笑おう、憤りと皮肉と拒絶とをこめて
そんなわけで、既に今年になって二本もエントリをアップしているので(そしてその時点で昨年の更新数を抜きました。ブログというより完全に跡地です)、今更ではございますが、みなさま新年おめでとうございます。
新しい年をぱっと華やかに滑り出し、本年もへたれ机上フェミとして明るく楽しく生き延びて行きたいものだという夢と希望をこめまして、新春のイチオシフェミイベントであると前評判しきりの爆笑トークを鑑賞してまいりました。
新春爆笑トーク 上野千鶴子vs澁谷知美「男(の子)に生きる道はあるか?」
結論から書いてしまうと、本当にもう、フェミにとって笑いは大切よね、わたくしたち笑わなくてはいけないわよね、笑いってこういう時に否応なくこみあげてくるものよね、という、いわばフェミ的笑いの原点、シクスー的な「メデューサの笑い」の原点へといざなわれる、そういう経験でございました。
死から抜け出すには、はじけるような笑い声をたてるしかないのだと、私は思っています。[. . .] そして、私は笑いました。身をよじらせて笑っていました。私は完璧なまでに一人でした。私のまわりには何もありませんでした。[. . .] まず初めに起こることと言えば、死ぬこと、深淵へと跳躍すること、最初の笑い声を[死から抜け出すために]たてることだけなのです。
エレーヌ・シクスー、「エクリチュールへの到達」 (松本伊瑳子・国領苑子・藤倉恵子編訳、『メデューサの笑い』、紀伊國屋書店、1993年、p.308)
上野・澁谷両氏のお話それ自体には微笑すら浮かばなかったのではございましたが、イベントの後に絶望とともに確かにこみあげてきたのは笑いであり、その意味では上記WANサイトの宣伝文句になんら嘘偽りはありませんでした。もっともその笑いは、サイトの説明にあるような「ゆかい」な「爆笑」ではなく、「死から抜け出す」ためのそれのような、「身をよじらせ」るような、拒絶に満ちた笑いではありましたけれども。
さすがWAN肝いりでウェブ中継までおこなった爆笑トークというだけの事はあり、笑いのこみあげる箇所は数えきれないほどでしたが、新春から細かい笑いを脈絡なく書き連ねるのも無粋ですから、どう頑張っても忘れることのできない笑いどころ2点のみ、記録と記憶のために、ここに記しておきたいと存じます。
ただ、わたくし、ジェンダーコロキアムという伝統あるアカデミック・フェミイベントに初参加の人間としてはあるまじき事に、上野氏の『男おひとりさま道』も澁谷氏の『平成オトコ塾』も拝読しておりません。おそらく、「基本、上野さんも澁谷も男子のことは好き」とおっしゃる両氏とは異なり、わたくしが「基本、男子のことは別に好きではない」のもその一因かとは思いますけれども、参加者としての怠慢は否定しがたく、従いまして、以下に書き連ねることは両氏の著作とは、おそらくは(むしろ願わくば)、直接は関係がございません。あくまでも、この度の爆笑イベントについて、怠惰な参加者が身をよじって笑いながらその合間に書き記したことと、ご理解下さい。
さて、その上で。
まず、クィア系フェミ研究者であるわたくしにとってまったくもって笑いがとまらなかったのは、販促目的の公開イベントとはいえ、一応「アカデミックなフェミニズム」とも無関係ではないはずの場、澁谷氏はともかくおそらくは上野氏のゼミ学生もいるであろう場、そしてWANという一応日本の女性運動をつなぐことを目指しているはずの団体が共催をしている場、そのような場を、あっけらかんと見事なほどに明るく楽しく、異性愛中心主義が支配していることでした。
イベントの場で出会った友人が指摘していたことですし、動画をご覧いただければすぐにお気づきとは思いますが、トーク開始早々10分ほどで、「オトコは自分のペニス一本しかしらないけれどもオンナは何本も知っている」という卓越した知見が開示されて、瞠目することになりました。わたくし浅はかにも、学生もいるであろう大学の場でそのような発言を堂々として恥じることがないのは、フェミニズムもクィアスタディーズも知らない、偏見に満ちた、お前なんてハラスメントで訴えられてクビになればいいんだ、というような教員だけかと思っておりましたが、どうやら(セミ・)アカデミックなフェミニズムのイベントでは、「オトコはオンナだけ、オンナはオトコだけとつがうべきである(そしてつがわなくてはならない)」という、修道院も僧院も裸足で逃げ出す厳しい性的規範が、あたたかな爆笑をもって受け入れられる、という事のようです。
この性的規範とゆかいな仲間たちの爆笑はイベントを通じて続き、たとえば「オンナはおばさんと娘さんに別れる。オトコに受けようと思っている人は娘さん、そこから早めに降りたらおばさん。フェミニズムはおばさんの言説」という、まあそもそもオンナってそんなに簡単に降りられないというのが90年代以降のジェンダー理論ではなかったのかしらという野暮な突っ込みはおいておくとしても、要するにオンナはオトコ受けを狙うところから始まって後はどこかの時点でそこから降りるか降りないかしかない、という、ヒトはオンナになるのだボーヴォワールに真っ向勝負どころか、フェミニストが腹を立てた相手であるはずのフロイトすら逆さむきになぎ倒す、ごりごりの生得的ヘテロジェンダー主義(笑いながらでっちあげた造語です)が教授された瞬間などは、驚きに満ちた笑いが暖かく心の中に広がったものです。
けれども何よりも笑いで身体がうち震える思いをしたのは、質疑応答の中で「男女混合のシェアハウスでは性的関係があるのかどうか」を問題にする上野氏に、やおい研究者の方が「男性同士のシェアハウスでもそこに性的関係のうまれる可能性はある」と指摘したのに対して、その場にたのしげな爆笑がわきあがり、「さすがやおい研究者」という澁谷氏のコメントによってさらにその輪が広がった時です。わたくし、本当にへたれで今思い出しても奥歯が削れるくらいに歯ぎしりをしてしまうのですが、その場のあまりの楽しさとこみあげる笑いとに動揺して、身動きも取れませんでした。さすがの爆笑企画、破壊力は並大抵のものではございません。
いや、だって、あれです。今より10年以上もさかのぼる90年代、当事者性を打ち出した若いゲイ研究者たちが異議を申し立てたのは、まさにそのような爆笑のあり方ではなかったのでしょうか。そしてそのような爆笑の構造を当然のように受け入れていた上野氏ご本人に対して、今回のイベントが行われたのとまさに同じ東大で、批判がされたのではなかったでしょうか。
ですから、このイベントの場を支配していたものを異性愛中心主義と呼ぶのは、不当な過小評価かもしれません。失礼をいたしました。ホモフォビア、と言うべきでした。
どんだけのシシュポス、のれんに腕押し、ぬかに釘、地獄の業火にスポイト一滴。
それが過去15年にわたる上野ゼミの雰囲気であり、ジェンコロの日常であるのであれば、参加した若い院生の方がついつられて「自分の周囲を見ても男らしさから降りていても平気な人が多い。別にそういうやおい系ではないけれど」と断って三たび爆笑を誘わなくてはならない気持ちになったとしても、必ずしも彼一人を責めることはできないのかもしれません。わたくしのゼミなら即!超!批判!しますけれども。
「ほら、コッチの人がさ」ときわめて無理のある体勢で片手の甲を唇の反対側の端に押し付けて、みんなでどっと爆笑する、それは少なくとも公的にアカデミックな、しかもフェミニズムを標榜する場では、すでに絶え果てた奇習だとばかり思っておりましたのに、何このナショナル・ジオグラフィック。わたくしが昔風の文化人類学者だったら、今も東京のアカデミアにひそやかに受け継がれているらしいこの特異な風俗を見逃すことなく、ふるって参与観察にとりかかったに相違ありません。
笑わなくては。脳を煮えたぎらせ、身体をこわばらせ、息をつまらせる、その「死」から抜け出すために、笑わなくては。
そして、もう一点。こちらはクィア系というよりもむしろほとんど伝統的なフェミニズムにかかわる問題で、わたくしのようなへたれ机上人文アカデミアフェミが口をはさむのはシルバーフォックスのコートを羽織ってミストサウナに入るくらいの場違いぶりなのですけれども、けれどもそんなわたくしのさらに斜め上を行く場違いぶりを発揮していたのがこの新春爆笑企画それ自体であったことは、腹の底からこみあげる笑いどころとして、書いておくべきであろうと思います。
この爆笑イベントにおける澁谷氏の基本的な御主張は、「弱者男性」は経済的な困窮という問題にくわえて、「男であること」の要請、たとえば包茎であってはいけないとか、彼女がいなくてはいけないとか、そういう要請に苦しんでいるのだから、彼らにフェミニズムを伝えることで彼らの「自己解放」を手伝い、彼らを救いたいのだ、というものでした。それに対して上野氏の御主張は、男性はそもそも競争の原理に貫かれないような存在にはなれず、従って自分たちだけでは互いに助け合っていくことはできないのだから、相互扶助システムを作り出してきた女性に助けてもらって生きる方法を学ぶべき、というものであったようです。
弱者男性がいかに結婚できないか、女性にモテなかったり包茎だったりすることが彼らの弱さにいかに追い打ちをかけるのか、それを延々と語り合うこの爆笑トーク、WAN/ジェンコロ公認でウェブ公開までおこなったこの〈フェミニズム〉の優先課題は、そのような弱い男性に寄り添い、救い出してあげるところにあるらしく、とりわけ澁谷氏にとってはそのような男性たちに「もういいんだよ、無理しなくていいのよ」という声を届けることこそが弱者に向き合うということであるようでした。上野氏はさすがにこれに対しては何度かおだやかに異論を唱えていらしたものの、基本的には、このイベントにおける〈爆笑〉は、ダメ男を支えるおだやかで慈愛に満ちた聖母の、すべてを許す微笑なのです。そのきわめて斬新なフェミニズム解釈の衝撃を受けて、誰が笑いを押さえていられるでしょう。
わたくしは、フェミニズムの笑いというのは、てっきり、「聖母ってさ、あんだけ曖昧に微笑み続けるってありえないわよね〜安いボトックス打ちすぎよ絶対!っていうか同じボトックスうつならむしろ叶姉妹になるべきよ!」という露骨にして不謹慎な心とともにあるのかと思っていたのですけれども。
そしてまた、「弱者男性」の経済的困窮について考えるのであれば、経済的に困窮しても包茎でも彼女ができなくてもいいんだよ、と現状を心穏やかに受け入れてしあわせに暮らすことを「提案する」のではなく、なぜ「弱者男性」の経済的困窮については国をあげた問題になって「弱者女性」の経済的困窮は問題にならないのか(「あ、そっかそれって恒常的なものだから今更問題にする必要ないのよね!わかったわ!」)、男性が経済的に困窮しているとしたら従来男性よりも低賃金で使われていた女性たちの経済状態はどうなっているのか、そういうことを噛み付くようにして「問い直す」のがフェミニズムだと、わたくしは思っていたのですけれども。
さらに、男性であろうと女性であろうとそれ以外であろうと、弱者を弱者たらしめる制度や規範や権力の配分はそのままに、現状の受け入れを通じて幸運になろうと模索するのではなく、それらの制度や規範や権力配分の正当性を笑い飛ばし、その不当性を糾弾し、それらに抗って生き延びようとするところから、フェミニズムは始まるのだ、わたくしはそう思っていたのですけれども。
わたくしのような古臭いフェミニストにとって、大手さんのなさることはあまりに先鋭的で、そしてあまりに宗教詐欺的に感じられます。イベント終了後、あの部屋にずるずると残っていたら、必ずや、壷かハンコか、良くても羽毛布団を、買う羽目になったはずです。
けれども何よりも笑うべきなのは、この議論が共催者であるWANをめぐる労働争議のただ中で行われており、そして、にもかかわらず、非正規雇用で働き、経済的に困窮する「弱者男性」を救う方法を澁谷氏が熱く力説する中、女性労働者に対する不当な賃金引き下げ(少なくともWAN側からの声明が出されていない現在、労働者側からの状況説明を読む限り、不当なものであるような印象を受けます)についてはただの一言も触れられなかった、という点であり、そしてまた、女性は男性には不可能な相互扶助の体制を作り上げてきたと繰り返して述べた上野氏が、女性同士の相互扶助が一方的収奪へと転換する構造のもっとも新しい例が眼前に存在していることはおくびにも出さなかった、という点です。
ここまで避けがたい話題を取り扱いながら、ここまで完全にその話題を避けるのは、並大抵のことではありません。はらはらドキドキのスリル満点なニアミスを繰り返しながら、ぎりぎりのところで徹底して危険を回避する。人間は緊張がとけた瞬間、笑うものです。さすが爆笑トークの名手だけあって、ツボを心得ていらっしゃいます。笑いをこらえすぎて空気が薄く感じられるほどで、わたくしはへたれのあまりに声も出せずに逃げ出してしまったのでしたが、イベントの後で浴びるように解毒するように飲んだビールは、笑いのスパイスがきいて、いつもよりなお一層まわりが早かったように思います。
そして最後に忘れてはならないのは、この慈愛に満ちた爆笑トークが、日本のアカデミック・フェミニズムの一つの象徴である研究者の主催するイベントで行われ、女性の運動をつなぐと銘打ったWANによってウェブ中継されたということ、それどころか、WANは有り難いことにこのイベントの録画版を配信し、どうやらYoutubeで公開までするつもりらしい、ということです。いやいやいやいや。まさかそこまで肝の座った自虐ネタだとは、想像すらできませんでした。このような高度な爆笑トークを堂々と公開できると考えるのが現在の日本の代表的なアカデミック・フェミニズムの場の雰囲気であり、代表的な(少なくともそれを目指している)フェミニスト・ネットワークの中での了解であるとしたら、わたくし達は本当にもう、笑わなくてはならないのでしょう。バカも休み休み仰って下さい(いやむしろもう黙って下さい)、という気分でございます。
笑わなくては。わたくし達の脳を煮えたぎらせ、身体をこわばらせ、息をつまらせる、その「死」から抜け出すために、笑わなくては。
WAN新春トークの慈愛に満ちた楽しい笑いではなく、憤りと、皮肉と、拒絶とを込めて、笑わなくては。