尽くす女

conjuntoさんのこちらのエントリからトラバ。
最近[ ]
そういう時、時折、自分は無意味に尽くしているだけなのかしら、と思うことがある。自分の中に自覚されないままに埋め込まれた「それが女性がしてあげるべきことだから」というイデオロギーのせいで、わたくしはこういうことをしているのかしら、と。たとえばDVの恋人と別れられない女性のような、そういう状態に今自分はあるのかしら、と。だとすると、フェミとしては、わたくしは[ ]

“面倒を見る”ことが愛情であると、どうしてこの国ではこれほどまでに深く信じられてしまったのだろう。深く内面化された女性差別のために、頭ではフェミニストでも、体は「尽くす女」の典型をやってしまう。
「お父さんもかわいそうだし、私しか面倒を見られないから」と自分に言い聞かせて。

本当にその通りだと思うのだ。で、本当にその通りだと思うからこそややこしいのは、[ ] [わたくしは尽くす女なのかしら?」「これはいわゆる一つの懐かしい共依存ってやつの典型例なのかしら?」などなど、ちらっとでもフェミをかじった人間としては、激しく脳内で疑問が渦巻く。実際のところ、フェミをかじって身についた知識は、こういう事態をこれっぽっちも楽にしてはくれない*1。「愛する人の面倒を見るのは当たり前のこと」と信じられる方が、まだしも楽ではないかと思うことさえある。もちろん、[ ]多少まわりくどいやり方で、やはり悩むところなのだろうけれども。
さて。[ ]少なくともわたくしにとってはパートナーシップというのはそういう支えあいを含むものだ。問題は、片方がより多くのサポートをしており、しかもその状態がいつ終わるのかわからないとき、どこまでが「サポート」であり、どこからが一方的な「尽くし」なり「共依存」なりになるのか、とにかく今支えないと駄目かも!という人を前にしている状態でそれを冷静に見極めるのはとても難しい、ということだ。もちろん、自分にとって相手が何かを与えてくれているからこそ別れずにいるのだろうけれども、たとえば「安心」とか「愛情」とか「安定」とか「喜び」とか「幸福」とか、そういうものは、その時自分ではその存在を信じていたとしても、それは単にそう信じていなければやっていけないから自分を奥深くで騙しているに過ぎないの「かも知れない」わけで、そう考え出すと、結構身動きがとれない。
まあ、結局[ ]
というわけで、この点においては実はわたくしにとってフェミはあんまりエンパワリングではありません。じゃ何がエンパワリングかというと、今のところ微妙に青木さやかです。それってどうなのよ。でも、あれだけ堂々と恥もてらいもなく「恋人養ってます」ってのを芸風の一端にしちゃった女性って、日本に今までいたのかしら。実際のところがどうなのかとか詳しくは知らないので完全な思い違いなのかもしれないのですけれど、私のオトコは私より稼ぎがないけど/若いけど/有名ではないけれども、でも、才能がある/愛情に満ちている/とてもオトナだ、などなど、という小柳ルミ子風言い訳を実質殆ど機能させずに、「恋人養ってます」って言ってるような気が。アタシの好きで惚れた相手をアタシの好きで養ってるのだから文句言われる筋合いはないでしょ、という態度を勝手に見てとって、その一点において勝手に感心しております。

*1:別の事態を楽にしてくれることはあるので、フェミが女性の人生をハードにするってことじゃないですが