ヴァージニア・ウルフはやっぱり怖い
以下、ちょっと前に某所で喋れと言われて喋ったものです。タイトルはついていません。当日のイベントをまとめて冊子にするのしないのと色々言われておりまして要するに未決定なのですけれど、とりあえず様子が判明するまではこちらに挙げておきます。
「日本の大学でのクィア・スタディーズの現状や問題点についての簡単な紹介と将来の展望」を、10-15分で、クィアにもフェミニズムにも(おそらく)超!無関心!な聴衆を相手に話せという、わたくしの能力をはるかに超える御仕事で、無理無理無理わたくしには無理!と泣きわめきつつ、とりあえず先方の御仕事上の要望には極力御応えしようとした結果、かなりの省略と単純化が目立つものになっておりますが、かわいそうに力及ばず倒れたのねとゆるく見逃していただきますよう、お願い申したい次第でございます。
同時通訳だの何だのの問題がございまして、当日は急遽これより多少短いバージョンに変更いたしましたので、正確には、これは喋ったとおりのものではなく、喋る予定だった原稿、ということになります。
相も変わらずブログエントリとしては無意味にずるずると長いのですけれども、ポイントとしては「ヴァージニア・ウルフってエラい」という事でお願いいたします<なにそれ。
ちなみに、非常に個人的な怨恨だの不満だのがぎっしりと詰まっておりますが、それらの怨恨だの不満だのを向けたはずの先には全く伝わらなかったようでございました。その程度の力だということだと思い知り、ハンカチを振り絞り噛み締め引きちぎりつつ、一層の精進に励みたいと思います。多分。
また、このスピーチは某クィア系ブログに「クィア・スタディーズなんて役に立たないものですがそれが何か」といわんばかりの喧嘩上等なエントリを書いている知人との会話の中から考えてきたことをもとにしています。エントリに何か問題があればそれは勿論わたくしの責任ですが、エントリに見るべきところが万が一あるとすれば、その少なくとも半分はその知人に帰せられるものであろうと思いますので、ここに謝意を表します。
イントロダクション:『自分だけの部屋 』
でも、とあなた方はおっしゃるでしょう、私たちは女性と小説についてお話下さるよう御願いしたのですよ――それが自分だけの部屋と一体どういう関係があるのですか、と。[ . . .] 私がせいぜいできることは、一つの小さな点についてある意見――すなわち、女性が小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋を持たねばならないということ――を述べるだけなのです。ということは、いうまでもなく、女性の本質及び小説の本質という大きな問題を未解決のままにしておくことになりましょう。
Virginia Woolf
もちろん、これは私のスピーチの冒頭ではありませんし、「大学における人文科学の未来」についてのスピーチの冒頭ですらありません。皆さまもご存知のように、これは、全く別の女性が、全く別のテーマについておこなった講演の冒頭部分です。けれども、今日ここで「大学における人文科学の――私の場合には、大学におけるクィア・スタディーズの――未来」についてお話するにあたって、ヴァージニア・ウルフのこの講演の冒頭を盗み出し、それを幾分違うお話に接ぎ木するところから始めることを、お許しいただきたいと思います。
女性と小説について話すようにといわれたウルフは、女性の本質および小説の本質という大きな問題を未解決のままにして、お金――年に500ポンドの収入――と鍵のかかる部屋という「小さな点」について意見を述べたい、と言いました。500ポンドと鍵のかかる部屋、これを物質的・制度的な制約の問題と読み替えることができるでしょう。ですから、私も今日はウルフのまねをして、まず制度的な制約の問題からお話しようと思います。
けれど、ウルフのこの講演を読んだことのある方ならお分かりの通り、この「小さな点」は、実際には、小さいどころか、彼女のいう「大きな問題」――女性とは何か、小説とは何か――に直接かかわる問題でもありました。それを「小さな点」にしてしまったのは、当時の(つまり1928年の)イギリスの制度であり、その制度の中では他の「大きな問題」こそ、より重要で本質的だと考えられていたわけです。重要ではないといわれている事がらの重要性を主張すること、本質的で大きな問題とされている事柄が大きく見落としているものがあると指摘すること、これはフェミニズムの、そして部分的かつ非正統的にフェミニズムの伝統を引き継ぐクィア・スタディーズの、重要な企ての一つです。私が今日二番目にお話するのは、この点についてです。
とはいえ、私が今申し上げたように、クィア・スタディーズはフェミニズムの伝統を正統に受け継ぐ存在ではありません。フェミニズムがクィア・スタディーズの母であるとしても、クィア・スタディーズはフェミニズムだけの子供ではありません。クィア・スタディーズには他にも(そして、他にも多くの、というべきでしょうが)母がおり、そのいずれにとっても、クィア・スタディーズは正統な子供ではないのです。私がウルフの良く知られた演説の冒頭を盗み出し、それを少し違ったお話へと接ぎ木しようとしているように、クィア・スタディーズは、何かを盗み出し、非正統的にそれらを接ぎ木しながら、進んできました。この非正統性の問題が、私が今日お話する三番目の点です。
制度的な問題
それでは、まず最初の点、制度的な制約という点、今日のテーマに従って、大学という制度の中での制約の問題から、お話をしたいと思います。そして、これはクィア・スタディーズという領域、とりわけその未来について話そうとすれば、避けて通れない点でもあります。
ここではあらためて詳細には立ち入りませんが、クィア・スタディーズ成立の背景をなす歴史的諸要素を少し考えれば、クィア・スタディーズというこの領域が、すでに存在している制度において自らの存在が許されていないという事態に対する抵抗からうまれてきたのだ、という事は、明らかです。
たとえば女性学からはじまるフェミニズム研究を動機づけてきた必要性を思い浮かべていただいてもいいでしょう(これはまさしくウルフが述べている事柄の延長線上にあるわけです)。あるいは、ゲイ/レズビアン・スタディーズを可能にした100年にわたる同性愛者の権利獲得運動を、さらには、80年代後半のエイズ・パニックにおいて明らかになった国家の制度的な見殺しへの憤りに裏付けられたエイズ/クィア・アクティビズムを想起していただいてもかまいません。日本の状況に限って言うのであれば、そこに、日本には伝統的に同性愛者差別は存在しないと言い放ちつつ同性愛者やそれに関連する用語が失笑なしでは語られない文化的閉塞感への憤り、不健全であるはずの同性愛者には公的施設は使わせられないと主張する行政組織との対決、などを付け加えることもできるでしょう。
いずれにせよ、既存の制度のもとではみずからの存在がおびやかされているのだという意識、そしてそれは自分たちの問題ではなく制度の問題であるはずだという意識は、クィア・スタディーズの根幹の一つをなしているのであり、そしてそのような制度の問題は、様々なところで、様々なレベルで、今も存在しているのです。
それでは、大学という制度のもとで、この制約はどのような形で、どのようなところに、あらわれてくるのでしょうか。ウルフにならって長大な物語を紡ぎだし、その中から問題が自然にあぶり出されてくるというような手法をとるだけの時間も能力も私にはありませんから、ここでは幾つかをきわめて散文的に列挙しておくしかないのですが、たとえば、建物の構造の問題があります。大多数の教職員や学生が男女二つにわかれたトイレを当然の事だとみなし、それ以外のオプションが存在すらしていない状況で、そしてそれに対する違和感も批判もほとんど表明すらされない(あるいはできない)状況で、男女の性別二元制に異議を申し立てるトランスジェンダーの学生が、どのように存在できるのでしょうか。あるいは、そのような異議申し立てをおこなうクィア・スタディーズが、どのように現実味をもって存在できるのでしょうか。
あるいは、講義やゼミのおこなわれる教室において、教員からの、あるいは同僚学生による、セクシズムやヘテロセクシズム(つまり男女二元制に基づく異性愛主義のことですが)に満ちた発言が日常的に存在する中で、異性愛者ではない、あるいは伝統的な男女の区分にあてはまらないと感じている学生は、自分が大学という制度の中にいても良い存在なのだと、どのように信じられるでしょう。セクシズムやヘテロセクシズムに居心地の悪い思いをする学生は、自分の感じる疑問が不当なものでも軽微なものでもなく、学問的な検討に価するものなのだと、どのように信じることができるのでしょうか。
たとえ大学におけるそのような制度的なセクシズムやヘテロセクシズムに打ちのめされることなく研究に打ち込む学生がいたとしても、そのような研究を裏うちしてきたさまざまな基本的な事柄について――その理論的な基盤について、その歴史的な出自について、あるいはそこにあった不正や憤りや戦いについて――学ぶことのできるコースも、それどころかそれを伝えることのできる教員すら、今の日本の大学の制度においては、ほとんど存在していないのです。
さらに申し上げれば、それだけの多くの制度的な困難を乗り越えたとしても、クィア・スタディーズを研究しようとすれば、とても大きな――ウルフであればそれを「小さな」と呼んだことでしょうが――障壁が控えています。つまり、ウルフによれば「知的自由は物質的なものにかかっている」のですが、彼女の言うところの年に500ポンドの収入、つまり研究に打ち込むための資金、奨学金や研究奨励金、あるいは講座を維持するための資金などを獲得するのは、非常に困難です。
もちろん、資金の枯渇はクィア・スタディーズのみの問題ではなく、人文科学の多くの領域、とりわけ学際的な領域であればあるほど――つまりこれは既存の制度によってうまれる、あるいは少なくとも促進される問題であるという事ですが――、同じ問題を抱えていることは、言うまでもありません。けれども、クィア・スタディーズにおいては、学際的であり、従来の大学における学問の制度のどれか一つに完全にはあてはまらないという事だけが、資金の不足をもたらしているわけではありません。そもそも大学における学問の制度において、資金をまわすには値しないと判断されやすい要素を、クィア・スタディーズは持っているのであり、そしてそれはクィア・スタディーズにとってきわめて本質的な、あるいは本質という言葉がクィア・スタディーズと相容れないとすれば、クィア・スタディーズを特徴づける非常に重要な、要素なのです。
普遍性への異議申し立て
その要素の第一としてあげられるのが、クィア・スタディーズは人間主義的な伝統における普遍性の主張――そして私はここでという単語を哲学的な概念としてではなく、あまねく誰にでもあてはまる、という日常的な意味で使っていますが――に異議申し立てをするものだ、ということです。もちろん、これはクィア・スタディーズの専売特許ではありませんし、クィア・スタディーズはこれをフェミニズムの歴史から(少なくとも部分的には、非正統的な形において)受け継いでいるのです。
人文科学の領域におけるフェミニズムの挑戦については、ここで多言を弄する必要はないでしょう。法学において、社会学において、文学において、あるいは哲学において、フェミニスト達は、人間主義的な普遍性の理念が、いかに男性中心主義的な制度のもとでのみ成立し、それを維持するべく機能してきたのか、いかにそれらの理念それ自体が、きわめてしばしば、女性の排除を前提とすることによって可能になったのか、それを指摘し続けてきました。たとえばウルフがお金とくらべれば重要ではないと述べたまさにその投票権を求めた女性達。たとえば精神と肉体との大いなる自由、自己への大いなる信頼のあらわれた男性作家の作品を皮肉なまなざしで描き出したウルフ自身。あるいはたとえば男性作家の描き出す多様で個性的な女性像と現実の女性がおかれた状況との奇妙な不一致に驚いてみせるウルフの考察を、いわば押し進める形で、西洋の形而上学の伝統は女性をそもそも存在させなかったのだと看過したイリガライ。
これらのフェミニスト達は、既存の人間主義的な普遍性の片隅に女性も加えて欲しいと要求したわけでも、普遍性の理念と対峙するべくある種の特殊性を主張したわけでも、ありません。たとえば投票権の要求のように、一見したところ既存の普遍性への参入を要請するかのように思えるものであっても、あるいはイリガライの哲学のように女性の固有性を主張するように見えるものであっても、それらの主張が実際におこなおうとしてきたのは、ユニヴァーサリティーを標榜する主張それ自体のローカリティー、普遍性の主張が暗黙のうちに前提としている特殊性を批判的に問い直すことであり、最初に申し上げたウルフの言葉を使うなら、何が本質的で重要で大きな問題であるのかは、問題の設定の仕方によって変容するのだ、と指摘することでした。
それは、クィア・スタディーズにおいては、例えば、主体の成立の過程において近親相姦タブー以前に同性愛タブーがあるのではないかと考えたバトラーに、あるいは英国近代の規範的な男性性がホモフォビアによってかろうじて支えられているのではないか、それどころか19世紀末以降の西洋文化は同性愛/異性愛の定義の危機をめぐって構造化されているのではないかと論じたセジュウィックに、引き継がれる姿勢です。言うまでもなく、彼女達の主張も、それまでは殆ど重要ではなく、特殊で局所的であるとされていたまさにその問題が、問題の設定の仕方によって、いかに普遍的な、あるいは大きな、あるいは重要な問題としての姿を見せるのかを、示そうとしたものだったのです。
つまり、クィア・スタディーズは、既存の人間主義的な普遍性の理念に強く異議申し立てをし、それにあらがおうとするものであると同時に、局所的な特殊性へと回収されることをもかたくなに拒もうとする、そのような性質を持っているのです。普遍性にも特殊性にもあらがいつつ、そのどちらをも手放そうとしない、そのような性質によって、しかし、クィア・スタディーズは既存の大学制度においては中途半端でうさんくさい存在になります。現在の大学における学問は、すでに設定された大きな、重要な、普遍的な問題を受けいれるか、あるいは――というよりむしろこれは同じ要請の二つの側面なのですが――特殊個別な事象を特殊個別なものとして扱いつつ、すでに設定された普遍的な問題へと昇華させるか、そのどちらかに身を落ち着ける研究を、要請しがちであるからです。
そのために、クィア・スタディーズの研究者は、しばしば、研究の普遍性の不足を批判されるか――なぜなら、そこで扱われるような、ジェンダーやセクシュアリティ、欲望や親密性の制度にかかわる問題は、より〈大きな〉問題へと接続・昇華されるならまだしも許せても、少なくともそれだけでは特殊な一部の人々にとってのみ重要なのだと考えられているからですが――、さもなければ、あるいはそれと同時に、そもそもの最初から特殊個別な問題を扱う――そしてここが重要なのですが――特殊な人物として、いわば、その特殊性を忘れ去らない限りはそもそも普遍性には到達できない存在として、その範囲内で、思考し研究するよう、要請されることになります。
つまり、多くのフェミニズム研究者同様、クィア・スタディーズの研究者も、次のような質問に常にさらされているのです――「女性/同性愛者である君にとっては、それは重要な問題かもしれないが、そんな事にとらわれず、もっと大きな問題を考えるべきではないのか?」と。けれども、「男性/異性愛者である君にとって、それは重要で大きな問題なのかもしれないが、そんなに視野を狭めるべきではないね」などと批判された事のある研究者が、いったいどれほどいるのでしょうか。さらに悪いことに、このように研究者個人の特殊性への回収がおこなわれるとき、クィア・スタディーズの研究者は〈特殊な人物〉としてアウティングされてしまいます。哲学の/文学の/社会学の専門家であれば、そのような専門家として研究し発言することを期待されることでしょう。けれども、クィア・スタディーズの研究者は、しばしば、クィア・スタディーズの専門家としてではなく、日本語で言う「当事者」として、つまり「同性愛者として/トランスジェンダーとして」、研究し発言しているのだろうと、勝手に想定されてしまい、そして、彼らの研究も、彼らのような特殊な一部の「当事者」だけにかかわる問題なのだろう、と決めつけられてしまうのです。
非正統性
しかし、実のところ、クィア・スタディーズにとって普遍性が問題となるのは、大学という制度の中においてだけではありません。ひとたびアカデミアを離れ、さまざまなアクティビズムの場やコミュニティーにかかわる時、クィア・スタディーズが、今申し上げたのは逆の方向からの批判、すなわち、普遍性を主張する知の体制への指向が強すぎるあまり、「当事者」にとって何の役にも立たなくなっている、という批判を受けることも、少なくはないのです。あるいは、クィアという概念がそもそもそのように特殊性を帯びた存在としてアイデンティフィケーションされる事それ自体にあらがう衝動をも持つものであるために、クィア・スタディーズの研究者はそもそもそのようなアイデンティティを持つ「当事者」の特殊性を忘却しているのだろう、彼らの研究も、普遍性の理念に従う「研究者」だけにかかわる問題なのだろう、と考えられてしまうのです。つまり、ここでは今度はクィア・スタディーズの側が、このように問われるのです――「知の体制にとってそれは大きな問題かもしれないが、もっと焦点を当事者に絞るべきではないのか?そちらの問題の方が重要なのではないのか?」と。
ここで、アカデミックな制度に対して既存の人間主義的な普遍性の理念の問題点を指摘することはできますし、アカデミアの外の、ひとびとが時に〈現場〉と呼ぶものに対して、割り当てられた特殊性を受け入れることの危険性を唱えたり、短期的には役にたたないように見えたとしても、普遍性の概念を問い直し、知を再編成することは重要なのだと主張したりすることも、できるでしょう。そして実際、クィア・スタディーズは今までもそれをしてきましたし、これからもそれを続けるでしょう。
けれども、正直に認めなくてはならないのは、そのどちら側からの批判も、少なくともある一定の程度においては、外れているわけではない、という事です。ユニヴァーサリティーとローカリティー/パティキュラリティー、アカデミアと〈現場〉、クィア・スタディーズはそのいずれかをとる事ができませんが、残念な事に、とりわけクィア・スタディーズが扱う事象に関して、この両者はしばしば仲良く両立してはくれません。ですから、クィア・スタディーズはその間で引きさかれ、どちらにおいてもどこか足りず、もしくは過剰で、どこかずれているのです。あるいは、先ほどの表現を再び使うなら、クィア・スタディーズは、どこかうさんくさく、いかがわしいのです。しかしまた、どこかうさんくさくいかがわしくなければ、どうして〈クィア〉の名を冠していることが出来るでしょう。
いずれにせよ、私が、大学という制度においてクィア・スタディーズが支援を受けにくくなる理由であり、しかしクィア・スタディーズにとっては非常に重要な要素だと申し上げた、これが二番目の点になります。クィア・スタディーズは、常に非正統的な学問にならざるを得ない、ということです。
この非正統性は、アカデミアと〈現場〉の境界線でのみ生じるわけではありません。そもそも、人文科学の枠内に限っても、クィア・スタディーズはきわめてうさんくさく、きわめて非正統的なやり方で、先行する思考の蓄積を引き継いできました。ここで、またもやウルフの言葉に耳を傾けたいと思います。十九世紀前半の女性作家の境遇に思いを巡らせつつ、ウルフはこう述べます――「彼女たちには背後に何の伝統もなかった、否、あっても、殆ど助けにならないほど歴史の浅い不完全な伝統しかなかった」。そしてそのような伝統の欠如の中で、「何かが裂け、何かが引っ掻かれ」たような、文章も物語の進行も壊れたような小説を綴る一人の女性作家が、ついにそれまでの小説では描かれ得なかった場面――女性同士の情愛に満ちた親交の場面――を描き出すのに成功する過程を、描写してみせるのです。
不完全な伝統。クィア・スタディーズの背後にあったのも、まさにそれでした。どの一つの思考伝統もクィア・スタディーズが手放そうとしない特殊性を語るには十分ではなく、従って、手に入るもの全てをかきあつめ、本来の流れを壊して継ぎ合わせなくてはならなかったのです。あるいは、セジュウィックが見事に明らかにしたように、性愛や親密性の規範がそれ自体矛盾に満ちているために、それを考察しようとすれば、相矛盾するいくつもの思考を盗み出し、それらを不当にも接ぎ木してしまう必要があったのです。
ですから、クィア・スタディーズの論考は、しばしば、先行する思考を参照する際に、読み間違えている、それぞれの思考伝統や文脈を理解していない、と批判されます。そしてこの批判は時にまったく正当なものです。しかしまた、時には、読み間違えること、参照する思考をそのもともとの文脈ではなくクィア・スタディーズの文脈に暴力的にもすえ直してしまうことは、必要なことでもあったのです。ウルフの女性作家にとって、新しい場面を描くために、文章も物語の進行も壊してしまうことが必要だったように。
展望
私が今申し上げた二つの問題、つまり、普遍性の主張の批判と、非正統的な形での思考の接続とは、クィア・スタディーズに固有のものではない、という御指摘を受けるかもしれません。そして、その御指摘はまったくもって正しいのです。皮肉なことに、この二つの要素は、少なくとも人文科学という領域においては、研究と思考とを促進させるダイナミクスの一部であったはずですし、その意味においてはいわば普遍化されうるものではないかと思います。しかしもちろん、そう言うのと同時に大急ぎで、クィア・スタディーズ固有の問題意識やその成立の歴史へのある種の忠実さ、つまり普遍化されえないことがらに対するある種の固着の必要性を、強調しておく必要はあるのですが。
ただ、まさしく、このような普遍化への指向と特殊性への固着を臆面もなく共存させるその身振りにおいて、アカデミアとその外にある事になっている〈現場〉との間で引きさかれているそのうさんくささにおいて、その結果としての非正統的な盗み出しと接ぎ木の作業の露骨さにおいて、クィア・スタディーズは、少なくとも日本の大学における人文科学が、直面はしていても必ずしも直視しているとは限らない、この緊張に満ちたダイナミクスに、もっとも自覚的に向き合っている領域の一つだと言えましょう。
そしてその意味では、現在、クィア・スタディーズがその世界的な潮流として、普遍性の批判と非正統性とに彩られたもう一つの人文科学の学問領域であるポストコロニアル・スタディーズに急速に接近しているのは、当然の結果でもあります。言うまでもなく、日本のクィア・スタディーズは、日本の他の多くの学問領域と同様、ポストコロニアルな――あるいはその用語が不正確であるならば、それに加えて、西洋化と近代化が重ね合わせされてきたところに生じる――非正統性の問題を、抱え込んでいます。けれども、日本における最初期のクィア・スタディーズが――それは英米においてとそれほど変わらない時期にはじまったのですが――早くからそのことに自覚的であったにもかかわらず、過去10年ほど、この国でのクィア・スタディーズの中心がその問題に明確に取り組んできたとは言いがたいのも、事実です。私たちは、少しずつ慣れ親しみ始めてしまった形での引きさかれや、うんさんくささや、盗み出しではない、別の非正統性、別の居心地の悪さ、別の接ぎ木の仕方を、探し始めなくてはならないだろうと思います。結局のところ、慣れ親しんでしまったうさんくささのどこに、クィアなものがあるというのでしょう。
けれども、だからといって、私が最初に申し上げた点、すなわち、制度的な問題点を、放置しておくわけにはいきません。もちろん、ずっと申し上げてきたように、クィア・スタディーズの直面する制度的な問題点の幾つかは、クィア・スタディーズを特徴づける性質と深くかかわっているのであり、従って、私たちは、制度的な制約に苦情を言いつつ、いざクィア・スタディーズがすっぽりと制度に落ち着きそうになれば身をよじって逃げ出すという、厚顔無恥なふるまいを続けなくてはなりません。しかし、それは、制度的な問題点の全てを放置することが望ましいということではないのです。最後にもう一度だけウルフに立ち戻ることを許していただけるのなら、ウルフは、想像の中にしか存在しないシェイクスピアの妹が現実に生まれてくる未来を想像して、演説の原稿を締めくくっています。けれども、この未来の女性詩人は、ただ黙って待っていても生まれては来ないのです。ウルフの結びの言葉を、またしても盗み出して、私も終わることにいたします。
私たちがそうした準備を、そうした努力をすることなくして、彼女が再び生まれてきた時には、詩を書いて生きていくことができる世の中にしようと決意することなくして、彼女が立ち現れることは期待できません。それは、不可能なことでしょうから。だが、私たちが彼女のために努力すれば、彼女は現れるでしょうし、かつ、たとえ貧しく無名であろうと、そのように努力することは、やり甲斐のあることだ、と私は主張したいのです。