バンコクバンコクその3(二日目):クィアは舶来モンなのか?

二日目の私にとってのハイライトは、実は冒頭のセッションQueer Asia: Local? Western Import? Hybrid?。朝から重い話ではあるのだけれども、とりあえずこの学会の文脈においては私にとって一番気になるテーマでもあるので、とにかく強引に聞きに行ったら、実はテーマは重いけれども各スピーカーの話そのものは結構短くてわりと楽だったり。この学会でもそれから学会後のIRNのセッションでも何度も出てきた話題ではあるのだが、要するにここで問題になっているのは、「クィア」という概念そのものが、アジアのコンテクストに存在するのか、適用しうるのか、するべきなのか、アジアのクィアとは何なのか、そういう話。そもそも「クィア」という英米起源の概念を無批判に輸入することは、「クィア」による/「クィア」におけるグローバライゼイションでありローカルな差異をコロニアルなしぐさで抹消しているのではないか、という問題提起そのものは、まあ当然のものだといえるのだけれども、だから「クィア」は西洋のものでありアジアに軽々しく持ち込むべきではないとか、アジアにはアジア特有の土着の「クィア的なもの」があり、クィアという概念は必要ではないとか、そう簡単に言ってしまうわけにも、勿論、いかない。
その他、二日目に印象に残ったことなど。

  • この日はわたくしの発表するパネルもあったのだけれど、予想よりもずっと盛況で嬉しい。わたくしは基本的に研究においては無条件な「当事者主義」には意味がないと思っているのだが、今回のパネルに限って言えば、ある種の「当事者主義」(「日本人」とか「女性」とかね)がうまい具合に人を呼んだことは間違いない。そういう「当事者主義」は今回の場合アカデミア内部での戦略的な位置取りであったので、予想以上に戦略があたったと言えなくもないけれど、それでもその部分は微妙に微妙な感じ。嬉しいような、嬉しくないような。一応今回のパネルは発表者がそれぞれかなりばらばらのことを喋るような形で組むことで、「ローカルな当事者による情報提供」という形に安易に回収されることを少しでも避けようとはしたのだけれど。で、これも「当事者主義」の一部なのだろうけれど、オーディエンスに「東アジアの」「女性の」研究者が多かったのが印象に残った。さらに、その場の質疑応答での発言は比較的メジャーな「日本研究者」が多かったのだが、パネルが終わってからプライベートに「あのパネルは面白かったよ」と声をかけにきてくれる人が多かったのがわたくしには嬉しかったり。ああいう場でいきなり「良かったです面白かったです」っていうことを適当に飾り立てて英語で言うのって、わたくしもまだ苦手で(駄目ぢゃん)、「それ絶対反対!」という強い動機でもない限りは、勇気を振り絞って後からプライベートに「良かったです〜」と言うのが精一杯なので、微妙に親近感というのか。
  • 午後には「日本パネル」に参加。ここではもろに朝のパネルセッションのテーマを引き継いで「日本のクィア」についての発表があって、これを聞くのがメイン。わたくしがこの研究者の発表を聞くのは三回目で、毎回毎回しつこく反論しているのだけれども、どうもうまく話がかみあわない。要するに「クィア」という概念の理解、それから日本の現在の政治的文脈(これは同時に「ポストコロニアルな」視点と切り離せないと私は思うのだけれど)についての理解に、ものすごく大きな乖離があるのだろうと思うのだが。この発表者の主張は簡単に言ってしまえば「西洋からの輸入を待つまでも無く、日本には伝統的に<クィア>が存在していて、それは<変態>と呼ばれていた。ノーマルではないもの、規範的ではないものとしてのこの<変態>というカテゴリーこそが日本の<クィア>であり、<変態>をめぐるディスコースを日本独自のクィア・セオリーとして考えることができる」というもの、だと思う。私は社会学者ではないので、この発表者の資料収集や分析の手法そのものに問題があるかどうかはすぐにはわからないのだけれども、ただ、資料の掘り起こしには非常に大きな意義があるとは思うし、西洋の「クィア」の概念をそのまま日本にあてはめればよいというものでもないと言う点は、同意できる。けれども、少なくとも彼の発表を聞く限りでは、90年代以降の「クィア・ポリティクス」「クィアスタディーズ」あるいは「クィア理論」において用いられている「クィア」と、彼の提示する「変態」の概念とは、政治的に非常に異なっているように思える。前者があきらかにフェミニズムやポスト・コロニアリズム、人種理論などの、さまざまの社会理論や運動のインパクトを受けて、このような理論や運動が打ち出してきた政治的な視点を少なくとも理念上は取り込もうとしたものであるのに対して、後者においてそのような多様な政治的視点が存在していたということは、少なくとも発表においては明らかにされていない。そして何より、この発表者は「日本の伝統的なクィア性」を主張するときに、わりと安易にそれを「輸入されたクィアスタディーズを支持する政治的・学問的な立場」と対比させて、まあ簡単に言えば後者を批判するのだけれども、この時の「輸入クィア」側をアカー的な権利獲得運動に代表させてしまうことが多い。アカーを支持する批判するは別にして、「権利獲得運動」あるいは「差異の主張」を「アメリカ/西洋かぶれ」=「日本の伝統にそぐわない」ものとみなすというこの手続きは、今の日本の政治的状況を考えると、非常に非常に危ういと、わたくしは考えている。そこを回避した上であえて「日本の土着のクィア」について語ってくれる分には一向に構わないのだけれど、質疑応答で質問をしてみても、そのあたりはどうも意識していないみたいだし。英米の学会で生き延びていく上では、「西洋のものとは明らかに違う日本土着のクィア性の優越」を分かりやすく主張すれば楽なのは確かなのだけれども、それで得をするのは日本の(日本で生きている)クィアではなくて、当該研究者一人のような気がするのよね。
  • ちなみに、このパネルではひっぴぃさんも発表なさっていて、これは非常に面白かった。何が面白いって、ただ一人「アクティビスト」のひっぴぃさんの主張が、ほかの発表と全然かみ合っていないのが、何よりも面白い。「欧米研究者」の「研究発表」を「ローカル当事者」の「報告・主張」が支えるような形のパネルは本当につまらないのだけれども、日比野さんの発表、ささえるどころか根本的に方向性が食い違っている。発表の手法とかトーンも、いわゆる「学会発表」とはかなり赴きが違う。発表者であれオーディエンスであれ、その場にいあわせた「研究者」が、たとえ「使おう」と思ったとしてもそう簡単には使えない、そういうところは、アカデミアが基本的に力を持っていた今回の「学会」のような場にあっては、実に撹乱的だったと思う。そもそも今回の学会、一応「クィア学会」だし、主催者も「LGBTQ」という言葉を使ったりはするのだけれども、発表や基調パネルですら、結構平気で「LG」(場合によってはそれにTが加わる)が「クィア」と相互互換で使われるし*1、パネルにも個々の発表にもバイセクシュアル関連のものは殆どないしで、そういう意味でも「バイセクシュアル」をとりあげたひびのさんの発表は貴重だった。

*1:そもそもLGというよりGじゃないのか?という批判は例によって勿論存在するのだが、とりあえず今はそれはおいておくとしても