似合わないドレスを着る

良く考えてみれば『キンゼイ』も見てないわ(まだやってるのかしら)とか、良く考えることを放棄すれば『ファンタスティック・フォー』が見たいわ(だってやっぱりSci-Fiだし馬鹿馬鹿しそうだし)とか、思い千々に乱れつつも、何故か『メゾン・ド・ヒミコ』を見て来ました。ゲイの老人ホームに女の子一人という設定だと聞いた記憶があったので、なんだか微妙にどうなのかなと思っていたのだけれども、とても良かった。
微妙だというのは、ゲイ映画だからと言うことでは勿論なくて、「ゲイしかでてこないのもアレだから可愛い女の子も一人入れよう(おばちゃんは入らない)」みたいな入れ方は嫌だなとか、「心の底で女らしさというモノを知っているゲイの老人にネイティブ・ガールが<やさしさ>を教わる設定」とか「ホモフォビアに固まった女の子(男の子じゃなくて)がゲイの(レズビアンじゃなくて)老人たちによって目を開かされる設定」とか「差別されてきた人たちがそれにもかかわらずうじうじせずに強くたくましく明るく生きているのを見てマジョリティが感動できる設定」とかが、微妙にいやだわ、ということだったのだけれども、全くそういう感じの映画ではなかったと思う。
わたくしが特に良いなと思ったのは、一つは「介護」の抱える問題がそれなりにきちんと入っていたこと。勿論実際の「介護」の大変さを描くことそれ自体がテーマではないので、御伽噺的な綺麗さはあるのだけれども、まあそういう映画なのだからそれはかまわない。それからもう一つは、「ゲイ」と「ゲイの<家族>である女の子」のどちらの視点も特権化されずに、両方の言い分に納得できる形で、噛みあわなかったり対立したりする部分はそのまま、提示されていたこと。
この二点は映画の中ではとても密接に絡み合っている。「ゲイの老人ホーム」であってもとにかく「老人ホーム」であり、介護だの死だのという問題を避けては通れない。そして、少なくとも今の日本の体制にあっては、とりわけ介護の問題というのは、家族(その有無とか、どういう形態であるのか、ということを含めて)の問題と、切り離せない問題だ。
集団生活をして家族をつくっていくということ(それが「老人ホーム」という形の家族であっても良いわけだけれど)ということの先には、家族の老いや病や死にどう対処するのかという問題がある。「メゾン・ド・ヒミコ」という「ホーム」をユートピア的に提示するのではなく、ユートピア的に見えなくもないその「ホーム」を脅かしている問題、つまり、「死にいく人を看取る」ことの精神的な負担、介護しきれない家族を放り出さざるをえなくなることをめぐる葛藤、介護に必要な費用を調達する困難などにきちんと触れつつ、それを超えて何らかの形の「ホーム」というのか気持ちのつながりというのか、それを維持しようとする試み*1を描いているところが、この映画のとても良いところだと思う。
この映画の場合それに加えて、「ゲイの<家族>である(あった)女性」という視点が入ってくる。つまり、ある一人のゲイ男性が自分の望む生き方を選択したために「見捨てられた」妻と子供の視点であって、これが<介護>や<看取り>の問題に絡んでくるのだ。一人だけ入ってくる女性は、ゲイの父親に自分と母親が捨てられたのだと考えていて、その父親が死にそうだからと言って、父親を許したり介護したりする義理はないと思っている。脳梗塞で全面介護が必要になったトランスの老人をトランスである事実を隠したまま<家族>のもとに送り返そうとする「ホーム」側の選択を彼女は激しく批判するのだけれども、そこにも、「ホーム」を選択することで一度は自分でつくった<家族>を捨てたのだから、捨てられた側に介護の負担を押し付けるのは不当だ、という論理がある。
ここで、「ゲイ男性がそういう選択をせざるを得ない状況があったのだから、それに腹を立てたりせず、死にかけている<親>を<子供>としてサポートするのは当然のことだ」、あるいは「自分の勝手で<家族>を捨てたのだから、その<家族>が介護にあたってサポートしないのは当然のことだ」、と言ってしまうのは簡単だけれども、この映画では、そのどちらの立場もとらない。<家族>に任せるという賭けに出ざるをえない「ホーム」の状態も分かるし、そういう「ホーム」の偽善性を批判する彼女の感情も分かる。そして、彼女と彼女の父親とは、最後まで「和解」することはない。映画は彼女に物分りの良い娘の役を演じさせることもしないし、父親に娘の物分りの良さを要求したり懇願したりさせることもしない。どちらの立場も、理不尽な我侭でもなければ偏見に満ちた思い込みでもなく、どちらの立場にも同等のdignityが与えられている。死に瀕した父親を前にしてあくまで感傷的な「許し」や「理解」を拒む娘と、その娘に対してこちらも感傷的に「許し」を乞うたり憤ったりすることなく、ただ単に「あなたが好きよ」と告げる父親とのシーンは、とても良かった。
個人的にとても好きだったシーン。

  • ホームの老人の一人が「みんなで老後を過ごせれば楽しいし安心だと思っていたけれども、実際には一人一人死んでいくのを見ていくようなものね」というようなことを言うシーン。実はわたくしは、「ゲイの老人ホームは確かによさそうだけれども、これはゲイの中でもかなり特殊な収入のある層の問題だし、レズビアンの老人ホームというのは経済的に可能なのだろうか。ヘテロやバイの単身者だとどうだろうか。」などと考えていて、「ゲイの老人ホームかあ、いいよねえ楽しそうだよねえ」みたいな気分にはとてもなれませんわと思っていた。そのあたりの経済的格差の問題は残るけれども、どういう集まりであれ、次世代を入れない「ホーム」のそういう点は変わらないな、と、ちょっとはっとした*2。この映画では、「娘」とホームのメンバーとに気持ちの繋がりが生まれるということ、さらに最初ホームの壁に落書きをしたりしていた子供がホームの手伝いに入ってくること、によって、そこに少し希望を入れようとしていたけれど。実際にはどうなるのだろう。
  • 病に倒れた恋人を看病している若いゲイ男性が、死んでいく恋人を見ていると自分がどうして生きていたいのかわからなくなる、だから何でも良いから欲望できるものが欲しい、というようなことを言うシーン。長いこと介護をしていたことがある、あるいはそういう人を傍で見ていたことのある人は、この感情は理解できるのではないかと思う。介護には、介護者の心を少しずつ殺していくような、そういう側面がありうると、少なくともわたくしは思っている。それは介護の相手に対する愛情の有無とか強さとかとは、全く関係のないもので、だからこそとてもつらいのだけれど。
  • 恋人が血を吐いた後で、幾ら洗っても血のにおいが取れないのだと、上の若い男性が言うシーン。血を吐くところまでいかなくても、病や老衰で死に掛けている人には死の匂いがする場合があると、わたくしは思っている。わたくしの祖父も、祖母も、いわゆる「ぽっくり」いった人を除けば、みんなそういう匂いをさせて亡くなっていった。わたくしにとって大切な人が病に倒れてその匂いをさせ始めたとき、わたくしはその匂いだけで怖くて怖くて仕方がなかった。その匂いが少しずつ薄れて消えていったときにはそれこそ病室から死神が薄れて消えていくような気がしたし、毎日毎日、それが前日よりも少しでも強くなってはいないかとぴりぴりして病室に入って行ったものだった。何より、その匂いを自分が感じてしまうこと自体がその人の死を呼び寄せているような気がして、そのことを誰にもいえなかった。そんなことを思い出して、つらいけれどもはっとするシーンだった。
  • そして何よりも、「ヤマザキさん」というゲイ男性が、こっそり自室につくっておいたドレスを女の子に見せるシーン。ヤマザキさんは、人前で女性の格好をしたことがないけれど、「お棺に入るときにはこのドレスを着るの。その時にはもう鏡で自分の姿を見なくてもすむから」と言う。不覚なのですけれど、この台詞でちょっと動揺しました、わたくし。で、この後ついに勇気をふるってヤマザキさんは女性の格好で外出するのだけれど、女性トイレで鏡を見ながら、「こうやってお化粧直しをするのが夢だったの」と言うのですよ。鏡を見てお化粧直しをすることを夢見つつ、鏡で自分の姿を見ないですむようにならなければドレスが着られないと思う、その気持ちと言ったら。人並みに摂食障害など通過してきたわたくしには、もうまるでヤマザキさん!わかるわ!その気持ち!みたいな。似合わないドレスを着たいのよ!似合わないとか思いたくないのよ!でも似合っても似あわなくてもいいわ、着ればいいじゃない、とも、なかなか思えないのよね!カラダは、美意識は、それをとりまく色々なものは、余りに大きくて、自分の手には余るのよね!どうしてこのシーンで泣くですかわたくしは、と思いつつ、涙が出て仕方ありませんでした。ちなみに、最初の台詞に続いてヤマザキさんは「次に生まれてくるときは女になって好きなものを着るの」と言うのだけれど、それを聞いていた女の子が「女だからって何でも着られるわけじゃない」と答えるのも、とても良かった。そうなのよ、ヤマザキさん!

*1:その試みが成功するかどうかは分からないけれど、おそらくこの映画にとってそれは一番大切なことではないのだろう

*2:勿論、だから子供をつくっとくべき、ということではないです。念のため