残像に目をこらし、ノイズをかきわけて聴く


ダムタイプ《S/N》上映および関連トーク・イヴェントに行ってきた。

わたくし実はこの超・有名にしてほとんど超・定番のパフォーマンスを生で見たことがない。いろいろ理由はあるのだけれど、パフォーマンスってジャンル自体がオシャレで頭の良さそうな人がわたくしにはわからないことをふふふんとささやきかわしているような雰囲気で、まあ要するに当時のわたくしには勇気がなかったのです。けれどもいつまでもそうも言っていられないし、トークイヴェントもあると言うし、時間もとれるし、そもそもこの歳になるとオシャレで頭の良さそうな人がわたくしには理解できないことがらをふふふんとささやきかわしている状態にもいい加減なれっこになってしまったので(涙)、おばさんって偉い!わからなくても行っちゃう!場違いでも行っちゃう!おばさんって勇敢!とマントラのようにつぶやきつつ、出かけてきた次第。

《S/N》という作品そのものについてはいまさら簡単になにかまとまったことが書けるわけでもなく、そもそもパフォーマンスを映像化したものを(14年の時間を経たのちに)見るのと、パフォーマンスをじかに(そして同時代的に)見るのとでは、まったく違う経験であるはずなので、ここで書くのは、《S/N》という作品についてというよりは、《S/N》の上映について、それからトークイヴェントについての、メモです。《S/N》において発せられる(あるいは表示される)言葉については、資料が手元にあるわけではないので、多少記憶違いがあるかもしれません。そんなに大きくずれてはいないと思うのですけれども、間違えていたらごめんなさい。

タイトルのS/Nをもっとも直接的に表現しつつ、HIVウィルスの経路としての血流音でもあるような(それはまた同時にしばしば「愛」や「性」と結びつけられる心拍音ということでもある)、リズミカルで力強く、同時に何か切迫しているようなビートの連続(シグナル)がもたらす緊張感や、ノイズを除去してシグナルを取り入れるための補聴器をマイクに向けてハウリングさせる(「体の中にたまったノイズを、今、解放する!」)、その鼓膜をうつノイズの衝撃は、身体感覚、それも必ずしも快だけに限定されない身体感覚をともなう反応を、呼び起こす。

その一方で、強いストロボのたかれる中、二段組みのステージの上階をスローモーションで走り、つぎの人にバトンを手渡すと立ち止まって、ゆっくりと仰向けに、虚空に吸い込まれるように倒れ込んで消えていくパフォーマーたちのイメージは、息をのむほどに美しく忘れがたく、けれどもそのイメージが引き起こすのは、直接に身体感覚として感じられる衝撃というよりは、むしろある種の身体性の喪失、倒れ込み/落ちていく身体の残像だけをかろうじて手元にひきとめ、その残像に何かを託しているような感情である。

《S/N》という作品の魅力はその両者の驚くような組み合わせのバランスにもその一端があったのかもしれないと思いつつ、しかし、初演から15年近くたってこの作品を映像で見ていたためか、わたくしには後者の感覚がより強烈に印象に残った。

複数ペアの恋人たちの映像を示して「この中の誰がAIDSをわずらっているでしょう」「セーフ・セックスさえしていれば、そんなこと、問題ですか」と問いかけるシークエンス、あるいは「ポジティブだってわかってから寝た相手は100人はくだらないわね」と古橋悌二が話すシーンなどではとりわけ、そのクリアなメッセージの力強さに共感する反面で、すでにこのパフォーマンスの時点でAIDSを発症していた古橋のその身体が、まさにそのウィルスのために、もはや存在していないのだ、という事実を思い出さずにいることは、難しい。もちろん古橋が存命であったとしても(そして、パフォーマンスとはそもそも再演できないものだ、という点をぬきにしても)、14年ものあいだ、おなじパフォーマンスが再演されつづけたわけもないのだが、それでも、14年前にこのメッセージをおくりだし、みずからの身体が経由した性行為について誇張しつつかろやかに語ってみせていたそのひとのその身体が、いまは倒れ込み/落ちてしまって、ここにはその残像だけがかろうじて残されているのだという感覚は、その「残像」がいまだにその力強さをうしなっていないということとは別に(あるいはそれだからこそ)、奇妙にこころをかき乱す。

わたくしたちの生を特徴づける時間の進行は、それ自体、着実に死と崩壊へとむかう歩みであり、《S/N》というパフォーマンスはAIDSとのかかわりにおいて、その事実につよく自覚的であったように思える。下手から上手へと「走り抜ける」パフォーマーたちのスローモーションの動きは空間的な移動よりも移動を可能にする時間の経過に見る者の注意をひきつけるし、彼らが「走り抜け」の途中で停止し、倒れて落ちていくシークエンスの繰り返しは、わたくしたちが生きている以上、わたくしたちの身体はいやおうなく時間の停止点=死へとむかって進まざるをえないのだということをあらためて強調しているようでもある。

しかし《S/N》のこのシークエンスにおいてしめされるのは、そんな身もふたもないあたりまえの事実ではなく、そのような線的な時間の経過にあらがうような、反復的で循環的な時間への賭けのようなものだ。たちどまり、倒れて落ちていった身体たちは、ふたたび舞台の下手からあらわれ、走り出す。あたかも時の流れに乗って崩壊していった身体が、崩壊へと向かうその時の流れと並行してはしる別の時の流れにおいて崩壊よりも前の地点へとたちもどるかのように。あたかも停止し死亡して消滅していった身体たちが、けっして完全には消滅することなく、残像として(あるいは、そう、ノイズとして)よみがえりつづけてくるかのように。あたかも、そうでなくてはならないかのように。

まさしくその点で、《S/N》は、同時開催の〈トレース・エレメンツ〉展で展示されている古橋のソロ・ワーク〈LOVERS--永遠の恋人たち〉に通じている。〈LOVERS〉においてなによりもつよくわたくしの印象にのこったのは、観る者をとりかこむスクリーンに映し出さる身体たち——あるき、はしり、スクリーンの同一平面上でたがいにふれあうことなくすれちがい、正面をむいてうでをさしのばし、だれともふれあうことなく、しかしだれかをだきしめ、たおれてはきえていき、しかしまたどこかにあらわれてあるきはじめる、その身体たち——の、あるいはより正確にいえばその身体たちの映像の、言葉が正確ではないけれども今のわたくしには「〈実体〉を欠いた」としか表現のしようのないような、奇妙なはかなさ、存在感のなさであり、それと同時に、そのようなはかなく存在感のない身体たちの存在を、その身体たちがはぐくんできた関係性、のこしてきた残像、たがいにかわしてあってきた、今この場ではもはや見ることのできないなにものかの存在を、それにもかかわらず今この場にそして永遠にとどめようとするちから——それを欲望とよぶべきなのか、それとも祈りとよぶべきなのか、わたくしにはわからないのだが——である。

そもそも映像というものが生きて動いている対象の時をとめることで成立する静止画像の連なりであり、したがって不可避的に、時間と生と運動とを保持し再生しようと試みるそのたびごとに同時に停止と死とをくりかえすものであるならば、言葉をかえれば、死をその内側にふくみこむことで生を永遠に、しかも再生可能なものとして、保持しようとする衝動のたまものであるならば、生きることがそのまま死と崩壊へとむかうような線的な時間にあらがうこころみとしての〈LOVERS〉が映像というメディアを利用したのは、必然的であったのだろう。

もちろん、線的な時間にそって生き/崩壊していく身体たちがはぐくできた関係性、のこしてきた残像、かわしあってきたなにものかを保持するために、目にうつる生の映像に死をかさね、死と消滅の中に二重うつしにされた生の残像をよみとる〈LOVERS〉のこころみは、それ自体政治的ないろあいをおびている。完全に消滅することなくよみがえってくる身体たち、あるいはその残像を、見えないもの、存在しないものとしておいやることなく、それらの身体たちが可能になる空間を想像することは、しかし、《S/N》において、シグナルのはざまにそれを可能にするノイズを、ノイズの中にひびくあらたなシグナルをききとるこころみとして、明確な政治性を帯びて提示されることになる。

私はあなたの愛/性/死/生に依存しない
私は自分の愛/性/死/生を発明する


これは世の中のコードにあわせるためのディシプリン
私の目にうつるシグナルの暴力


あなたが何を言っているのかわからない
でもあなたが何を言いたいのかはわかる


これは世の中のコードにあわせるためのあなたのディシプリン
私の目にうつるシグナルの暴力


あなたの目にかなう抽象的な存在にしないで



I do not depend on your love/sex/death/life
I invent my own love/sex/death/life


Here's your discipline to fit the codes of the world
The violence of signals so plain to my eyes


I don't know what you're saying
but
I know what you mean


Here's my discipline to fit the codes of the world
The violence of signals so plain to my eyes


Don't turn us into abstractions you'd like to see


《S/N》*1


《S/N》の「上映(上演ではなく)」は、古橋の身体の不在と、それにもかかわらずその身体の残像がオーディエンスであるわたくしたちとかわすなにものかの存在とをつうじて、わたくしたちを再びそのこころみの場にたちあわせ、シグナルがおさえこんだノイズをきき、ノイズの中からあらたなシグナルを発明するように、わたくしたちを促す。*2言うまでもなく、わたくしが《S/N》の上映についてこうして書くとき、わたくしは、存在し/存在しない古橋の身体を目をすがめて捉えようとし、ノイズのなかに自分の愛/性/死/生を発明しようとしているのであり、それを通じて、ふたたびシグナルの暴力をふるっているのだが、《S/N》はわたくしのシグナルにあらがい、それを常にだしぬく。だからこそわたくしはおそらくここにまた戻ってくることになるのであり、つまり、《S/N》が要請しているのは、わたくしがそのようにして残像に目をこらし、ノイズをかきわけつづけるということなのかもしれない。


ということと関係があるのかないのかわからないのですけれども、いくつかまとまらないことを。

〈トレース・エレメンツ〉展のパンフレットに東浩紀氏が「批評はもうその役割を終えている」というようなことを書いていらしたのだけれど(ちょっと手元にパンフレットがないので不正確かもしれない)、わたくしが(批評はともかく)critiqueという言葉からイメージするのは、《S/N》について上で最後に書いたことに少し関係のあるような作業だと思う。東氏の「批評」というのはjudgementであるのかもしれず、その意味ならば役割を終えているかいないかという議論は成立するような気がするのだけれども、みずからのjudgementを構成するシグナルとそれを可能にするノイズとに耳をかたむけあたらしいシグナルの可能性を探ろうとする作業としてのcritiqueが、時代の趨勢とともに不要になるものなのか、わたくしにはちょっと疑問だ。

もうひとつ、トークにおいて、《S/N》や古橋悌二についての情報がすくなくとも日本語においてはウェブ上に十分に蓄積されていないことへの嘆き(というよりは憤り)をこめた指摘があって、それはそれで非常によくわかると思ったのだけれど、それに対して浅田彰氏が「最終的にはそれは問題にならないと思っているんです。アートは情報に還元できないからです。アートは出来事なのですから」と留保も何もなく言い切っていて、少しおどろきつつ、けれどもつよく同意。そもそも《S/N》はまさにそれを(も)訴えるパフォーマンスでもあるわけなのだから。

*1:http://dumbtype.com/より。サイトには日本語バージョンが掲載されていないので、日本語はわたくしが記憶をもとに再構成しています。

*2:同日開催されたトーク・イヴェントで《S/N》を古橋個人の伝記的な側面に回収してしまうことへの疑念が提示されており、それ自体にはわたくしもまったく異論はないものの、それでもやはりその意味で、この作品の「上映」を14年後の今になって観るという経験を古橋という一人の人間の身体ときりはなすことはできないのではないかと、わたくしは思う。