バトラーについて、いちおうメモ

何だかこう異様な書きにくさがただようのですが、いちおうバトラー来日おめ!ということで、ジュディス・バトラー講演会「感想」メモを残しておきます。年初めに縁起がいいし<なぜ。あくまで「感想」です。ええ、逃げをうってます。一度聞いただけできちんと理解できてる気が全くしないし、理解しそびれていたり聞き逃していたり白昼夢にひたっていたり寝ていたりしていた箇所が多々ある可能性が否定できないので、講演会レポートなんて大それた試みは、ムリ。とてもムリ。今後は「理論やってます」という自己申告はやめるべきだと自分で強く感じます。でも、成城トラカレさんid:june_tさんのこちらのブックマークを拝見する限りでは、1000人集まった割には「レポート」あげていらっしゃるツワモノは少なくとも今のところあまりいらっしゃらないようで、やっぱりね〜そうよね〜*1。しかも録音禁止なので、お家にかえってカミサマのお声でも再生しつつ幸せに眠りにおちよう(寝入りはすごくよさそう。でも夢見は悪そう)などという試みも、あらかじめ排除されているわけだし<バトラー用語。
実はわたくし、あちらこちらの皆様の御好意で、土曜日の講演@お茶大に加えて、メインは学生相手(という名目)のインフォーマルなセミナー2つに潜入するおゆるしを戴きました。というわけで、計三度にわたってバトラー浴をして、彼女がどの話をいつしていたのかそもそも少し曖昧になってしまって、講演レポートはそういう意味からもちょっと難しい。という言い訳はありでしょうか。
とにかく、そういうわけで、わたくしにとって興味のあったところ(=理解できたところ)だけについて、「感想メモ」。

講演会@お茶大

お茶大での講演会では、日本でのはじめての講演ということもあってか、「バトラーの基本」をおさらいする形で、「安定した境界線を持つ自律した主体が存在し、その内部と外部とは峻別可能である」という前提を繰り返し批判するものだった。ただし、導入部分で用いた具体例は、インターセックス・ムーブメントの話、そしてGIDの病理化に伴う諸問題の話、同性婚の話などで、基本的には04年のUndoing Genderからそのまま持ってきていたし、これは他のセミナーでも共通していたことだけれども、主体あるいは「人間」が、その存在の根幹において、他者に、とりわけ他者の「承認*2」に依存しているという点に明らかに強調点が移ってきているというところにも、ここ数年の彼女の著作の傾向がはっきりと現れていたと思う。
彼女はそこから、クロス・ジェンダー・アイデンティフィケーションを例にとって、自己を名づける行為(self-naming)は他者に対しての承認を求める呼びかけを不可避的に伴っており、その意味においてトランスジェンダーとはいまだ名づけられても存在してもいない、つまりいまだ空想的なものであるような新しい関係性を他者に誘いかけるものとして考えることができる、と話を展開していく。
わたくしにそこそこ理解できたのはここまでなのだけれど、おそらくこの後がキモだったので、激しく間違えている可能性を覚悟の上で、いちおう続きを。正確なところに関して、どなたかの御指摘・御教授がいただけるととても嬉しいです。まあ、いずれお茶大のジャーナルで講演収録するらしいので、それを待ってじっくり読み直せば良いといえばそれまでですけれども。
さて。上述したような、いまだ存在しない関係性と存在へと他者を誘いかけるトランスジェンダーの自己命名(自己定義と言っても良いのかもしれないけれど)において、いまだ存在していない「わたし」の生存可能性は、必ず他者に依存している。勿論この他者というのは、トランスフォビックな規範を持つ社会でもあるし(その場合、「わたし」の生存可能性は直接的・暴力的に脅かされることになる)、そのような「わたし」を承認するコミュニティである場合もある(逆に言うとそのようなコミュニティの存在こそが「わたし」の存在を可能にしている)。重要なのは、社会がトランスフォビックな暴力を振るう場合は言うまでもないとして、たとえそうではない場合でも、いまだ存在していない「わたし」との関係性への誘いかけが他者に承認されない限り「わたし」は生存できないという点である。バトラーはここでフロイトの「喪とメランコリー」を参照しつつ、見失われた愛の(あるいは関係性の、といってもいいのかもしれない)対象としての他者に対するアグレッション*3が「わたし」それ自身(の内部へと転化された喪失)に対する攻撃性へ、つまり「わたし」の破壊へと形を変えていく作用を紹介し、「わたし」に誘いかけられた他者は*4、その誘いかけに応じない場合に、「わたし」自身による「わたし」のメランコリックな破壊を引き起こすという形で*5「わたし」の生存可能性への暴力を振るっているのではないか、と、問いかける。
最後の部分、繰り返しますけど、自信ないです。そこでフロイト必用かな〜と思わなくもないし。人間存在が他者の承認を必用とするという点から出発してフロイト使わずに同じことが言えるような気がするので、もっと何か全然別のことを言っていた可能性が、かなり高いです。
個人的には「他者の承認に依存する生存可能性」というのはわたくしの従来の関心分野にどんぴしゃで重なるので、そこのあたりは非常に刺激的だった。まあ、逆に言えば、わたくしの従来の関心がそこにあるから、バトラーが何を話してもそこしか記憶に残らん!ということもあるかもしれないけれど。ただ、バトラー自身が今回どこかで、ジェンダーをめぐる自分の視点が、アクティブなもの*6から、ある意味よりパッシブな側面*7に移行しているという話をしていたので、そこがポイントの一つであるのは確か。だと思う<すでに不安。で、わたくしがここにこうやって書くと、日本語としてやたらと分かりにくい上に論旨も飛んでしまうし、しかも退屈なのだけれども、バトラーがそういう話をしている、あるいは書いているときというのは、甘っちょろい言い方になるけれども何か特別な生命がそこに吹き込まれているようで*8、パッシブな側面とか「わたし」の被傷性とか他者の承認への存在の根幹における依存とかという話をしていても、なぜか「いまだ存在しない関係性」に向けて飛翔!みたいな、異様にアクティブな気分になってしまう。少なくともわたくしは。けれども冷静に考えれば、やっぱりというか従来どおりというか、そのような傷つきやすい存在が抹消されてしまう危険に直面している個々の「わたし」がどのようにして「いまだ存在していない関係性」や「いまだ名づけられていないわたし」へ向けて他者への誘いかけを広げることができるのか(あるいはそもそもいかにしてそのような想像が可能なのか)、という点に関しては、バトラーは当然のことながら単一の安易な解答を与えてくれているわけでは、ない。そこは自分で考えてね、ということになるわけで、「質問の人」バトラーらしく、質問を山ほど残し、答えはあまり残さずに、帰っていったのねと思ったり。
あとはまあ、バトラー一人にすべてを期待してはいけないとつい最近しかられたばかりではあるのだけれど、やはりインターセックストランスセクシュアルの問題は、非常に誠実に話をしているにもかかわらず、というよりもむしろおそらく誠実に話そうとしているからこそ、やはりLGおよびトランスジェンダーの話とくらべた場合に、少し濃度が薄いような気がする。血肉になっていないと言ったら、これまた比喩として問題かもしれないけれども。導入でインターセックストランスセクシュアルのポリティクスに言及しつつも、他者への承認のよびかけをめぐる後半の話はやはりトランスジェンダーが念頭におかれていたように思うし。それが悪いというわけでは勿論ないけれど、Undoing Genderを読んだときもそこが少し気になっていたので、ちょっと興味深かった。

質疑応答その他

上での「承認に基づく存在可能性の問題」というのは、言葉を変えればintelligibility*9の問題でもある。つまり、initelligibleなものの領域というのは、わたくしたちにとってのリアリティの領域、あるいは「存在」の領域であって、その境界線の「外部」に存在するものは、正統に合法的には「存在」していない。この話は本当に多様な局面において展開できることだけれど、バトラーは今回はとりわけ「戦争の表象」の話、とりわけ、どのような(あるいは誰の)死や苦しみが認識可能なように示され、どのような死や苦しみが(明白な検閲を通じて、あるいはいわゆる「自主規制」に近い力によって)極力知らされないようになっているのか、それによってどのような「リアリティ」がつくられ、どのような存在が「死」や「苦しみ」の正統な主体としての、あるいはその「死」や「苦しみ」を悲しまれるべき正統な対象としての、要するに、本来「生存する」権利をもったものとしての存在」を奪われているのか、という話を、繰り返し語っていた。その切り口そのものは決して目が覚めるほどに斬新というものではないし、バトラー自身もそれは十分に分かっていることだろうけれど、だからこそ、それにもかかわらず必ず繰り返しその例に戻っていくことが、わたくしには非常に印象的だった。*10
それに関係して、バトラーは今回、「批評critique」について「自らの存在を可能にしている基盤をリスクにさらす行為である」と語っていて(その意味でも、上で述べたようなトランスジェンダーによる、いまだ存在しない「わたし」との関係性への誘いかけというのは、それ自体が一つのクリティークでありうる、ということになる)、それは、たとえばバトラー自身も何度か引用している、スピヴァクによる脱構築の定義とまさに重なっているものなのだけれども、あらためて、そういう意味でのクリティークをわたくしがちびっとでも実践しているだろうかと考えると、非常に非常に非常に心もとない。わたくしはどうしても(自分の生活でも批評なり研究なりを実践する上でも、って、その二つはあまり切り離せるもんじゃありませんけれど)、「生き延びること」に重点を置きすぎる嫌いがあって、リスクを過剰に避けているかもしれないと、反省。存在にかかわるリスクって、わたくしの全生活を見渡しても、Pの滞在権くらいのものだわ*11
同時に、今述べたことを裏切るようではあるけれども、バトラーが「生き延びること」の重要性を明確に強調していたのは、これは彼女の最近の変化だと思うのだけれども、少し嬉しい。お茶大講演もそうだったけれども、それ以外の場でも、たとえばマゾキスティックな自己破壊衝動の批判的可能性というものを承認しつつ、自己破壊につながらない(「サバイバル」を可能にする)攻撃あるいは批判というのがいかに可能なのか、という問いを提示してみせたりしていて、そこはむしろわたくしにとっては新鮮だった。わたくし、たとえばベルサーニとかが少し苦手で*12、主体がそれ自身を破壊する形で実践するクリティークというのは、ロマンチックに、しかも安易に評価される危険性が高く、その危険に対しての警戒を怠ってはいけないのではないかと思っている。バトラーのAntigone's Claimはもしかしてそちらの方向に行きかねないのではないかと、それが少し気になっていたのだけれども、Undoing Genderにしても今回の来日講演およびセミナーにしても、むしろバトラーはそれとはべつの可能性へと進んでいるようで、それは素直に、なんていうのか、嬉しい。
同じくわたくしが好きだったのは、バトラーの本が難しすぎてエリート主義に陥っているのではないか、彼女の著作を理解できない女性たちのことはどうするのか、というような質問に対する彼女の答え。簡単に言ってしまうと、ある種のクリティークはある程度の難しさを避けることができないが、それでもそのようなクリティークには一定の意味がある。そもそも、誰もが一読して抵抗なく受け入れられることというのはすでに誰もが知っていること、現状そのものであり、わたくしたちの理解可能性の領域の境界線を押し広げようとすれば、その作業がある程度困難になることは避けられない、というもの。単純に、そうだよなあ、と。たとえばわたくしの文章が下手であるとか、特定の思想家の特定の訳者による日本語訳がただただ読みにくいとか、バトラー自身の文が実際結構悪文だとか*13、そういうこととは全く違うレベルで、彼女の行ってきた類の批評というのは「簡単」にはなり得ないものだし、なる必用もないと、わたくしは思う。そして、そのような批評は、世界中のジェンダーセクシュアリティとかかわりのあるあらゆる問題を解決するわけでは勿論ないけれども、それでも、わたくしたちが自分と、他者と、世界と関係をむすぶやり方を模索していく上で、非常に重要な一つの役割を果たしているのだと思っている。
逆にどうかな〜と思ったこと。お茶大の講演会の質疑応答で「バイセクシュアルをどう思いますか」と聞かれて、バトラーは「バイセクシュアルというのは非常に重要なコンセプトだと思う」と前置きした上で、「バイセクシュアルというのは、優柔不断というのでも、混乱しているというのでもないことを理解しなくてはならない」と答えた。そこまでは良いのだけれども、それに続いて、「バイセクシュアルというのはカテゴリーの困難さを指し示す存在であり、固定したカテゴリーとしてではなく、複雑な歴史をもったナラティブとして、より良く理解されるものだ。たとえば、最初に女性と付き合い、その後男性と性的関係を持ち、その後女性のパートナーがいて、けれども男性についてファンタジーを持つ、という具合に。」と話した。わたくしとしては、激しく、それってどうなのよ!という感じ。今まで一人の女性とも(男性とも)付き合ったり性的な関係を持ったりしていなくてもヘテロセクシュアルだと自認したりゲイやレズビアンだと自認したりする人がいるように、ナラティブが複雑でなくても、あるいは女性から男性へと揺れ動かなくても、バイセクシュアルであると自認する人はいくらでもいるだろう。バイセクシュアルがとりわけカテゴリーの困難さを指し示すとしたら、その「複雑な歴史性」のゆえはなく、「性的指向」がおもに性器、時にジェンダーによる性的対象選択に基づいたカテゴリー区分を前提としており、バイセクシュアルは必ずしもそのような区分法に従わないずに対象を選択するからだと言うべきだろう。もちろん、ヘテロだろうが、レズビアンだろうがゲイだろうがバイセクシュアルだろうが、歴史を持たない固定したカテゴリーとして性的アイデンティティを考えることには欠陥があり、その意味ではバトラーの言ったことは間違えているわけではない。実際に、後からバトラーは、「あれはバイセクシュアルだけではなくて、レズビアンにもヘテロセクシュアルにもあてはまる話だ」と説明していたし。けれども、あの文脈でああいう言い方をした場合には、それは「あらゆるセクシュアリティに当てはまる話」ではなくて「バイセクシュアルにとりわけあてはまる話」と聞こえる可能性がとても高いし、さらに悪いことに「私はバイセクシュアルとはこのようなものだと理解している」ととられる可能性もとても高い。というか、質問が「バイセクシュアルについてどう思いますか」でそういう答えをしたら、そうとるのが普通じゃないかしら、バトラーさま。べつに彼女にバイセクシュアルの擁護者になってくれというわけではないけれども、「とても重要だ」とかって言っておいて中途半端な答えをされてしまうと、微妙だわぁ。
微妙で終わってしまうのも何なので、もう一つ、印象深かったこと。他のブログでどなたかが書いていらしたと思うのだけれど、バトラーの著作についての質問で、質問者(学生さんだったのだけれど)の読みがバトラーの意図とは違っていた、ということがあった。その時、彼女は「その理解は私の意図したものではない」と明確に言った上で、「しかしそれは非常に興味深い読みであると思う」と、とても楽しそうにその「解釈」を承認したのだった。誤解は訂正するけれど、誤読は奨励するのねぇ、彼女の著作そのものだわぁ、とちょっとどきどきいたしました。
全体に、べつに講演やセミナーに行かなくても、本読めば書いてあったような、という内容ではありました。でも、バトラーでジェンダー論とかクィア理論とかやってきたわたくしと同世代やそれ以下の世代の人間にとっては特にそうでしょうけれど、「なまバトラーだわ!」というのはやはりそれだけで嬉しいものだったりしますし、講演やスピーチ、質問に対する答えの細かいあちらこちらに、場合によってはもしかするとバトラー本人が意識していない形で、インスピレーションを受けたりもします。まあ、根っこの根っこには、「あのバトラーと同じ部屋にいたのね!同じ空気を吸っていたのね!」的な、15年ほども昔のストーンローゼズ来日公演なんかの時とあんまり(全然)変わらない、ただのミーハーな興奮が大きく存在していたりもするのですが*14

*1:追加:そう思っていたら、成城トランスカレッジ!さんのこちらで、とても丁寧なレポがあがっていました。感服です

*2:と訳すのだろうか、recognitionという単語なのだけれど

*3:攻撃性って訳していいのだろうか

*4:それは「わたし」の「外部」に存在すると一般的には考えられる

*5:つまり「わたし」の内部からの攻撃という形で

*6:performing/subverting/doingなど

*7:ジェンダーがいかに刻印impresssされるのか、わたしたちがいかに従属していて傷つきやすいか、など

*8:この比喩とかってデリディアンでもあるバトラー的には駄目かも。っていうかわたくしただの馬鹿ファンかも

*9:この訳語って、理解可能性でしたっけ?認識可能性?調べるのを面倒がっているわけですが

*10:さて、現在の日本で「検閲」と言えば「ジェンダー」なわけですが(違うかしら)、「ジェンダー」という用語を排除することで、どのようなリアリティがつくられようとしているのだろうか。「ジェンダーのない」リアリティがつくられようとしているわけではなさそうだけれど。

*11:いや、それはそれで個人的にはとても深刻ですけれども、パートナーがたまたま病気でワーキングビザの確保が危ういっていうだけをもってクリティークの実践とは、いくらなんでも言えませんわよ

*12:ただの誤読に基づいている可能性もかなりありますが

*13:わたくしはそれにもかかわらず彼女の文のリズムそのものがとても好きだけれども、悪文かどうかといわれたら、やはり往々にして悪文であろうなとは思う。ただ、それはエリート主義によるものではなく、ただ単にあれ以上上手には書けないのだろうとも、思う

*14:歳がわかりますわね