御報告


って、宣伝をした以上、週末のパネルのご報告をするのが筋というものでしょうけれども、それとはまったく別のことです。ただ、個人的にはそれよりはるかに大事なことでございます。すみません。


ビザ更新の許可がおりました。わ〜い!!わ〜い!!何度でも言いたい。わ〜〜い!!


前回の更新の後、仕事をやすんでいた時間の方が長かったこともあり、結果として職場も数回にわたってかわっておりましたから、今回はほんとうに不安でした。こういう事情で職場もかわっているのですが、とあらかじめ問いあわせてはみたのですけれども(東京出入国管理事務所の担当の方は、たまたま良い方にあたったのかもしれませんが、とっても親切でした)、「それなら住民税の納税証明をだしていただく必要があります」と言われて、そうかそうかと市役所にでかけてみれば、働いていないから住民税を納税していない(免除されている)という状況が判明して、考えてみればあたりまえじゃないかあああああああ!!どうすればいいんだあ!!とかるくパニックになったりして、とりあえず市役所の方が、う〜ん、免除の証明だけ出しておきましょうか、と言ってくださったのでそれを頂いたりして、でも税金をはらっていない人間は蹴りだされてしまうのでは、とさらに不安は増したりして、とにかく、もう。


出入国管理事務所の方にアドバイスをいただいて、医師の診断書もふくめて必要と思われる書類はすべてととのえたものの、やはり許可がおりるまでにはだいぶん余計な時間がかかり、胃が煮えたぎるような、同時に逆に内臓の奥がこりかたまるような、夏のあいだずっと、そんな毎日をおくっておりました。



結婚さえしていればこんな思いをする必要はないわけで、それをかたくなに拒んでいるわたくしにつきあってくれているパートナーに申し訳ない反面で、結婚という特権的制度というものは、それ以外のさまざま親密な関係性へのこれほどまでの無頓着のうえに成立しているわけで、それってほんとにどうなのよ、とあらためて憤りをおぼえたり。わたくしはへたれですから、最悪の場合はすべてをかなぐりすてて婚姻関係をむすぶ覚悟でいますが、わたくしと同じような状況にあって、しかも婚姻すら許可されない場合には、パートナーの滞在権をどのように確保しろというのでしょう。


とにかく、わたくしのところは、今回は文字どおり生きのびました。なにか状況が根本的に改善されたわけではありませんけれども、とにかく、生きのびるだけは。それはそれで1つの達成と考えたい、とおもっています。


大きな励ましをいただいてきた以前からの読者のみなさまに、心からの感謝をこめて、御報告まで。

イベント告知(あさってです<遅)


関係各所でちょびちょび広報でていますが、今週末にこんなワークショップに参加いたします。まったく収拾がつかずきわめて混沌としたものになる可能性も含め、おもしろい2時間になりそうかと思っております。お近くの方は是非見物に(あるいは参戦に?参戦なのかしら?)いらしてくださいませ。

情報発信メディアと男女共同参画の視点:ミニコミからインターネットまで 多様な取り組み事例から


男女共同参画メディアネットワーク+デルタG


国立女性教育会館 男女共同参画のための研究と実践の交流推進フォーラム 


日時:2008年8月30日(土)午後4時〜6時


場所:国立女性教育会館http://www.nwec.jp/) マルチメディア研修室


概要


コミュニケーション空間における葛藤——発言者に対する一貫性や可視性への要請と、安定した一貫性に回収されない交流への欲望との——は、決して珍しくはない。だが、性的マイノリティの存在主張に関して、「クィア」の視点をとりこむと、この葛藤はとりわけ切迫した問題となりうる。本WSでは、個人を特定の「人格」や「要素」に還元する「パッケージ化」の欲望と、「パッケージ化」を逃れようとする欲望との葛藤に焦点をあてつつ、クィアなコミュニケーション空間の可能性について検討したい。


司会:前半 井芹真紀子、後半 マサキチトセ

発表:飯野由里子、マサキチトセ

レスポンス:荻上チキ、ミヤマアキラ


(フロア・ディスカッションの時間を多くとっています。その他の参加者はディスカッションでバリバリ参加する予定。)



About Us


飯野由里子


慎重なのにむこうみず、無頓着なのに内省的。周囲には無邪気な「毒舌家」として評価(?)されている。普段は教員としてジェンダー論を教えたり、フェミニズム系の研究をしたりして過ごすことを好む。ただ、体力が著しく乏しいためなのか、外出することを極力避けようとする傾向にある。攻略法は「めんどくさいなー」と思わせないこと。「家まで(会いに)行ってもいいよ」という呪文攻撃が最も効果的である。



井芹真紀子


一橋大学大学院言語社会研究科修士1年。フェミニズム理論・クィア理論を勉強中です。「従軍慰安婦」問題に関心があり、ポストコロニアリズムセクシュアリティの重なり方、またそれらとフェミニズムの関係について興味を持っています。ブログをやっているわけでもなく、インターネット上の議論に対してはもっぱら受け身ですが、自分が得た情報や議論から考えたこと・感じたことを言語化していくことがこれからの目標です。



荻上チキ


1981年生まれ。テクスト論、メディア論を専門とする批評家、ブロガー。思想系メールマガジン「αシノドス」編集長。「荻上式ブログ」「トラカレ」「内藤朝雄HP」など、様々なウェブサイトを運営する。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『ネットいじめ』(PHP新書)など、共著に『バックラッシュ!』(双風舎)など。荻上式 http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/ トラカレ! http://torakare.com/



川口遼


大学院生、社会学専攻。現在、軍事化とジェンダーをテーマにミリオタで元よしりん信者の男性自衛官に聞き取り調査を実施中。座右の銘は「嘲笑せず、嘆かず、呪わずに、理解する」。いろいろややこしい世の中だからこそ、自分の考えはとりあえず括弧にいれて、色んな人の話を聞きたいと思っているが、基本、面倒くさがり屋なのでなかなかうまくいかず。



小山エミ


1975年生まれ、米国オレゴン州在住。ドメスティックバイオレンス(DV)シェルター勤務、女性学講師などを経て、非営利団体インターセックス・イニシアティヴ代表。http://macska.org/ でブログを運営しているけれど、じつは犬が好き。日本インターセックス・イニシアティヴ http://www.intersexinitiative.org/japan/



斉藤正美


「マスメディア情報をうのみにするな」(ジェンダーとメディアHP)という活動から「女性運動と女性学ってどんな関係?」(「ジェンダーフリー」とフェミニズムHP:山口智美さんと共同運行)へと活動は広がり、今では「女性学、男女共同参画、もろもろどうなの?」(ジェンダーとメディア・ブログ)と地方在住フェミニストの視点でネット発信中。気になったら、GOOGLE検索してね。ジェンダーとメディア・ブログ http://d.hatena.ne.jp/discour/



tummygirl


大学教員兼研究者です。専門はフェミニズムクィア理論です。へたれ机上フェミなので、教育・研究関係以外には、なんの活動も発信もしていません。ブロガーでもあります。とくに何を発信するわけでもない弱小ブログですが、いちおう机上フェミ系を標榜するブロガーとして、整理のつかないことに整理をつけず、複雑なことがらを単純化せず、ささいな違和感に拘泥することを、大切にしています。



マサキチトセ


Chico Masak, a homosexual asian male bitch from CA/NZ/JP 国際基督教大学社会学専攻4年。問題関心はセクシュアリティ、女性の貧困、セックスワークドメスティック・バイオレンスなど。中学2年の時に携帯でホームページを作り、以来ブログ上でのジェンダーセクシュアリティ関連の議論に参加しています。グレート・ジャパン代表。C plus M http://masaki.web44.net/ グレート・ジャパン http://greatjapan.wordpress.com/



ミヤマアキラ


ニュースコンテンツサイト「デルタG」のライター兼運営スタッフやってます。ネットでもリアルでも面白そうなこと(セックスから政治経済まで!)にはなんでも首をつっこみますが、身体はひとつしかないのであまり効率がよくありません。身体が動けば動くほどサイトの更新が追いつかないという泥沼状況です。デルタG http://www.delta-g.org/news/



山口智


アメリカのど田舎、モンタナ州に住む大学教員です。専門は文化人類学フェミニズム、日本研究。とくに日本のフェミニズム運動をテーマとしています。時々日本で運動にも関わったりしてきました。いつもは気軽に日常を記しつつ、時にはフェミゲリラ化(?)したりするブロガーでもあり、ネットを通じて日本の幅広い人たちと交流し、議論できるのをいつも楽しんでいます。今回はリアル参加できず残念ですが、ウェブ参加させていただく予定。ふぇみにすとの雑感 http://diary.jp.aol.com/mywny3frv/ ふぇみにすとの論考 http://d.hatena.ne.jp/yamtom/



*当ワークショップは、サントリー文化財団2008年度「人文科学、社会科学に関する研究助成」による支援を受けています。


助成対象プロジェクト:「メディアイベントとしての『ジェンダーフリー論争』と『男女共同参画の未来』」代表:山口智


連絡先 nwec2008workshop-owner@yahoogroups.jp

クィアとコミュニケーションと宣伝と


ほとんど死地と化している更新されないブログを更新したとおもったらただの宣伝だけかい!というのもアレでございますので、ちょっとだけ雑感など。まあ、ただの宣伝に雑感だけかい!と言われたら、もう汗かいて寝るしかないのですけれども。

直前になってばたばたと準備をしている下のワークショップなのだけれども、コミュニケーションの空間において「クィア」という概念に内包されるある種の「引きさかれ」がどのようにあらわれてくるだろうか、みたいなところから話がはじまりそう。わたくしじつはコミュニケーション論的なことはまったくわかっていなくて、その部分はほかのみなさまにおまかせして沈黙しそうなのだけれど。

ただ、わたくしにとってのクィアという概念の魅力というのは、この概念が、一方では主体の解体とか安定したアイデンティティという概念への批判とかとむすびつけられたり、名詞というよりは動詞として考えられたりしつつ、同時に他方ではどこかつよく「アイデンティティ」、あるいは(承認されるものとしての)主体の主張への欲望にいろどられている、という点にある。

クィアってLGBTのことじゃないわよ!まちがえないでよ!」といった横から、「そっか〜じゃわたしもクィアね!」と楽しくなっているひとに、「クィアって人をさすわけじゃないのよ〜」ではなくて、「ノンケがクィアとかいってんじゃないわよ!」とかみつきそうなかんじ。アイデンティティに回収されることをあくまで拒んでいるくせに、「そうそう、みんなそれぞれことなる個性をもった人間なのよね」などといわれてイラっとしたりして、その理由を考えてみるに、そもそもLを、あるいはG/B/Tを、「人間」にカウントしてこなかったくせに、なにを今更「みんなちがった人間」とかほざいているのよ!という、アイデンティティ・ポリイティクスちっくなところに根があったりする、そういうかんじ。

そのあいだで引きさかれながら、頑固にどちらもてばなさない。もしかするとそのせいで議論が堂々めぐったり突破口がなかったり新展開がみえなかったりすることもあるのに、それでもてばなさない。というより、どちらをてばなしてもヤバいような気がしていて、かといって引きさかれてるのも大変なので、いっぱいいっぱい。ああそういうところがクィアなのよね、と、いとおしい<なにか違う

そういうふうに引きさかれた状態というのは、コミュニケーション空間においても、発言者が一貫して同定(アイデンティファイ)できる空間への要請と、そういう安定したコミュニケーションがすくいとれないものへの欲望との葛藤として、わりと見られるものなんですよ、という話を、参加者の一人であるid:seijotcp氏が前準備の段階でしてくださった。もちろんそれじゃそういう葛藤のあるコミュニケーション空間は全部クィアなのね!というわけではないし(だってクィアはやっぱりLGBTアイデンティティ・ポリティクスちっくなところから完全には根っこがぬけないんですもの)、クィアってコミュニケーションの問題だったのね!というわけでも、もちろん、ないだろう(コミュニケーションというものをどのくらい広く定義するのかにもよるのかもしれないので断言できないけれど)。

けれどもそのふたつの「引きさかれ」が交錯するところに注目するのはおもしろそうだとは思いますので、みなさまお時間があれば、是非<また宣伝。

そういう交錯の問題を最初にわたくしに指摘してくださったのは、発表者(というか発題者かな?)でもあるid:cmasak氏で、そのときに氏はそれとからめて、ウェブ上の時間の経過が特定の発信者にきわめて「ストレート」な成長物語を付与する可能性の問題にすこし触れていらしたのだけれど、じつは、個人的にはそこにより興味があったりする。たとえばホルバーシュタムなどが論じている「クィアな時間」というのが実際どこまで「クィア」なのか、わたくしには少し疑問があるのだけれども、こちらの議論はそういう「クィアな時間」の考察にもきりこめそうで、刺激的だと思う。実際にワークショップでその話になるかどうかは微妙だけれども。

正直、「メディア」系のワークショップに参加するには、わたくしはかなり力不足というか資格不足なのだけれど、それでも今回いれていただいたのは、ブログを通じてのつながりがあったからだろう。メンバーを見ても、なんだかこう、あそことあそこはああつながってるんだっけ?というのがわかるような。

そんな中ではある意味異色でもある飯野由里子氏とご一緒できるのが、今回わたくしにはとりわけうれしい。この間の『女性学』に氏が書いていらした研究ノート「〈クィアする〉とはどういうことなのか?」もとても良かったと思うのだけれど、ミニコミからAll About Japanまで、いわゆる「ブログ界隈」とは少し異なる「コミュニケーション空間」というか「発信形態」にいくつもかかわっていらした方でもあるので、今回のテーマであるコミュニケーション空間における葛藤と「クィア」に内在する葛藤との交錯について飯野氏と議論できるのは、とても楽しみだ(わたくしが前者についてまったくわかっていないので議論にはならないかもしれないですけれども、まあそれはそれとして)。

わたくし飯野氏には個人的にお世話にもなり、だから当然存じあげてもいるのだけれども、氏は、参加者紹介にも「無邪気な〈毒舌家〉」とあるように、わたくしとちがってすぐに感情的になるタイプではなくいつも冷静でおだやかなのに、というよりだからこそ、大変な毒舌家でもある(とわたくしは信じている)。内容以前にそんな氏のトークそれ自体が楽しみだったり<おい

ちなみに飯野氏は今年になって御著書も出版されているのだけれども、これがまたよい本です。フェミニズムクィア関係、あるいは日本の女性運動に興味のある方は、是非ご一読くださいませ。とても重要な本だと思います(知りあいだからじゃないですよ)。


レズビアンである「わたしたち」のストーリー

レズビアンである「わたしたち」のストーリー


というわけで、いろいろとおもしろくなる可能性のあるイベントではないかと思います。あらためまして、みなさま、是非<最後まで宣伝。

私が私を見せるようにあなたが私を見せることはできない


お久しぶりでございます。


またしてもぼちぼち復帰しようかなと思っているのですが、どうなるのか先が見えないのが人生よ、という気もしておりまして、本当にどうなるのかわかりません。何それ。いずれにせよ、いきなり重量級エントリから入ると根がへたれなわたくしは自分の重量級エントリのプレッシャーに押しつぶされること必定ですので、気が向いたら思ったことをまとまらないいままに投げ出すという相変わらずの適当さで、地味に復活を試みようと思います。


というわけで。


世界のナベアツの悲しみと楽しみ/王様の耳はロバの耳
不具を笑えないという不健全がありはしないか?/Weep for me
あなたはなぜ笑っているのか?/キリンが逆立ちしたピアス


笑いと差別性の問題というのはちょっと重量級に入るのでここではとりあえず正面からそれを扱うのは回避するとして(へたれ全開です)、例によって気になった点だけメモ。

身体に特徴があることは、身体に特徴があることにすぎず、笑うことではない。(「あなたはなぜ笑っているのか」)


font-daさんが述べるように、その形状や機能において「わたし」が一般的に「身体」として認識するものとは異なっているような身体は、確かにそれ自体においては別に面白くも何ともない。しかしおそらくはそれにとどまらず、「わたし」にとって「異なる身体」は、しばしば「わたし」の身体の同一性を揺るがしかねない恐ろしいものになりうるのではなかろうか。恐ろしいからこそそこから目をそむけたくもなるし(これを同一化の可能性を拒絶しようとする欲望と考えることもできるだろう)、逆にだからこそ状況によっては、そこに目を引きつけられることにもなる(これを性急な同一化を通じて恐怖を解消しようとする欲望と考えることもできるだろう)。

規範的な身体と「異なる」身体を展示する「見世物」というのは、何よりもまず、この後者の欲望に訴えようとするものではなかっただろうか。だからこそ「見世物」は必ずしも「笑える」ものである必要はない。むしろ異なる身体を展示する「見世物」においては、ホラー映画を見るような「怖いもの見たさ」が先にあったと考えても不思議ではないだろう。「笑い」は「恐ろしいもの」の衝撃に対する防御反応として生まれたかもしれないし、あるいはすでにそれを「恐ろしいもの」と感じさせない何らかの装置があるからこそ、差異を劣性とみなして「嗤う」ことが可能なのかもしれない。

いずれにせよ、「見世物」が「見世物」であるために必要なのは、展示されている身体があくまでもそれを眺める身体から隔離されていること、眺める身体が展示されている身体に取り込まれ同一化されないことを保証する(ように見える)装置があること、であるだろう。そのような装置こそが「見世物」であるといっても良いかもしれない。見る者の同一性を脅かさない「対象」として特定の身体を展示すること。見る者と見られる者という明確な方向性を維持することで、見られる者からの働きかけをあらかじめ遮断すること。

もちろん、そのような装置が常に意図された通りにだけ作用するとはかぎらない。見る者の優位と同一性を脅かさないはずの「見世物」がそれにもかかわらず見る者をかき乱し不安にさせる可能性、封印したはずの欲望が、見る者と見られる者、「わたしの身体」と「異なる身体」との間に想定されていたはずの境界線を無効にする可能性は、常に存在する。あるいは両者の断絶を前提としていたはずの「笑い」がまさしくその断絶を必要としていた同一化への抵抗を取り除くことすらあるかもしれない。

とりわけ、見世物において「展示されていた」身体が、ただ単に「展示される」ことをやめてそれ自身を「見せ」はじめる時、見る者と見られる者の間に想定されていた関係は大きく変容せざるを得ない。自らを見せる身体は、それ自身を見る者を見ているのであり、見る者の視線を予期してそれを操作しようとするのだから。

そうであれば、たとえば映画『フリークス』は、異なる身体の展示への抵抗を引き起こしただけではない。むしろそれは、異なる身体が受動的な「展示されるもの」に回収されず、規範的身体の同一性を脅かすべく働きかけをはじめる事への恐怖と抵抗をこそ、引き起こしたのではなかったのか。

難しいのは、この手の笑いを不健全と見る態度が本当に健全か、という問題である。昔、トッド・ブラウニングという人が“フリークス”という映画を撮った。(中略)愛するサーカスを舞台にした映画に、同業者たちを使ったトッド・ブラウニング。この娯楽作品を非難し上映を妨害した良識人たち。果たして不健全なのはどちらか。(「不具を笑えないという不健全がありはしないか?」)


従って、たとえば『フリークス』という映画でおきていること、あるいは「異なる身体」を持つ人がその差異を含めて自らの身体を「見せる」ことは、規範的な身体を持つ人が特定の差異を記号化して利用することとは、根本的に異なっているというべきではないか。前者において「異なる身体」は、「展示される身体」から「見せる身体」への移行を通じて、規範的な身体による同一化の拒絶と、それと裏表にある規範的身体の優位性とを変容させる可能性を獲得している。それに対して後者における「異なる身体」は、「自らを見せる」可能性を拒絶されているばかりか、記号に回収されえない身体の「展示」を通じて記号化にさからう反応を見る者の中に引き起こす可能性すら、奪われているのだ。

誤解しないで欲しいのだけれども、これは、規範的な身体を持つ人が何らかの差異を演じてはいけない、ということではない。規範的な身体を通じて異なる身体を見せることによって、特定の身体への同一化の拒絶がやわらいだり、また別の特定の身体の優位性が揺らいだり、ということは、もちろんありうるだろう。ただ、それは「異なる身体」が自らを見せることと同じものではない、ということなのだ。

その二つを混同して『フリークス』への(あるいは「障害者が障害をウリにした芸人をやる」ことそれ自体への)非難と「ナベアツの芸」が依拠する記号に対する批判とを「安易なヒューマニズム」としてつなぐ考察は、「安易なヒューマニズム」の愚かしさに対して鋭敏であろうとするあまり、身体と視線をめぐるポリティクスへの鋭敏さを欠くことにならないだろうか。

REMの残りの二人によるカミングアウト


休憩時間に見つけて楽しいのでとりあえず貼っておきます。
個人的にはマイケル・スタイプのカミングアウトよりも、こちらの方がポイントは高いです。

まあ、いずれにせよ次のアルバムが出るそうなので、シニカルに見ようと思えば見られるわけですが(あ、動画はいつのものなのか良くわからないので、昔のものかもしれないです。というか以前こういうニュースを聞いたような気がします<記憶力後退)。


ついでにトランスクリプトも見つけたのではっておきます。

My name is Michael Stipe, I'm here to make an announcement on behalf of R.E.M., but I want to express any doubters that I'm here on my own volition. uhhhmmmm, I'm a little nervous, so I'm gonna read this to get it right.

R.E.M's Mike MIlls & Peter Buck announce today that they are both, after years of awkward speculation, heterosexual or STRAIGHT. I am happy for my bandmates & congratulate their candidness & their courage in making this whole statement. I stand beside them always and I am proud of their strength of character in this difficult but liberating decision to come forward. I can say on their behalf that they are here to finally acknowledge their real selves publicly.

Mike Mills said, and I quote "It is time to step out of the fog-fa-ffffffff-fo-faaaaaaa-FAG the fog of uncertainty & into the light of light."

uh, thank you all

検閲を知らしめる

中国に出張をしておりました。出張前準備が間に合わずに放り投げていたあの仕事やこの仕事(まだ終わってないですごめんなさい)にすっかり小突き回されているのに加えて、どうやらちょっと風邪をひいたらしく、この数日声は出ないわ喉は痛いわ身体はだるいわで、へろへろです。

マスクをつけてげほげほしながら「きっと鳥インフルエンザです〜」と言うのだけが楽しみ<おい。いや、熱が出ないのでインフルエンザではないですよ、とあっさり医者に却下されたのだけれども(あわよくばお墨付きで仕事を休もうと思っていましたのに、それで休めなくなりましたわ。しくしく)。

それはそれとして。中国滞在直前にチベットの件があって中国のテレビでもそれを見ていたのだけれども、その時に、ちょっと不思議なことがあってよく理解できないので、書き留めておく。

二つのホテルに滞在したのだけれども、そのうちの一つにはCNNとかは入っておらず、CCTVの英語放送が入っていた。中国語がわからないわたくしはその英語放送を見ていたのだけれども、こちらではまあ当然というか、ありがちというか、チベットでこんな暴動をおこす若者がいて大層困ったことであった、どうやら暴動はおさまりつつあり、人々も平常な生活を取り戻そうとつとめていはいるものの、純真な子供たちはトラウマを負い(「怖かったの〜」という子供のインタビュー挿入)、罪もない善意の市民が巻き込まれて負傷し(老父の無事を確かめにいこうとして暴徒に襲われたという漢人の医師のインタビュー挿入)、本当にもうああいう輩はいけませんね、という雰囲気。

渡航直前に一応ニュースを見ていたので、その臆面もない粉飾ぶりに苦笑いしか出ない気がする反面、一連の「暴動」を扱うCCTVの報道のてさばきが、たとえばパレスチナの「暴動」に関する「自由世界諸国」におけるそれを見事に反復していることもまた明らかで、それを思うと、苦笑いではすまないどす黒さが。

で、これは別に不思議なことではなくて、不思議だったのは、もう一つのホテルでのCNN放送。

CNNでも当然チベットの事件を報道していて、中国政府による弾圧があったとか、そういうことも話していたのだけれども、その中で、チベットへの旅行客の一人がその様子をビデオ撮影したものを入手した、というくだりがあった。

そこまではCNNは普通にニュースを流していた。ところが、そのビデオ映像のところに入ると。

すなあらし。

1分あったかなかったか。しばらくたつと、何事もなかったように元の画面に切り替わる。

最初のときは非常にタイミングの悪い故障かと思った。だって、あれです。その直前までの話は全部伝わっているわけです。その映像だけ切ることに何の意味があるのだろうか、と。

けれども、同じことが二度あったので、おそらくあれは意図的なカットなのだと考えるべきなのだろう。でも、そうだとすると、このカットの意味はいったい何なのだろうか。

英語がわからないけれども映像は見ることのできる中国国民に、映像を見せないため?しかし、その前にもそれとは違うにしても写真はあるわけで、何の話をしているのかは明確だろう。そもそも、チベット問題についての話をしているらしいという事すら想像できない程度の英語力で、CNNを入れている家庭が、中国にそれほどあるのだろうか(<これは反語ではなくて全くわからないのですが)。

チベット問題についての話をしており、「暴動」があり、政府が強硬な介入をし、その様子を映像でとった人がいたらしい、ということがわかった場合、その映像それだけをきることに、どれだけの意味があるのだろうか。むしろ、「どんな恐ろしいことがあったのだろう」という想像をかきたてるだけではないのだろうか。どうせあれだけ露骨に検閲を入れるのであれば、なぜチベット関連のニュース全体を切り取ってしまわないのだろうか。それでは「すなあらし」の時間が長すぎてしまうからなのか。「映像」それ自体だけが特別に大きな力を持つと考えているからなのか。しかし、映像の持つ力をそれだけ重視しているとすれば、逆に、「映像だけを切り取る」ことが、何か重大な事実が隠蔽されているのではという疑いを強力に掻き立てることにつながりかねない、という結論に、なぜいたらないのだろうか。

あるいは、検閲が入るのだという事実を見せることに意味があるのかもしれない、とも思う。国営放送であるCCTVで働いている検閲が不可視化されているとすれば、「外国の」メディアであるCNNに働く検閲は非常に可視的なものだ。可視化された検閲は、その存在自体が、特定の社会において何が存在を許され、何が存在を許されないのかについてのメッセージであると考えれば、検閲によって切り取られる対象の可視性ではなく、検閲行為そのものの可視性こそが、ここでは問題になっているのかもしれない。

あるいは単純に、CNNとの何らかの契約なり何なりの関係で、いわば「地の文」というのか、スタジオでニュースを読むシーンについてはカットをしない、というようなことがあるというだけなのかもしれない。

本当にわかりません。もしご存知の方がいらしたら教えてください。

とにかく見てください(メフディさん続報:リンクのみ)

すみません、全く時間がとれなくて、しかもしばらく出張で国外に出るので、今後十日以上わたくしは身動きがとれないのですが、もしまだチェックしていらっしゃらない方がいらしたら、とにかくこちらを見てください(ここにいらっしゃる方で未読の方はいらっしゃらないような気もしますけれども)。


tnfuk:イラン人19歳男性、英国へ送還へ(記事リンク集つき)

デルタG:メフディさん、イギリスへ送還決定


以前わたくしの記事でも触れた、「目立たないようにすればいいじゃないかよ論」が、はっきりと障害になっていて、足を踏み鳴らしたいほどに腹立たしい。

これって完全にクィアの問題ですよ<目立たないようにすれば大丈夫と言われるが、目立たせなければ(目立たなくできるということなのだから)助けてもらえない、でも目立ってしまったら(目立った自分が悪いのだから)ダメでも自業自得