だって助けてほしいんですもの。

大分時間が戻ってしまうのだけれど、PA/Fでのプレ・イベント後、「フツーに生きてるGAYの日常」のakaboshiさんのところでの御批判を受けたid:Yu-uさんのところでの考察を拝読して考えることがあったので、それについて。きちんと正確に考えをまとめてから書くというのがおそらく大人な対応なのだろうけれども、ちっともまとまらないので、敢えて今の時点で、整理のつかないことや違和感や疲労感や緊張感やそういうもろもろを含み込んだままで、反応。というより、Yu-uさんには直接お話したことでもあるので、ただのメモというべきかもしれないですけれど。

ここでの「閉鎖性」とは、”生活”につながっていないのではないか、ということなのではないか。

このくだりでYu-uさんは、学会が「特殊な職場内の互助組合」にすぎない閉鎖性を持っているのではないかというakaboshiさんの御批判を受け、そのような互助組合の「閉鎖性」が「生活」からの乖離に起因するのではないかと述べていらっしゃるのだが、このロジックには幾つか問題がある、あるいは少なくとも、「何が」「誰の”生活”と」つながっていないのか、それと「閉鎖性」がどう関係あるのか、それをもう少し明らかにする必要があると、わたくしは思う。
わたくしは、「学会」が一つの「特殊な職場内の互助組合」の側面を持つことそれ自体は、必要でもあり不可避でもあると考える。もちろん、「職場」をどれだけ広くとるのかについての議論は常にあるべきだし、そのような性質はあくまでも学会の一つの側面であって、それ「だけ」に終わるようではそもそも「研究/教育業界の互助組合」としての機能すら十分に果たせないだろうとも思うけれども、それは学会にそのような側面があることを否定するものではない。
固定的な権益維持や収奪の制度としてではなく、必要な知やサポートを提供しあい、批判と見解とを交換できる「互助組合」としての「学会」は、広い意味での研究/教育にかかわる人々の「生活」にとって必要なものだとわたくしは思っているし、へたれ机上系のアカデミアとしてそのくらいは自分でどうにかするべきだろうと考えたのが、学会立ち上げに関わった大きな理由でもあった。
しかし、学会が互助組合の側面を持つこと、学会が閉鎖的であること、そして学会が「生活」につながっていないこと、その三つがゆるく併置されることを通じて、「(アカデミアという「特殊な」職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とが間接的ではあれ接続されてしまったとすれば、それは、「生活」につながる「互助組合」としての責任を、安易に学会から免除してしまうことにつながらないだろうか*1。「互助組合」としての側面を持つべき「学会」が、会員の「生活」から乖離し、知的/精神的/制度的サポートを一切提供しなくなったとすれば、それこそが当然批判されなくてはならないことであろう。逆に「互助組合である」側面自体を否定してしまったら、あるいは「(特殊な職場の)互助組合であること」と「生活につながっていないこと」とを漠然と接続してしまったら、「学会が互助組合として適切に機能していないこと」を批判する回路は閉ざされてしまうのではないのか。
「アカデミックな互助組合としての学会」と「生活との乖離」との接続はまた、「生活」を構成するさまざまの制度と「学会」活動とを互いに無関係なものとみなそうとするロジック、「アカデミック」な活動の純粋性(それを肯定的にとらえるにせよ否定的にとらえるにせよ)の幻想を前提とし同時に維持しようとするロジックに、加担しかねない。そして、それこそがアカデミアが「閉ざされたもの」でありうるかのうような幻想を生み出し、それがそもそも閉ざされて完結したものとしては存在していない(存在しえない)という当然の事実を見えにくくしてきたロジックではなかったのだろうか。
その意味では、学会あるいは「アカデミア」が「閉ざされているのか」「開かれているのか」というのは、選択可能な二つのあり方ではないと言っても良いと、わたくしは思う。その上で、その既に開かれているものを、あたかも閉ざされたものでありうるかのように扱うのか、それとも開かれているという事実に向き合うのか、どのようにして向き合うのか、それは学会員の、あるいはアカデミックの、責任を伴う選択であろうけれども。つまり、「閉鎖性」はアカデミアという空間が生活と乖離しているが故に生まれるのではなく、アカデミアという空間を生活と乖離したものとして理解するところに生まれるのではないのか*2
言うまでもないことだけれど、これは、「学会」あるいは「アカデミア」が生活から乖離しているという批判、あるいは閉鎖的であるという批判が、すべて間違えているということではない。さらに言えば、Yu-uさんご自身が「閉鎖的」で「”生活”につながっていない」と仰っているのは、直接的には制度としての学会やアカデミアにかかわる事ではなく(当初はそこから始まった考察であるように見えるし、結局そこに繋がっていくものではあるかもしれないけれども)、「書く」という行為、あるいは概念化するという行為にかかわる点であるので、わたくしがここで書いたことはその意味ではYu-uさんへの反論や異議申し立てということよりは、それに刺激されて考えたこと、という方が正しい*3。わたくし自身が「学会活動」なるものをこれまで殆どしてきていないので(年次大会に出かけて懇親会に顔を出して知ってる人がいないので寂しくなって落ち込んで帰る、くらいが最大の学会活動でございます)、今後「学会」にかかわる中で見解は変わるかもしれないし、そもそもこんな重箱の隅的な言葉遣いの問題なんてどうでも良くてもっと重要な問題がたくさんあるのかもしれないのだけれども、まあ、重箱の隅の言葉遣いの問題が「どうでも良くないのよ!」というのが机上系の机上系なゆえんでもあるわけで、とりあえず今の時点で、わたくしとしては「学会」を語る時にはこういうことを意識しておきたいなあ、と。相変わらず尻切れとんぼですけれど。

*1: もちろんどのような「学会」であれ、「学会」が個々の学会員の「生活」に対して実際に出来ることは限られているだろうし、その限られた事柄すら十分に実行できる資源がないことも多いだろう。ただ、それは学会にはそのような責任がない、ということとは違う

*2:より小さいことになるけれども、「互助組合であるという側面」を「閉鎖性」の理由とするロジックもまた同じ意味で問題だとわたくしは思っている。互助組合であることは閉鎖的であることと同じではない(あるいは少なくとも同じであるべきではない)。むしろ、互助組合が閉鎖的である、つまりあらかじめ決まった構成員/あらかじめ決まった思考以外に対して閉ざされているとすれば、互助組合としての機能がそれで十分に果たせているのか、検討してみる必要があるだろう

*3:っていうかですね、「書くということ」についてはそれはそれで言いたいことがあるのですが、またそれは別の話になってしまって、完全に収拾がつかなくなりそうなので。しかも多分ディシプリンの違いもあってこの点では正面衝突かもですー>Yu-uさん