクに向けてハウリングさせる(「体の中にたまったノイズを、今、解放する!」)、その鼓膜をうつノイズの衝撃は、身体感覚、それも必ずしも快だけに限定されない身体感覚をともなう反応を、呼び起こす。

その一方で、強いストロボのたかれる中、二段組みのステージの上階をスローモーションで走り、つぎの人にバトンを手渡すと立ち止まって、ゆっくりと仰向けに、虚空に吸い込まれるように倒れ込んで消えていくパフォーマーたちのイメージは、息をのむほどに美しく忘れがたく、けれどもそのイメージが引き起こすのは、直接に身体感覚として感じられる衝撃というよりは、むしろある種の身体性の喪失、倒れ込み/落ちていく身体の残像だけをかろうじて手元にひきとめ、その残像に何かを託しているような感情である。

《S/N》という作品の魅力はその両者の驚くような組み合わせのバランスにもその一端があったのかもしれないと思いつつ、しかし、初演から15年近くたってこの作品を映像で見ていたためか、わたくしには後者の感覚がより強烈に印象に残った。

複数ペアの恋人たちの映像を示して「この中の誰がAIDSをわずらっているでしょう」「セーフ・セックスさえしていれば、そんなこと、問題ですか」と問いかけるシークエンス、あるいは「ポジティブだってわかってから寝た相手は100人はくだらないわね」と古橋悌二が話すシーンなどではとりわけ、そのクリアなメッセージの力強さに共感する反面で、すでにこのパフォーマンスの時点でAIDSを発症していた古橋のその身体が、まさにそのウィルスのために、もはや存在していないのだ、という事実を思い出さずにいることは、難しい。もちろん古橋が存命であったとしても(そして、パフォーマンスとはそもそも再演できないものだ、という点をぬきにしても)、14年ものあいだ、おなじパフォーマンスが再演されつづけたわけもないのだが、それでも、14年前にこのメッセージをおくりだし、みずからの身体が経由した性行為について誇張しつつかろやかに語ってみせていたそのひとのその身体が、いまは倒れ込み/落ちてしまって、ここにはその残像だけがかろうじて残されているのだという感覚は、その「残像」がいまだにその力強さをうしなっていないということとは別に(あるいはそれだからこそ)、奇妙にこころをかき乱す。

わたくしたちの生を特徴づける時間の進行は、それ自体、着実に死と崩壊へとむかう歩みであり、《S/N》というパフォーマンスはAIDSとのかかわりにおいて、その事実につよく自覚的であったように思える。下手から上手へと「走り抜ける」パフォーマーたちのスローモーションの動きは空間的な移動よりも移動を可能にする時間の経過に見る者の注意をひきつけるし、彼らが「走り抜け」の途中で停止し、倒れて落ちていくシークエンスの繰り返しは、わたくしたちが生きている以上、わたくしたちの身体はいやおうなく時間の停止点=死へとむかって進まざるをえないのだということをあらためて強調しているようでもある。

しかし《S/N》のこのシークエンスにおいてしめされるのは、そんな身もふたもないあたりまえの事実ではなく、そのような線的な時間の経過にあらがうような、反復的で循環的な時間への賭けのようなものだ。たちどまり、倒れて落ちていった身体たちは、ふたたび舞台の下手からあらわれ、走り出す。あたかも時の流れに乗って崩壊していった身体が、崩壊へと向かうその時の流れと並行してはしる別の時の流れにおいて崩壊よりも前の地点へとたちもどるかのように。あたかも停止し死亡して消滅していった身体たちが、けっして完全には消滅することなく、残像として(あるいは、そう、ノイズとして)よみがえりつづけてくるかのように。あたかも、そうでなくてはならないかのように。

まさしくその点で、《S/N》は、同時開催の〈トレース・エレメンツ〉展で展示されている古橋のソロ・ワーク〈LOVERS--永遠の恋人たち〉に通じている。〈LOVERS〉においてなによりもつよくわたくしの印象にのこったのは、観る者をとりかこむスクリーンに映し出さる身体たち——あるき、はしり、スクリーンの同一平面上でたがいにふれあうことなくすれちがい、正面をむいてうでをさしのばし、だれともふれあうことなく、しかしだれかをだきしめ、たおれてはきえていき、しかしまたどこかにあらわれてあるきはじめる、その身体たち——の、あるいはより正確にいえばその身体たちの映像の、言葉が正確ではないけれども今のわたくしには「〈実体〉を欠いた」としか表現のしようのないような、奇妙なはかなさ、存在感のなさであり、それと同時に、そのようなはかなく存在感のない身体たちの存在を、その身体たちがはぐくんできた関係性、のこしてきた残像、たがいにかわしてあってきた、今この場ではもはや見ることのできないなにものかの存在を、それにもかかわらず今この場にそして永遠にとどめようとするちから——それを欲望とよぶべきなのか、それとも祈りとよぶべきなのか、わたくしにはわからないのだが——である。

そもそも映像というものが生きて動いている対象の時をとめることで成立する静止画像の連なりであり、したがって不可避的に、時間と生と運動とを保持し再生しようと試みるそのたびごとに同時に停止と死とをくりかえすものであるならば、言葉をかえれば、死をその内側にふくみこむことで生を永遠に、しかも再生可能なものとして、保持しようとする衝動のたまものであるならば、生きることがそのまま死と崩壊へとむかうような線的な時間にあらがうこころみとしての〈LOVERS〉が映像というメディアを利用したのは、必然的であったのだろう。

もちろん、線的な時間にそって生き/崩壊していく身体たちがはぐくできた関係性、のこしてきた残像、かわしあってきたなにものかを保持するために、目にうつる生の映像に死をかさね、死と消滅の中に二重うつしにされた生の残像をよみとる〈LOVERS〉のこころみは、それ自体政治的ないろあいをおびている。完全に消滅することなくよみがえってくる身体たち、あるいはその残像を、見えないもの、存在しないものとしておいやることなく、それらの身体たちが可能になる空間を想像することは、しかし、《S/N》において、シグナルのはざまにそれを可能にするノイズを、ノイズの中にひびくあらたなシグナルをききとるこころみとして、明確な政治性を帯びて提示されることになる。

私はあなたの愛/性/死/生に依存しない
私は自分の愛/性/死/生を発明する


これは世の中のコードにあわせるためのディシプリン
私の目にうつるシグナルの暴力


あなたが何を言っているのかわからない
でもあなたが何を言いたいのかはわかる


これは世の中のコードにあわせるためのあなたのディシプリン
私の目にうつるシグナルの暴力


あなたの目にかなう抽象的な存在にしないで



I do not depend on your love/sex/death/life
I invent my own love/sex/death/life


Here's your discipline to fit the codes of the world
The violence of signals so plain to my eyes


I don't know what you're saying
but
I know what you mean


Here's my discipline to fit the codes of the world
The violence of signals so plain to my eyes


Don't turn us into abstractions you'd like to see


《S/N》*1


《S/N》の「上映(上演ではなく)」は、古橋の身体の不在と、それにもかかわらずその身体の残像がオーディエンスであるわたくしたちとかわすなにものかの存在とをつうじて、わたくしたちを再びそのこころみの場にたちあわせ、シグナルがおさえこんだノイズをきき、ノイズの中からあらたなシグナルを発明するように、わたくしたちを促す。*2言うまでもなく、わたくしが《S/N》の上映についてこうして書くとき、わたくしは、存在し/存在しない古橋の身体を目をすがめて捉えようとし、ノイズのなかに自分の愛/性/死/生を発明しようとしているのであり、それを通じて、ふたたびシグナルの暴力をふるっているのだが、《S/N》はわたくしのシグナルにあらがい、それを常にだしぬく。だからこそわたくしはおそらくここにまた戻ってくることになるのであり、つまり、《S/N》が要請しているのは、わたくしがそのようにして残像に目をこらし、ノイズをかきわけつづけるということなのかもしれない。


ということと関係があるのかないのかわからないのですけれども、いくつかまとまらないことを。

〈トレース・エレメンツ〉展のパンフレットに東浩紀氏が「批評はもうその役割を終えている」というようなことを書いていらしたのだけれど(ちょっと手元にパンフレットがないので不正確かもしれない)、わたくしが(批評はともかく)critiqueという言葉からイメージするのは、《S/N》について上で最後に書いたことに少し関係のあるような作業だと思う。東氏の「批評」というのはjudgementであるのかもしれず、その意味ならば役割を終えているかいないかという議論は成立するような気がするのだけれども、みずからのjudgementを構成するシグナルとそれを可能にするノイズとに耳をかたむけあたらしいシグナルの可能性を探ろうとする作業としてのcritiqueが、時代の趨勢とともに不要になるものなのか、わたくしにはちょっと疑問だ。

もうひとつ、トークにおいて、《S/N》や古橋悌二についての情報がすくなくとも日本語においてはウェブ上に十分に蓄積されていないことへの嘆き(というよりは憤り)をこめた指摘があって、それはそれで非常によくわかると思ったのだけれど、それに対して浅田彰氏が「最終的にはそれは問題にならないと思っているんです。アートは情報に還元できないからです。アートは出来事なのですから」と留保も何もなく言い切っていて、少しおどろきつつ、けれどもつよく同意。そもそも《S/N》はまさにそれを(も)訴えるパフォーマンスでもあるわけなのだから。

*1:http://dumbtype.com/より。サイトには日本語バージョンが掲載されていないので、日本語はわたくしが記憶をもとに再構成しています。

*2:同日開催されたトーク・イヴェントで《S/N》を古橋個人の伝記的な側面に回収してしまうことへの疑念が提示されており、それ自体にはわたくしもまったく異論はないものの、それでもやはりその意味で、この作品の「上映」を14年後の今になって観るという経験を古橋という一人の人間の身体ときりはなすことはできないのではないかと、わたくしは思う。

NWEC報告


をしなくてはいけないのだろうとはおもうのだけれど、すでにいろいろ詳細な報告もでていることだし、あまりわたくしに書けることはなさそうなので、そちらをご覧くださいませ(はい無責任です、ごめんなさい)。


おともだちとぬえっくに行ってきました。 マサキさん
ちょっと早いけど忘れないうちに  ミヤマさん@デルタG
NWEC終わった 山口智美さん

NWECでのワークショップのメモ ワークショップに参加してくださったdemianさん


というわけで、わたくしは、ぼつぼつと、感想だけ。


まず、いらしてくださったみなさま、遠くまでほんとうにありがとうございました。企画者側のみなさまにも、おせわになりました。

内容的には、そもそも目的だの前提だのが企画者同士ですら一致しているわけではなく、結果として、すべての発言を理解していた人はおそらくだれひとりいなかっただろう(というより、お互いにおたがいの話していることを理解していないことの方が多かっただろう)というくらいに、あらゆる意見がみごとにすれちがってかなりのカオスだったのですけれども、そもそもそういうメンバーであることだし、論点がたくさん出たのはよかったよね、という感じで。まとまらないものを無理にまとめたり、意見が違っているのに無理に一致しているふりをしたりするより、はるかによいことですし。

もちろん、わたくしの頭ではついていけなかっただけで、ほかの方たちはちゃんとわかっていらしたのかもしれないですけれども、ここではその可能性は蛮勇をふるって無視します。ええ。


以下、感想。


セクシュアリティという言説


ミニコミ誌においては、非対面的コミュニケーションであるにもかかわらず、「発信者/受信者」がともに「当事者」であるという想定がある種の「安心感」をもたらしていたようだ、とする飯野さんの御指摘と、「レズビアンによるレズビアンのための」というコンセプトを打ち出すことを避けつつ発信をはじめたというデルタGのミヤマさんのお話とを、もうすこしつなげてうかがってみたかった。

じつは、わたくしがミニコミ誌を講読していたときは、そのミニコミ誌が「レズビアン」だけを対象としてうたっていたわけではないにもかかわらず、「じぶんは〈なに〉であるのか(レズビアンなのかちがうのか。どういうレズビアンなのか。〈本物〉なのか。etc)」を規定することがつよくもとめられている感覚があって、そういう場であるからこその不安というのか、「じぶんがここにいてはいけないのではないか」という気持ちをぬぐいさることができなかった。以前にどこかで書いたことなのだけれども、「じぶんはどうもヘテロではないようだ」という認識とは比較的あっさりとおりあいがついたのだけれども、そこから、「どうやらレズビアンとしてもダメっぽい」ということになったとき、(バイセクシュアルという用語への偏見もあって)「えええそれってじゃあわたくしはこのさき、恋愛とかセックスとか、いったいどうすればいいのよ!」と、かる〜く存在の危機に直面してしまったのだ。まあ、べつにそのまま恋愛でもセックスでも、やってくるものに対応してればいいじゃん、という話なのですけれども、そこにいくまでにワンクッションが必要だったのですね。わかかったわぁ<違

そんなわたくしにとって、発信者も受信者もその「アイデンティティ」がかならずしもさだかではないようなウェブ上の情報交換の形態に接したことは、とても解放的な経験だった。その点では、規模も活動の活発さもあまりにもちがうので恐縮ではあるのだけれども、ミヤマさんがおっしゃっていた感じかたに、わたくしは共感できる。

つまり、個人的にわたくしは、飯野さんが紹介なさった事例とはことなる、というかある意味では逆の、経験をしていることになる。もちろんそれは、飯野さんが紹介なさった事例がダメだということではないし、わたくしの経験がダメだということでもない(とおもいたい)。そうではなくて、それはどちらも、「じぶんが〈なに〉であるのか」をあきらかにするようにとせまり、とりわけ多数派から「ずれた」存在にこそその要請をよりつよく感じさせるような、「主体」生成と権力配分との問題であろうし、欲望を「主体」とむすびつけるセクシュアリティという言説の問題なのだろうとおもう。そのあたり、きちんと整理してうかがえればよかったのだけれども、議論のながれの中でそちらに話題をむけるきっかけをみつけられなくて、それは残念だった。


ビジビリティとビジュアリティ


上の点ともすこしかさなるような気がするのだが、マサキさんのおはなしの中で、可視性の問題がでてきたのも、もっときちんととりあげて話してみたかったとおもう。マイノリティの運動において、ある種の「わかりやすさ」と「可視性」とがもとめられる反面で、それがいわば「顔のみえるマイノリティ」というビジュアリティへの要請におきかわっていくということ、そのことが、そもそも「運動」や「可視性」がもとめられる土壌であったような社会的背景において、プライヴァシーをおびやかし、社会的(そして場合によっては物理的身体的)安全をおびやかす危険をひめていることなどは、とても重要な指摘だった。インターネット上の情報交換といえば、わたくしはまだ、いわゆるウェブサイト(でいいのでしょうか)、それからBBS、あとはブログくらいをまっさきに念頭において話をしてしまうのだけれども、ミクシやFacebookのようなある種「かお付き」のコミュニケーション形式を念頭においたお話だったのも、興味ぶかかった。

さらにいえば、このような、社会的・政治的な可視性(ビジビリティ)と、文字どおり目にみえるということ(ビジュアリティ)との関連というのは、運動論という点からも重要ではあろう。けれども、それだけではなく、視覚分野における権力配分と主体構築というのか、「(文字どおり)他人の目から見えるわたし」と「わたし」がどう折りあっていくのか、という点からも、これはとてもおもしろいテーマになりうる。もうすこしいろいろとお話を聞いてみたかったのだけれども、これまたうまくまとめてうかがう事ができなくて、残念。

残念がってばかりいないで、きちんとその場でうかがうべきことを整理してうかがえない自分の能力不足を真剣に反省すべきだ、という気がしてきました。が、それはそれとして<え。


身体とリアリティ


ワークショップ本体が終了してから、知り合いのかたが、「細分化されない〈自分〉の現実へのアクセスが、オンラインでは比較的可能なのだけれど、オフラインにおいては、〈身体〉を介在させたコミュニケーションが要求されることもあって、かなり単純化された〈自分〉にならざるを得ない」という感想をよせてくださった。これはオンラインコミュニケーションと身体という観点からもとても重要な指摘だし、おそらくトランスセクシュアル身体論ともかかわるだろうし、あるいは上で書いた最後の点(ビジュアリティと「わたし」との折りあいの問題)ともかかわってくることでもある。オンラインセックスをあつかった論文でバーチャルな身体にかかわるものを、以前によんだ記憶があるのだけれども(だれの何という論文だかわすれちゃったわ(涙))、バーチャルな身体というのともすこしちがうのかもしれない。

このあたりは、マサキさんのまとめにも書かれていることではあるので、そちらもご参照いただければ。


そのほか


で、わたくしは何をしていたのかというと、「あ、いまのところおもしろそう」「あ、それもうすこし聞きたい」と思いつつ、でもほかのかたのお話とうまくからめてそこに話題をもっていく才覚もなく、かといって全体のながれをぶったぎってその話をはじめる勇気もなく、というわけで自分のふがいなさに身をよじりつつ、いくつかふられた質問におこたえした程度で、あとはほぼだまっておりました。ダメじゃん。わたくしまだまだこういう場で議論をする訓練がたりないようで、その意味ではとてもよい経験になりましたが、企画者、参加者のみなさまには、申し訳ないことをいたしました。ごめんなさい。


ちなみに、後日談として、びっくりしたこと。

おともだちとぬえっくに行ってきました。

みなさまおともだちだったのですね<おともだち態勢でのぞんでいなかったわたくし。泣。