NWEC報告


をしなくてはいけないのだろうとはおもうのだけれど、すでにいろいろ詳細な報告もでていることだし、あまりわたくしに書けることはなさそうなので、そちらをご覧くださいませ(はい無責任です、ごめんなさい)。


おともだちとぬえっくに行ってきました。 マサキさん
ちょっと早いけど忘れないうちに  ミヤマさん@デルタG
NWEC終わった 山口智美さん

NWECでのワークショップのメモ ワークショップに参加してくださったdemianさん


というわけで、わたくしは、ぼつぼつと、感想だけ。


まず、いらしてくださったみなさま、遠くまでほんとうにありがとうございました。企画者側のみなさまにも、おせわになりました。

内容的には、そもそも目的だの前提だのが企画者同士ですら一致しているわけではなく、結果として、すべての発言を理解していた人はおそらくだれひとりいなかっただろう(というより、お互いにおたがいの話していることを理解していないことの方が多かっただろう)というくらいに、あらゆる意見がみごとにすれちがってかなりのカオスだったのですけれども、そもそもそういうメンバーであることだし、論点がたくさん出たのはよかったよね、という感じで。まとまらないものを無理にまとめたり、意見が違っているのに無理に一致しているふりをしたりするより、はるかによいことですし。

もちろん、わたくしの頭ではついていけなかっただけで、ほかの方たちはちゃんとわかっていらしたのかもしれないですけれども、ここではその可能性は蛮勇をふるって無視します。ええ。


以下、感想。


セクシュアリティという言説


ミニコミ誌においては、非対面的コミュニケーションであるにもかかわらず、「発信者/受信者」がともに「当事者」であるという想定がある種の「安心感」をもたらしていたようだ、とする飯野さんの御指摘と、「レズビアンによるレズビアンのための」というコンセプトを打ち出すことを避けつつ発信をはじめたというデルタGのミヤマさんのお話とを、もうすこしつなげてうかがってみたかった。

じつは、わたくしがミニコミ誌を講読していたときは、そのミニコミ誌が「レズビアン」だけを対象としてうたっていたわけではないにもかかわらず、「じぶんは〈なに〉であるのか(レズビアンなのかちがうのか。どういうレズビアンなのか。〈本物〉なのか。etc)」を規定することがつよくもとめられている感覚があって、そういう場であるからこその不安というのか、「じぶんがここにいてはいけないのではないか」という気持ちをぬぐいさることができなかった。以前にどこかで書いたことなのだけれども、「じぶんはどうもヘテロではないようだ」という認識とは比較的あっさりとおりあいがついたのだけれども、そこから、「どうやらレズビアンとしてもダメっぽい」ということになったとき、(バイセクシュアルという用語への偏見もあって)「えええそれってじゃあわたくしはこのさき、恋愛とかセックスとか、いったいどうすればいいのよ!」と、かる〜く存在の危機に直面してしまったのだ。まあ、べつにそのまま恋愛でもセックスでも、やってくるものに対応してればいいじゃん、という話なのですけれども、そこにいくまでにワンクッションが必要だったのですね。わかかったわぁ<違

そんなわたくしにとって、発信者も受信者もその「アイデンティティ」がかならずしもさだかではないようなウェブ上の情報交換の形態に接したことは、とても解放的な経験だった。その点では、規模も活動の活発さもあまりにもちがうので恐縮ではあるのだけれども、ミヤマさんがおっしゃっていた感じかたに、わたくしは共感できる。

つまり、個人的にわたくしは、飯野さんが紹介なさった事例とはことなる、というかある意味では逆の、経験をしていることになる。もちろんそれは、飯野さんが紹介なさった事例がダメだということではないし、わたくしの経験がダメだということでもない(とおもいたい)。そうではなくて、それはどちらも、「じぶんが〈なに〉であるのか」をあきらかにするようにとせまり、とりわけ多数派から「ずれた」存在にこそその要請をよりつよく感じさせるような、「主体」生成と権力配分との問題であろうし、欲望を「主体」とむすびつけるセクシュアリティという言説の問題なのだろうとおもう。そのあたり、きちんと整理してうかがえればよかったのだけれども、議論のながれの中でそちらに話題をむけるきっかけをみつけられなくて、それは残念だった。


ビジビリティとビジュアリティ


上の点ともすこしかさなるような気がするのだが、マサキさんのおはなしの中で、可視性の問題がでてきたのも、もっときちんととりあげて話してみたかったとおもう。マイノリティの運動において、ある種の「わかりやすさ」と「可視性」とがもとめられる反面で、それがいわば「顔のみえるマイノリティ」というビジュアリティへの要請におきかわっていくということ、そのことが、そもそも「運動」や「可視性」がもとめられる土壌であったような社会的背景において、プライヴァシーをおびやかし、社会的(そして場合によっては物理的身体的)安全をおびやかす危険をひめていることなどは、とても重要な指摘だった。インターネット上の情報交換といえば、わたくしはまだ、いわゆるウェブサイト(でいいのでしょうか)、それからBBS、あとはブログくらいをまっさきに念頭において話をしてしまうのだけれども、ミクシやFacebookのようなある種「かお付き」のコミュニケーション形式を念頭においたお話だったのも、興味ぶかかった。

さらにいえば、このような、社会的・政治的な可視性(ビジビリティ)と、文字どおり目にみえるということ(ビジュアリティ)との関連というのは、運動論という点からも重要ではあろう。けれども、それだけではなく、視覚分野における権力配分と主体構築というのか、「(文字どおり)他人の目から見えるわたし」と「わたし」がどう折りあっていくのか、という点からも、これはとてもおもしろいテーマになりうる。もうすこしいろいろとお話を聞いてみたかったのだけれども、これまたうまくまとめてうかがう事ができなくて、残念。

残念がってばかりいないで、きちんとその場でうかがうべきことを整理してうかがえない自分の能力不足を真剣に反省すべきだ、という気がしてきました。が、それはそれとして<え。


身体とリアリティ


ワークショップ本体が終了してから、知り合いのかたが、「細分化されない〈自分〉の現実へのアクセスが、オンラインでは比較的可能なのだけれど、オフラインにおいては、〈身体〉を介在させたコミュニケーションが要求されることもあって、かなり単純化された〈自分〉にならざるを得ない」という感想をよせてくださった。これはオンラインコミュニケーションと身体という観点からもとても重要な指摘だし、おそらくトランスセクシュアル身体論ともかかわるだろうし、あるいは上で書いた最後の点(ビジュアリティと「わたし」との折りあいの問題)ともかかわってくることでもある。オンラインセックスをあつかった論文でバーチャルな身体にかかわるものを、以前によんだ記憶があるのだけれども(だれの何という論文だかわすれちゃったわ(涙))、バーチャルな身体というのともすこしちがうのかもしれない。

このあたりは、マサキさんのまとめにも書かれていることではあるので、そちらもご参照いただければ。


そのほか


で、わたくしは何をしていたのかというと、「あ、いまのところおもしろそう」「あ、それもうすこし聞きたい」と思いつつ、でもほかのかたのお話とうまくからめてそこに話題をもっていく才覚もなく、かといって全体のながれをぶったぎってその話をはじめる勇気もなく、というわけで自分のふがいなさに身をよじりつつ、いくつかふられた質問におこたえした程度で、あとはほぼだまっておりました。ダメじゃん。わたくしまだまだこういう場で議論をする訓練がたりないようで、その意味ではとてもよい経験になりましたが、企画者、参加者のみなさまには、申し訳ないことをいたしました。ごめんなさい。


ちなみに、後日談として、びっくりしたこと。

おともだちとぬえっくに行ってきました。

みなさまおともだちだったのですね<おともだち態勢でのぞんでいなかったわたくし。泣。