シングルとか。モテることとか。

id:discourさんのところの『続・はじめて学ぶ ジェンダー論』についての感想へトラバ。
この本、「はじめて学ぶ」わけじゃないからいいや〜と思って読んでいないのだけれども(っていうか、「自分が怠惰である」+「無意味な仕事がたくさんある」=「日々是自転車操業」って感じだから読む時間がない)、紹介されている箇所を見る限りではたしかに微妙。
でも、著者の立ち位置について本も読まずに「びみょ〜」とか言うのはもっと微妙なので、discourさんが引用なさっている箇所で常々わたくしが気になりがちな点とリンクするものについてだけ、メモ。

私の考える「豊かなジェンダー論(私のフェミ)」は、シングル単位論を基本としたものであり、その視点に立った社会システム全般の変革論、人間関係の変革論です。(discourさんのエントリより孫引き)

シングル単位論ってとても魅力的だとは思うのですね。で、確かに、カップル単位じゃなくて(伝統的フェミで言えば「オトコにあわせるんじゃなくて」とか「イエの一員としてではなくて」ということかしら)、個人個人を単位で考えましょうね、っていうのは、必要なことも多いし、「気持ちの持ちよう」を語るときにはまずそこからというのも、分からなくはない。特に、カップル間(あえて「異性間」に限定しませんけどね)に生じる、経済的、社会的あるいは精神的・感情的・知的な権力関係によって引きおこされる問題に対応するためには個人単位が基本ですよというのは原点だろうから、性教育関連ではそこを徹底しておきたいということであっても、それも分かる。
で、「気持ちの持ちよう」ではなくて社会システムを考える場合でも、「家族」保障ではなくて社会保障は個人単位にしましょうとか、それも分かる。その通りだとも思う。
ただ。例によって例の愚痴なのですけれど。伊田氏がこの点についてどうおっしゃっているのか確認はしていないのだけれども、一般論として「個人単位」を強調する議論って、どこまで真剣に「個人」を考えているのかしらと思うことが、時々、ある。
「家族」保障ではなくて「個人」保障という考え方でも、「個人」が国家の合法的な構成員である場合には、余り問題はないような気がする。課税システムとか社会保障制度とか連動して組みかえなくてはならないだろうけれども、最終的にはその方向に進んだ方が保障システムとしてはうまくいきそうな気がするし<あくまで「気がする」レベル。けれども、「個人」が[ ]
[ ]
個人保障して欲しいのですよ、わたくしとしては。
でも、そういう話をしてみて[ ]ちょっと気になる。「個人単位」でシステムを考えましょうという時にそこまで考えてくれているのかなあ、と。そういう問題を全然考えずに、「シングル単位」「個人単位」といわれても、微妙に「どうでもいいかも」と思っちゃうのですね<根本的態度として自分勝手すぎ。
あと、笑ったところ。

[女は]男に求められてこそ意味がある、モテない原因は、美人/スリムじゃないから、だから化粧やダイエットや服(ファッション)で魅力的になろう、という考え方があるようです。(同じく孫引き)

いや〜これって昔良く聞きましたけど、ほんとかなあ。そう思ってる人がいないってわけじゃないだろうから、そういう「考え方がある」ことそれ自体は間違いではないだろうけれども、メインはそれなのかなあ。確かに雑誌なんかを見ると「男性に好印象」とかを前面に打ち出しているものもあるし、そもそもファッション雑誌やテレビ番組そのものが「男性によってつくられてる」ものも多いから「女性は男性の視線を当然意識しているはず」という思い込みが散見されなくはないけれども、実際どうなのだろう。
それを言ったら、フェムなびあんやバイはどうなるのか、というベタな突っ込みじゃなくても、ですよ。なんていうのかなあ、こういう考え方から、化粧やダイエットやファッションに興味があるってことはオトコにもてたいんだろ!相手されたいんだろ!みたいな考え方までの距離って、かなり近いと思うのですが。でもって、そこから、そういうファッションしてるっていうことは(そういう化粧してるってことは、そういう身体してるってことは)オトコに相手して欲しいんだろ!誘ってるんだろ!というところまでも、余り遠くないと思うのですが。
いや、化粧やダイエットやファッションが完全な「自由選択」だというつもりは毛頭ないし、「とらわれ」は確実にあると思うし、そこにジェンダー規範は確実に作用しているのだけれども、その時の規範の作用の仕方というのは「オトコにもてたい」という意識とはちと違う場合も多いような気がする。
むしろ、当人にとっては、「アイデンティフィケーション」というか、過剰な同化の圧力の問題じゃないかな、と。他の女の子の中でどういう位置を占めるか、どう扱われるか、どう「溶け込める」か。あるいは、どうやって「ちゃんとした女性」になるか、みたいな(摂食障害の場合には、「どうやって<女性>にならないですむか」っていう場合もありますね)。
その時の「ちゃんとした女性」とか女の子の間で承認される「女の子性」とか言うものが、「女性は男性に求められてこそ意味がある」といったジェンダー規範と無関係ということでは、勿論、ない。けれども、当人の意識として「オトコにもてたい」とは思っていないとしたら、「オトコに持てたいとか思ってそういうことをやって囚われているのはどうなの」と言ってみても余り意味ないなあ、と思うのだ。
わたくし、結構摂食障害で苦しんだりしたけれども、オトコにもてたいとは思ったことはなかったし。だから「そんな食生活でそんな不健康そうな身体になって、オトコの子はそういうのは本当は好きじゃないのよ」とかって言われるたびに、あんた馬鹿じゃね〜のか、とか思っていたし。オトコの子なんてど〜でもいいんだよ!自分に許容できる範囲を超えてわたくしが醜く太っている、それだけが問題なのよ!とかって。気になるのはオトコの目よりオンナの目だということが分からないのかしらね、とかって。
いや、だから、それはそれで問題なのよ。で、そこにジェンダーは絡んでいるのよ。でもね、その時の「囚われ」というかオブセッションを、当人がもてるかもてないかというような直接的な「オトコとの関係」で理解しようとしても、そしてその当人の意識を具体的で直接的な「オトコとの関係」という軸で変えようとしても、単純すぎるのではないかと。
まあ、そういうことを、ピンヒールで大学に講義に行ったら敷石の間にヒールがはまって抜けなくなって汗だくになった経験があったり、赤いマニキュアがはげていたら朝食を抜いても塗りなおしたり、学会発表直前の一番大事な儀式が化粧直しだったりするわたくしが言っても、な〜んの説得力もないかもしれませんが。でも、それを「非エンパワメント(とても自分に自信がない状態)の上での、あせった行動」(同じく孫引き)といわれたら、余計なお世話ですわ!とは思うわね、やっぱり(っていうか何を焦っていると言うのかしら。まあ化粧とか洋服決めるのとか、時間がかかるので、結果として毎朝焦ってはいるけれども、そういうことじゃないわよね)。

追記

上を書いてから思ったのだけれど、わたくし要するに、自分が化粧したりダイエットしたり(しようとしたり)洋服買い込んだりすることを、「オトコにもてたいからだろ!」と他人に決め付けられる(あるいは決め付けられそうになる)のが、とてもイヤだわ!というか、うざったいわ!という、それだけのことかも。