バンコクバンコクその4(三日目)

三日めに入るとそろそろ息切れてくる。前日に自分の発表が終わって手ごたえが良かったので気が抜けたのと、同時にいろいろと学会そのもののあり方に疑問や不安が高まってきて落ち着かないのと、その両方でなんとなく疲れ気味。日常がだらけているとこういうときにも気力が続かないのだなと、ちょっとわが身を恥じたり。けれどもまあこれが最終日ということで、探してもみあたらない気合をかき集め、朝食を多目にとって、参加。
最初に出かけたパネルは、映画関係。一応理論・表象系(あくまで「系」ですが)の人間としては、そういうのも一つくらい聴講してみたいという気持ちで出かけたのだけれども、これがとても面白かった。パネルの発表相互に特に関連があるわけではなく、それぞれ別のテーマ、別の作品についての発表だったのだけれども、それでもただただ楽しい。何と言うのか、良い悪いは別にして、わたくしはこういうモノ、表象テクストの(「紹介」ではなくて)「分析」とか、理論の、理論としての整合性とある種の「政治性」との間を踊りぬけるようなアクロバティックな展開とか、そういうモノが、好きだ。映画が好きとか、料理が好きとか、ロックが好きとか、そういう感じで、わたくしは表象分析だのジェンダー理論だのが好きなのだと思う。研究者としてそれで良いのかどうかは、かなり疑問ですけれど。とにかく今回の学会を通じて、一番「たのしかった」パネルかもしれない。

  • 一つは日本モノ。こちらの本での考察の紹介という形だったのだろうか、50年代、60年代のチャンバラ映画における異性装とジェンダー流動性について。わたくしが共感したのは、ヘテロど真ん中的な大衆映画での確信犯的なでたらめぶりやらジェンダーの奔放な流動性やらを示すことでメインストリームに存在していたキャンプ性を読み取りつつも、それにもかかわらず、これらの映画が最終的には社会体制と秩序とを再確認するメッセージを持つこと、その意味でこれをクィアな表象として理解することには一定の留保が必要であることを、指摘していた点。勿論、テクスト分析にあっては、そのテクスト自身が「私はこのようなメッセージを発している」と主張しているメッセージ、明らかに読み取れるものとして前面に提示されているメッセージ、一見それとわからないように隠された(コード化された)メッセージ、そしてテクスト自身がその存在を知らないにもかかわらず特定の「読み」を通じてたち現れるメッセージなど、多様なメッセージのどれか一つを最終的な「正解」として特権化することはできないし、従って、ある特定のテクストがそのナラティブ上のエンディングにおいて既存の秩序の再確認をしていたからといって、そのエンディングにいたるまでの多様な逸脱や混乱が必ずしも無効になるわけではない。けれども、「いかにも」ジェンダー流動的な視覚イメージに満ちたこれらの映画やそれを支えた文化が、あまりにも単純にクィア・フレンドリーな(って言うのかしらね、何か奇妙だわ)ものとして理解されがちであることを考えれば、前面に打ち出された体制順応的なメッセージとそのメッセージが向けられていた「体制」の保守性という文脈を確認しておくことは、意味のあることだと思える。いまさらそんな単純な発想する人もいないだろうよ、と思っていると、「カブキやノウがあることでもわかるように、ニッポンは伝統的にジェンダー・ベンディングな、ジェンダーの縛りのゆるい社会なのだ!」とか言い出すハッピーな研究者とかがいたりするし、用心に越したことはない、という感じ。イギリス(あ、上流階級とか知らないですけど、中〜労働者階級の話)ではスタッグ・ナイトとか学生のコンパとか、そういう馬鹿騒ぎの機会があると、スカートはいたり化粧したりして街に繰り出す(すごい大時代な言い方ですね)ヘテロ男性を一人や二人は見かけるものだけれど、それをそのままジェンダー流動的だ!クィアだ!と主張する馬鹿もいないだろうに、どうしてニッポンの話になると基本的なコンテクストを抜かしちゃうかしらね。いずれにせよ、歴史的な文脈を無視して「クィアだ!」と持ちあげるでもなく、けれどもキャンプ的な要素をすくいあげてクィアな読み方を提示していく点、この発表は「読み方」としても丁寧で、とてもおもしろかった。
  • 残り二つはインドのもので、インド系なまりがとても苦手であることと例としてあげられている事例や作品を知らないこととで、自分がどの程度正確に理解できていたのかかなり疑問なのだけれども、わかった限りでは、一つは表象representationと偽りの表象misrepresentationをめぐる権力と倫理の問題の理論的考察がメインで、表象の暴力、とりわけ避けることのできないネガティブなmisrepresentationの増殖がもたらす暴力に対しては、同じく表象の増殖をもって抗するしかないのだが、その際に表象および読解における「倫理性」の問題を再び真剣に考えなくてはいけない、という主張。この発表は、依拠している思想家や思索の出発点にある社会・文化事象は全く違うにもかかわらず、わたくしの考えていることと重なる部分が大きくて(というか、そう私は理解して)、なんだかわくわくした。パネル後に、ダイレクトに社会的な活動に結びつかず、かといって事例報告でもない表象系の研究者は、こういう学会では微妙に肩身が狭いよねえ、と発表者の人とちょっと愚痴りあった後、発表原稿に少し手直しをしたら見せてあげるよ、という寛大な申し出を無理やりゲットして、さらにわくわく。
  • もう一つの発表は、India Cabaretというインドのキャバレー・ダンサー/売春婦*1を扱ったドキュメンタリー映画についてのもので、ヘテロ規範において明らかに搾取されている性的身体が、同時に搾取する側には見えない、あるいはそこからは隠されている、強いホモエロティックな絆で結ばれていることに着目する読解。この映画におけるダンスシーンの前景化が、ヘテロ向けのエロティシズムの演技性を強調するとともに、このような「演技」を通じてホモエロティックな性的身体が文字通り舞台の前面を奪い返す可能性を示唆している、という議論の流れは、なんとなく「あり」のような気がするのだけれども、その上こういうミミクリー的なパフォーマンスには私はとても興味もあるし、読み方としても好きなのだけれども、いかんせんもともとの映画を見ていないのでなんとも言いがたい。見てみたいなあ。*2

午後になると本当につかれきってしまって、一時期だう〜ん。緊張しすぎなのだと思う。ただのお祭りなのに馬鹿だなあと、自分で少し呆れたり。最後のクロージング・セッションActivists and Academics Working Together for the Future of Queer Rights in Asiaも、締めにしては何だかしまりがない気がする(こちらのアタマが締まってなかっただけという可能性は排除できませんが。っていうか多分そっちですけれど)。せっかく各国から人を呼んでいるのだから、もう少し時間を絞るなりテーマを絞るなりして突っ込んだ話をしてみるとか、今回の学会で出てきた問題点を洗ってみるとか、そういう方向の方が面白かったかもしれない。まあ、時間や労力の問題で無理だったのかもしれないけれども。印象に残ったのは台湾のスピーカーで、「政府を信じるな!」的なことをがんがんぶちかましクィアスタディーズ/ポリティクス/アクティビズムの内部における「(ジェンダー・ストレートな)男性」中心主義をがっちり批判し、会場から圧倒的な拍手を浮けまくっていた。台湾のクィアはやっぱりパワフルな気がする。っていうか、クロージングを一方的にスピーカーが喋る形のセッションにするんだったら、あの手の半ばアジ演説的なのにしてくれると、やっぱり盛り上がっていいわぁ(多分。気分的には)。

*1:prostituteという単語はこう訳すべきなのかしら。セックス・ワーカーと訳すのは違うような気もするのだけれども、間違えていたらご教授ください

*2:今調べたら、監督のMir Nairは、モンスーン・ウェディングとかの人なのね。でもこのドキュメンタリーのDVDは見つけられなかった。残念。そのかわりこんなインタビュー記事を発見したので、メモがわりにここに置いておく