伝統は大切に。

パレードの感想にトラバくださった方の日記にたまたま言及されていたのをたどっていって、朝日新聞のこの記事を発見。6月18日の土曜版の記事でちょっと前のものになるけれども、たまたまこの記事は新聞で読んでいて、その時に激しくきょと〜んとしてしまったことを思い出したので、一応書いておこうと思う。
記事そのものは、マンガ「さざえさん」をベースに色々な社会事象やらなにやらについてちろっと取材しちろっと語ってみましたという気楽なコラム風連載で、この回は、カツオ君の「女装」について。

高視聴率を誇るテレビ「サザエさん」だが、たまにお茶の間の予定調和をおびやかすビーンボールを投げ込んでくる。
そのひとつが、カツオの女装ネタ。02年5月放送の「ボクは女の子」では、クラスの女の子たちが、女装が似合うのは誰かという話で盛り上がる。おメガネにかなったカツオは、あれよという間にかつらに口紅、スカートという姿に仕立てられ、写真を撮られる。聞けば雑誌のコンテストに応募するという。
いやがっていたカツオだが、しまいには鏡をのぞいて、「家族の誰にも似ていない。ボクだけ美しい……」とつぶやく。美しさに目覚めた彼はこの後どうなってしまうのか、軽い胸さわぎを覚えたものだった。
じつはカツオの女装は、原作に何度も登場している。

と、記事は始まる。「美しさに目覚めた彼はどうなってしまうのか」という「軽い胸さわぎ」を、ある意味無条件に読者の共感を呼ぶほほえましいエピソードとして語ってしまっているあたりからして早くも微妙に違和感。さらに、この記事の終わり方は、こんな感じ。

三橋さん[tummygirl注:女装家の三橋順子氏のこと]によれば、成人男性で日常的に女装を実践している人は5000〜1万人に1人の割合とか。ではカツオは……まあ、思えば小学校では、学年に1人くらい、女のマネをするのが好きなやつがいたのも確かだ。
「カツオ君はただのイタズラだと思いますよ。私にもおぼえがありますが、その傾向があると自覚している人は、軽い気持ちで女装はできません」
カツオ君、キミはやっぱり男の子だ……たぶんな。

「学年に1人くらい、女のマネをするのが好きなやつがいた」けれども、それはカツオ君も含めて「普通にオトコ」なのね、大きくなって女装なんてはじめたりしないのね、という安心感を持たせようとしているのか何なのか、「まあ、思えば」というつながりが、いったいどう「まあ」なのかわたくしにはちょっと読みきれない。しかも「……たぶんな。」って、ここは笑いどころの予定?それとも、カツオ君は「男の子」ではないかも知れませんよ、という新しい解釈を最後の最後で(しかも直前に引用した三橋氏の言葉に唐突に逆行して)打ち出そうということなのだろうか?
そもそも「その傾向」がいったい何の傾向なのかもこの記事からは全然分からない。三橋氏が何の文脈もなく「その傾向」と言ったわけではないだろうから、これは記者側で「当然わかるだろう」と省略してしまったものだろうけれども、「キミはやっぱり男の子だ」と続くいうことは、「TSまたはTGの女の子であるような傾向」ということだろうか。ここでは「女装者(あるいはTV)」と「TS」「TG」は完全にごちゃごちゃになってしまっている。カツオ君についてこの記事から読み取れるのは、カツオ君が「学年に1人くらい」いた「女のマネをするのが好きなやつ」であって女装を楽しんでいるということだけだ。カツオ君がTVだとしたら、勿論男の子でありつつ「その傾向」もあるっていうことになるわけで、いきなり「キミは<やっぱり>(TGでもTSでもなく)男の子だ」と書かれても、ちょっと困る。当事者でもあり研究者でもある人に一応それなりに取材をしておきながら、どうしてこんな記事になってしまったのだろうか、と、まずそこに唖然。
けれども、個人的なきょと〜ん要因の最大のものは、この記事における「日本の伝統文化」と「近代化」と「おおらかな性別越境」のわけのわからない組み合わせぶり。しつこくなるけれども、記事をさらに引用しておく。

次に三橋さんが指摘したのは日本の伝統文化の影響。歌舞伎の女形宝塚歌劇に顕著にみられるように、もともと日本人は男が女、女が男を演じる性別越境的な表現が大好きだった。
「昔は村祭りや花見などの余興で女装をするのはごく普通のことで、明治政府が“異性装禁止令”を出したくらい。長谷川町子さんの世代には、近代化以前のおおらかな時代の記憶が残っていたのかもしれません」
戦後、女装への関心が高まったのは好景気の時代だ。美輪(丸山)明宏、ピーター、カルーセル麻紀の“3大女装スター”が出そろったのは、世の中が熱気さかんだった60年代の末。バブル全盛の89年ごろには「笑っていいとも!」を発端とした「ミスターレディー」がちょっとしたブームに。
「でも美輪さんたち以後、女装スターは現れていません。新参者は厳しい。最近人気のオネエ系のタレントもみんな女装はしていないですよね。視聴者の受け止め方はじつは保守化、硬直化しているんです」

いくら三橋氏が(ニッポンバンザイじゃないかと色々と疑問や批判もある)国際日本文化研究センターの共同研究員をされていると言っても、こんな杜撰な形で「近代以前のニッポンはおおらかにして性別越境OK!だった」という議論をなさるはずはないので、ここも記者のまとめ方に問題があるのではないかと思うのだけれども、これは幾らなんでもむちゃくちゃだろう。*1どこからどう突っ込んでいいのかもわからないくらいなので、箇条書きに。

  • 「日本の伝統文化」「もともと日本人は」と言うときの、「伝統」「もともと」は、その後の記述を読む限りでは、「明治政府が”異性装禁止令”を出した」「近代化以前のおおらかな時代」というあたりを漠然と指しているように思われる。で、「近代化」以後も、その「おおらかな時代の記憶」が残っていて、長谷川町子のマンガではカツオ君が女装をするし、景気がよくなればなんとなく女装ブームのようなものが起きる、と。しかし、そういう「近代化以前の」「もともと」の「伝統文化」の「顕著」な例として、カブキの女形はともかく「宝塚歌劇」というのはいったいどういうことなのか。いや、宝塚歌劇が日本の伝統文化になれませんよとかそういうことではなくって、しかし歌舞伎と宝塚歌劇では、時代背景も発展の歴史も何もかも全く違うのではないのだろうか。それともその違いを超えてこの両者が「近代化以前のおおらかな」「伝統文化」を共有する芸術形態であるというのは、演劇史なり何なりの分野では常識範囲内の前提なのだろうか。あんまり適当に「日本の伝統文化はこうだった」と言ってしまうことは、この時代とても危険なように思うのだけれども、そのあたり、朝日新聞の記者としてはどう考えていたのだろう。
  • 「近代化以前のおおらかな時代」は三橋氏の言葉だと思われるし、実際に明治政府によるいわゆる「近代化=西洋化」政策以前は(社会階層にもよるだろうが)それ以後と較べて女性の力が強かったという研究もあるので、ジェンダーに焦点をおく場合に「近代化以前の日本」がある意味で「おおらか」であったと言うことは、可能なのかもしれない。しかしその根拠をたとえば「歌舞伎」や「村祭りや花見などの余興」に求めるのは、これが三橋氏の議論なのかそれともこれも記者の編集なのかわからないけれど、これまたかなり無理な論法だ。歌舞伎についていえば、そもそも女性の演技者が存在していたものを排除することで現存する「能」なり「歌舞伎」なりが成立してきたというのは良く言われることであって*2、その過程において必要な「女役」を「オトコ」が演じるようになっていったに過ぎない。その歴史をふまえた上で、結果として成立した表現形態の持つ性別越境的な可能性を論じることは勿論可能だけれども、そのような表現形態が存在するということ自体を性別越境を可能にするおおらかさの証拠とすることは出来ない。「村祭りや花見などの余興」についても、祭りや余興における性別越境的な表現が社会規範にもたらす効果の可能性を論じることはできても、そもそもある文化における「日常」とは切り離した形でエネルギーを発散することをその機能の一つとしている祭りや余興における性別越境的な表現の存在をもって、その文化の性別越境に対する許容度を測ることは、できないだろう。
  • さらに忘れてはならないのは、「歌舞伎」のような「性別越境的な表現」にせよ、祭りや余興における女装にせよ、「もともと日本人は」という表現によってイメージされがちな「日本独自の伝統文化」ではない、という点だ。*3
    • 舞台上の性別越境的な表現(というよりはオトコがオンナの役も演じるということ)がたとえばシェイクスピアの時代のイングランドの舞台で当然だったことは、映画にもなっているし、今更指摘するまでもないだろう。*4こうした上演形態がとられたのは、性別越境をめぐってこの社会が「おおらかだった」からというよりは(確かにそれ以後しばらくしてからのがちがちのピューリタン的な政治と較べればある意味「おおらか」だったのだけれども)、女性が舞台で演技をすることが可能でないような様々な諸制約があったからだ。当時のイングランドにおける性別越境的な舞台表象は社会的にも様々な波紋を生んだし、「男性」俳優のみという上演上の制約を逆手にとったジェンダー越境的なエキサイティングな表現も生まれたわけだけれども、それは同時に、性別越境、ジェンダー侵犯、あるいは階級侵犯を統制しようとするイデオロギーに対抗して、そのような性別越境的、階級越境的*5な「装い」をあえて行おうとしていたルネサンスイングランドにおける舞台の外での社会・文化的な気分や政治と呼応したものであり、そのような「舞台の外」の文化政治とのダイナミクスを黙殺して性別越境的な舞台表象を可能にする社会の「おおらかさ」について語ることは、できない。
    • 同じく、祭りや余興における女装にいたっては、長くそれこそ「西洋近代」社会においても見られてきたことだ。このような場における女装に、日常生活におけるジェンダーセクシュアリティに関する規範を揺るがしうる可能性を見ることは勿論不可能ではないが、それはむしろ「祭り」や「余興」という場においてあえてこのような装いを許可することでかろうじてガス抜きをしなくてはならない規範の基盤の危うさを指摘するという形をとる方が妥当だと思われる。女装それ自体を取り上げて性別越境に対する、あるいはジェンダーセクシュアリティをめぐる諸規範全体における、「おおらかさ」を見て取るという議論の不十分さは、たとえば英米でのホモソーシャルな集団(男子校とかね)における「馬鹿騒ぎ」のときの女装が、ジェンダー流動性につながるものでもなければ、ホモフォビアなりミソジニーなりと対極にあるものでもないことを例にとって、散々に指摘されてきていることだと思う。
  • いずれにしてもこのような実践は、「もともと日本人が」好きなものだったものではあるかもしれないけれど必ずしも日本の伝統に特有のものではなく、そして何より、そのような実践が見られる社会において性別越境が比較的自由に行われていたことを示すものではない。勿論、「近代化以前の日本」において「現代の日本」よりも性別越境が比較的自由であったということはあり得るだろうし、それが何らかの意味で「日本の伝統的な性あるいはジェンダーのとらえ方の一つ」であるという議論をすることも(こちらは「日本」とは、とか「伝統的な」とはどこまでさかのぼるべきなのか、とか、そういう問題が絡むのでよりややこしくはなるだろうけれども)可能だと思う。また、恣意的な「日本の伝統」を盾にしてジェンダーセクシュアリティ、家族形態などにかかわる反動的な規範を再強化しようする動きが顕著な現在、「日本の伝統」は実はあなた達の言うようなものではなかったよ、と指摘することには、確かに政治的な効果がある。けれども、そのような指摘をする目的であっても、「もともとの日本」とか「伝統」というレトリックの安易な利用は、「もともとの日本」や「伝統」とは何かという問題を完全に無視して「日本の伝統」をつくりあげるという点で、論理的にも政治的にも批判を免れない。しかも、「歌舞伎」や「宝塚」や「祭りや余興」を根拠に日本人はもともと性別越境に関して比較的寛容であったとするならば、歌舞伎も宝塚も「日本の芸能」として一定の地位を確保し、年末の紅白歌合戦ではいまだに美川憲一の異性装(というよりあれはもう単純に異装かしら)が無理やりな感はあるにせよ話題を呼び、スマップのメンバーがバラエティで「女装キャラ」を演じたり、「ゴリエちゃん」が未だにテレビに出ていたりしている現代の日本を、それを根拠に性別越境に寛容で「おおらかな」社会であると言われても、反駁しにくくなるだろう。

「たかがマンガ」をテーマにした「たかが土曜版」のお遊びコラムだ。目くじらを立てるほどのことではないのかもしれない。けれども、わざわざこのようなテーマを選び、わざわざ「当事者」であり「研究者」でもある人に取材をしておいて、結果がこの記事では、逆効果もはなはだしい。三橋氏も取材された挙句にこんなむちゃくちゃな論を展開しているかのように書かれたのでは、たまったものではないだろう。「伝統」に注目するのも結構。けれども、伝統は軽々しく扱わず、ちゃんとした注意と敬意を払って、大切にしましょうよ。ね。

*1:三橋氏が朝日新聞に抗議なさったとか、そういうことはあるのだろうか

*2:最近の研究などをきちんと読んでいるわけではないので、これまた違っていたらご指摘いただけると嬉しい

*3:勿論、「もともと日本人は」こういうものが好きだったし、「もともと他の国の人々も」こういうものが好きなのだ、という議論は成立しないわけではないし、この記事がその可能性を排除しているとは限らないけれども、「もともと日本人は」という表現はどうしても「日本独自の(=西洋化・近代化以前の)文化・伝統」というレトリックに回収されやすいので、一応注意を喚起しておきたい

*4:まあ正確には「オトコがというよりは「もっぱら少年が(ただし必ずしも年少の少年であれば女役、女役であれば年少の少年だったわけではない)」であって、そこに違いはあったりする。そこを検証した上で「歌舞伎とは違う」という議論は成立するとは思う

*5:舞台での仮装は異性装であると同時に異・階級装でもあり、そのことは当時から明確に認識されていた