セックスについて語ろう。

何かととりまぎれてアップしなかったような気がするのだけれども、前のところでブログを書いていた頃、いつかアップするつもりでこんなものを書いていた。

なんだかこのところ、急にあちらこちらで「絶対みるべし」なオススメを見かけるので、日本公開されたら見にいこうかと思っている。Kinsey。忘れないようにここにメモしておきます。
参加しているフェミ系のMLの一つで強力なオシがあったのとは別に、Advocateに監督のBill Condonのインタビューが乗っていて、それを読んだらまんまと見たくなってきた。あっさり乗せられ過ぎ。しかし、大統領選の直後にこういう映画が出てくるあたりが、アメリカはちょっと面白い。どうやら公開を開票後にするか前にするか迷ったらしく、大統領選の最中に公開されたらどういう議論を呼び起こしたか、それはそれで見てみたかった気もする。
同時に、この映画が日本公開されるときにどういう宣伝のされ方をするのか、それにもちょっと注意を払っておきたいと思う。

で、忘れないようにメモと書いたくせにそもそもそのメモをアップするのを忘れてしまったので、きわめてナチュラルに映画そのものについてもすっかり失念していた次第。ところが、先日映画を見に行って予告編を目撃、ちょっと驚いてしまった。*1以下、本編を見たわけではないので、あくまでもタイトルの予告編からみた、この映画の「売り出し方」について。
             kinsey

そもそも原題がKinsey:Let's Talk About Sexなのに、日本語タイトルは「愛についてのキンゼイ・レポート」になっている。昨日のエントリーに書いたことともタイミングよく重なってくるけれども、これはたとえば「Notting Hill」を「「ノッティング・ヒルの恋人」にするようなものとは、かなり違う。(「愛」じゃなくて)「セックス」について話そう!という調査をしたキンゼイについての映画だよ、ということを原題はわざわざ明らかにしているのに、邦題ではセックスをこれまた明らかに意図的に完全に消去しているのだから。まるでキンゼイ・レポートが「愛について」のものだったかのように読ませるこの邦題は、キンゼイ・レポートについても、そして少なくとも監督のインタビューを読む限りでは映画自体についても、かなりミスリーディングだ。
言うまでもなく、キンゼイのレポートは、当時アメリカで「普通の人の性生活はこうだ(こうであるべきだ)」と思われていた様々なことが根拠のない抑圧的な神話として機能していることを明らかにし、同性愛と異性愛をある意味はっきりとは区別しきれない連続的なものだととらえるなど、そのレポートの正確性の評価は色々あるにせよ、とにかくその後に続く「性の革命」や「ゲイ・レボリューション」への道を開く役割の一端を担うだけの衝撃を持つものだった。そのキンゼイを題材に選んだ監督のビル・コンドンGods and Monstersをつくった人で、オープンなゲイとしても知られている。Advocateとのインタビューで、コンドンは

One of the things that Kinsey did successfully for a while was to separate science from morality. And if you look at what's happened in the Bush administration, morality has been injected back into the discussion, and science is suffering because of it.

と言っていて、まあ科学と道徳は本当に切り離せるのか?道徳(morality)と切り離すのがかまわないとして、それなら倫理(ethics)とは切り離してもかまわないのか?みたいなややこしい議論はあるにせよ、とりあえず監督としては、愛の一つのあらわれ方として性を語るのではなく、道徳的な価値とは切り離した科学的な態度で性について語ろうとした人間としてキンゼイを描こうとしたのではないかと思える*2。だからこそ、セクシュアリティの多様性の主張を抑圧し、性についての沈黙を強制する力が強まっているこの時期に、このような映画をつくる政治的な意味合いが生まれてくるのだし、それがはっきり理解されたからこそ、この映画がオスカーを取れなかったことにアカデミーの保守性を読み取る人々もいるのだ。*3
で、それならそういう形で日本でも売り出して欲しい。映画の予告編を見ても、少なくとも英語圏におけるこの映画の「売り出し方」は、「性について語るということ、あるいは性について語ろうと促した人、についての映画」という点をはっきりさせている。日本語版は、日本語サイトに載っているのよりも劇場ではもう少し長いバージョンのものを流していて、正確に覚えているわけではないけれど、やはり英語版とくらべてかなり「愛」を前景化した構成になっていたような記憶がある。もしその記憶が正しければ、これは単に「<キンゼイ>だけではタイトルが短かすぎて音が悪い」というような問題ではなく、「性」を薄めて「愛」を強めるという操作を意図的にしたということではないかと思える。
今の日本で「愛」が売れるキーワードらしいことは私にも想像はつくけれども、それにしたって、「愛についてのキンゼイ・レポート」では、「性について話そう」というキンゼイの、そしてこの映画の試みを、タイトル自体が裏切っているようなものではないか。この映画が「愛」について語っていないだろうというのではなく(そこは予告編からだけではわからなかった)、「性」について語れば「愛」については語れないはずだということでもなく、でも、「性を語るなら/性ではなくて、愛を語らなくては」という一つのイデオロギーに抗して、あえて「性を」語ろうと主張した人物についての、そういう主張をこめたタイトルを持つ、これはそういう映画なのだから、それを尊重して欲しいということなのだけれど。

*1:ちなみに見に行った映画はTeam America:World Policeで、予告編もそれなりに楽しかったんだけれども、映画自体は駄目だったわ〜。やっぱりこの人たち、30分枠シリーズモノに向いているのかもしれない。映画向きじゃない気がする。サウスパークの映画版もがっかりしたのに、なぜまた引っかかって見に行ってしまったのか。馬鹿馬鹿。

*2:彼が自らのバイセクシュアルな生き方について沈黙を守ったことも、この「オフィシャルな」態度との対照によっていっそう興味深いものになる

*3:たとえばこちらの記事を参照