「今は、こうです」

昨日のエントリにTBしてくださったconjuntoさんのこちらのエントリーを拝読していて、セクシュアル・アイデンティティを「今は、こうです」と考える、という言葉に、深く納得。
勿論、セクシュアル・アイデンティティにしろ、それ以外のアイデンティティにしろ、「常に/生まれたときから/モノゴコロついたときから」「こう」だった、と考える人もいるだろうし、それはそれで一向に構わない。けれども、「今は、こうです」というアイデンティティのとらえ方は、少なくともわたくしの実感には、とてもしっくり来る。
それは必ずしもアイデンティティをくるくると好きに取り替えるということではなくて(そうできるしそうしたいという人はそれでいいけれども、それほど簡単に思うとおりに切り替えが効かないのが「同一化identification」というものではないかとも思う)、むしろ、「アイデンティティ」というのは絶対に自分の好きにならない、あるいはぴったり自分にあうようなものにはならない、ということに、関係している。
アイデンティフィケーションというのは、自分が自分でない何者かに「同一化」するということだ。そこにはそもそもの最初から、「自分」と「自分でないもの」との葛藤なり交渉なりが、潜んでいる。それにもかかわらず、その「自分でないもの」を「自分として」引き受け、それが「自分」になっていく、その過程がアイデンティフィケーションだとわたくしは理解している。ものすごく単純化して言ってしまえば、「自分」と、たとえば「バイセクシュアル」(レズビアンでもヘテロでもゲイでも女性でも男性でも日本人でも何でもいいんだけれど)というカテゴリーとは、当たり前だけれども、違うものだ。「自分」のすべてが「バイセクシュアル」というカテゴリーに収斂できるわけでもないし、「バイセクシュアル」というカテゴリーに当てはまるすべての要素を「自分」があらかじめ備えているわけでもない。従って、「自分はバイセクシュアルだ」というとき、わたくしは、「自分」という個体と「バイセクシュアル」というカテゴリーとの間のそのような齟齬を併せ呑む形で、「自分」と「バイセクシュアル」とを同一化し、「バイセクシュアル」というアイデンティティを引き受けることになる。
従って、自分のアイデンティティは、同時に、決して「自分の」ものではない。
さらに悪いことに、「自分のものではない」このアイデンティティは、自分の意図であっさり捨て去れるものではないことも多い。
アイデンティティ」とは、自分が何らかの外部のカテゴリーへの同一化の結果自分の一部として引き受けるものであると同時に、他人から「あなたはこういうカテゴリーにあてはまる人間ですよ(女性ですよとか、日本人ですよとか、アジア人ですよとか)」という風に決められるものでもある。ここでのアイデンティティは、上で述べたのよりさらに露骨なレベルで、自分のものではない。この場合、明らかに自分では引き受けたくないものを、引き受けろ引き受けろと押し付けられたり当然引き受けているものとして扱われたりすることも、多々ある。そして、自分の意図と関係なく押し付けられた、自分のものではないこの「アイデンティティ」は、自分の意図であっさり捨て去れるものではないし、「これは嫌だからあれにするね」と言っても通用しないことも多い。
つまり、アイデンティティというのは、少なくとも二重の意味で自分のものではなく、しかしそれにもかかわらず、自分のものであるとされ、あるいは自分のものとして引き受けざるをえないものであって、従って本来とても不自由でとてもややこしく、とても居心地の悪いものだ。だからこそわたくしたちは、「自分」と「自分の引き受けたアイデンティティ」との間のおさまりの悪さをどうにかしようと四苦八苦し、「納得がいかないままに押し付けられているアイデンティティ」があればそれもどうにか少しでも納得いく形におさめようと努力するのだ。
その努力が最終的に完全な成功をおさめることは、「同一化」という作用の構造上、あり得ない。つまり、少なくとも第一のレベルでの居心地の悪さは、「自分はバイセクシュアルで、でもオトコでもオンナでもいいというわけではなく、そもそも性行為が重要だというわけでもなく、あ、とはいっても性欲を感じないというわけでもなく、云々」と永遠に語り続けたところで、完全に解消されることはない。それでも、その居心地の悪さが少しでもなくなるようにわたくしたちは苦労するわけだし、同時に、その苦労や努力が少しでも報われるような状況をつくりだそうともする。
そういう努力は大きいレベルではたとえばトランスセクシュアルをめぐる法制度の改正という方向にあらわれたりするけれど、たとえば「アイデンティティは最終的には自己申告だよ」というのも、本人が「これ」と提示するものがあるのだったら、その本人にとって相変わらず多少の居心地の悪さは残っていたとしても、最低限周囲は本人の自己申告を尊重していこうよ、ということだと、わたくしは思っている。アイデンティティというものを巡るさまざまなレベルでの居心地の悪さをどうにかしようという試みは、法制度の改正から個人レベルでのちょっとした操作にいたるまで、他にも星の数ほどあるだろう。
自分と「自分のアイデンティティ」との間に傍から分かるような明確な距離を作り出し、特定のカテゴリーへの不本意な「同一化」を強いられることを防ごうとする、個人的あるいは文化的な身振りは、広い意味でそのような試みの一つとして考えることができる。「自分」と「自分のアイデンティティ」とをぴったりとすりあわせることでその間にあるおさまりの悪さを解消しようとする試みではなく、そのおさまりの悪さを解消せず、「ここにおさまりの悪さがありますよ。わたくしは<これ>では必ずしもないのですよ」とばかりに「自分」を「アイデンティティ」から引き離して見せることで、不本意なままに「アイデンティティ」に縛り付けられてしまうことを防ごうとする試みといえばよいだろうか。
それはとりわけパラドクスや増殖という形で戦略的に行われることが多いけれども*1、そうでなくても、たとえばid:maki-ryuさんのブログ・タイトル「あたしはレズビアンだと思われてもいいのよ」というのも、「あたし」は「レズビアンである」ようにも読めるけれども同時に「そう思われても良い」だけで「そうでもないかもしれない」可能性をも示唆していて、いずれにしても、「レズビアン」を忌諱する身振りに陥ることなく、しかも「レズビアン」というアイデンティティと「あたし」という個人との間に必然的に存在しているはずの距離を可視化してみせている点で、秀逸だと思う*2
そして、「今は、こうです」というアイデンティティの申告の仕方、あるいは捉え方というのも、「今は」という一言によって「アイデンティティ」に時間軸を導入することで、「自分」と「自分のアイデンティティ」との間の消し去れない「ずれ」に対処するものだと、わたくしは思う。「今は、こうです」という表現は不可避的に「将来は、こうかもしれないし、こうでないかもしれない。昔は、こうだったかもしれないし、こうでなかったかもしれない」という含みを持つ。その含みによって、わたくしたちは「ずれ」を「ずれ」としてとどめておくことができるし、おさまりの悪いまま「自分」を取り込んでしまいかねない「アイデンティティ」からのある種の自由を、そこに確保しようとすることができるのかもしれない。
こういう形でのアイデンティティへの時間軸の導入は、やなぎみわの最近の作品にも見て取れるものかもしれない。澤田知子の作品における自己イメージの増殖と、やなぎみわの作品に見られる増殖する女性イメージとは、全く異なるものでありつつどこかでつながっているような気がずっとしていたのだけれど、アイデンティティと時間軸というものを考えることで、そのつながりが見えるかもしれないと思う。実は先日、原美術館でのやなぎみわ展に出かけてきて、これはそれ以来ずっと考えていたことでもあったりするのだけれど、それについてはまた今度エントリをあらためて書きます。っていうか、もし書けたら書きます。

*1:たとえばDel LaGrace Volcano と Indra Windhとのパフォーマンスにわたくしはそういう可能性を見るし、澤田知子の作品にもそれを感じる

*2:御本人の意図はそうではないかもしれないので、失礼にあたったらお許しください。でも最初にmaki-ryuさんのブログを読み始めたのは、そのタイトルの絶妙さに心底びっくりしたからだったりします