『胡蝶』おすすめです

東京レズビアン&ゲイフィルムフェスティバルで、胡蝶(Butterfly, Yan Yan Mak, Dir., 2004, Hong Kong)を見る。胡蝶
実はこの作品、あんまり期待して見に行ったわけではなかった。映画祭のパンフにあった宣伝文句が

高校教師フラヴィアは、ある日スーパーで少女のような魅力を持つイップと出会う。
彼女の迷いのない積極的なアプローチに、フラヴィアは未だに忘れられない女子高時代の恋人・ジンを思い出していた。
激しく愛し合った二人、離れられないと思っていたあの頃……。
天安門事件を背景にした過去と現在の二つの恋を、切なくも美しく描き出す。
ヤンヤン・マク監督の、エロティシズムに彩られた繊細かつ大胆な映像描写が秀逸の長編作品。

というもので、そもそも、1.少年少女に興味がない 2.「エロティシズムに彩られた大胆な描写」というものに基本的に懐疑的(退屈することが多い) 3.「激しく愛し合う」ストーリーに余り惹かれない(激しく愛し合うのはいいのだけれども、愛し合い方にもうちっとバリエーションはないんかい、と思う) という人間であるわたくしは、け。文芸恋愛至上大作かい。大胆エロチシズム風味でトンガリ感をお楽しみいただけるんかい。これはどうも好きになれない作品に違いないと、偏見と先入観ばりばりの状態で、鑑賞。ただ、この日以外に時間がとれるかどうかわからなかったのと、ホンコンものっていうのはビデオにならないかも知れないしまあ一応見ておこうかなというのと、そういう非常に後ろ向きな理由で、大学のある片田舎からオサレ青山まで延々と出かける。
で、結論から言うと。申し訳ありませんでした。とても面白うございました。偏見とか先入観とかは良くありませんわね!
まあ、女優さんが綺麗とかエロチシズムがたっぷり(なのか?)とか、そういうのはあることはあるのだけれども、それよりも興味深かったのは、レズビアンというアイデンティティと、ナショナルな(ホンコンだからリージョナルなのかしら)アイデンティティとが、少しずつ重ね合わされながら描かれているところ。恋愛至上主義どころのお話ではなく、非常にポリティカルな読みのできる映画だったような気がする*1。映画としての完成度とかそういうことは、わたくしちょっと判断しかねるのだけれども、わたくしには、ある意味少し未完成というのか混乱や痛みが未消化で投げ出されている部分があるように思え、けれどもそれが映画が扱っている主題を逆に引き立てていたように感じた。
以下、ホンコンの政治状況やホンコンにおけるレズビアンの位置について全く知らない状態なので、完全な誤読なのかもしれないのだけれども、とりあえず感想として忘れないようにメモ。ホンコンのクィア批評家による論考で英語で読めるものがあったら読んでみたいなあ。で、ネタバレでもあります(ストーリー知っていたからって困るような映画ではありませんけどね)。
基本的には、主人公である女子高教師の、過去と現在の二つの恋愛が交錯しながら語られていく。主人公は過去の恋人と別れた後、今は結婚して子供もいるのだけれども、偶然であった若い女性に惹かれるようになり、過去の恋愛(とその破綻)をなぞりながら新しい恋愛におそるおそる向き合っていく。で、恋愛映画としても勿論きちんと成立しているし(というかそもそもそれがメインだし)、母親との関係、夫や子供との関係、そして女性の恋人との関係の中で、納得のいくものから痛みに満ちたものまで、主人公が迫られるさまざまの選択というのは、特定の時代と場所という設定をはずしても共感できるものではあるのだけれど、私がとても興味深いと思ったのは、セクシュアリティをめぐる主人公の立ち位置と、「政治」における「ホンコン」の立ち位置とが、ゆるく共鳴させられているところだった。
過去と現在、それぞれの恋愛における一種のターニングポイントになる事件がある。現在の物語において、新しい恋愛から逃げていた主人公は、教え子であるレズビアンカップルが親の反対を避けて家出をして助けを求めてきたのに対して求められた対応をすることができない。その結果、このカップルは別れさせられてしまって、その一人が主人公の授業中に手首を切るという事件が起きる。主人公はこの事件をきっかけにもう一度新しい恋人との関係に向き合っていくようになるのだが、教え子が手首を切った後に主人公が学校のトイレで血に染まった手と服とを洗うシーンがある。ところがこのシーンは、過去の恋愛におけるターニングポイントとなる事件、天安門事件における民主化運動の流血を伴う弾圧のシーンと、重ねあわされているのだ。過去の恋愛においては、メインランドでの民主化運動に呼応した学生運動に主人公の恋人がのめりこんでいくことでこの二人の間に少しずつ隙間が生じるようになり、運動の挫折から時を経ずして主人公は恋人と別れることになる*2
実はそれ以前にも、ナラティブ上の必要からすれば少し長すぎ、少し多すぎる、いわば目に付くように配置された「手を洗うシーン」がいくつかあって、その意味がこの時に明らかになるのではないかと私は思う。「手を洗う」行為、余りといえば余りに単純な読みかもしれないけれど、この行為は、「西洋の」伝統で言えば、いわばマクベス夫人の、あるいはさかのぼればキリスト教におけるピラトの、手を洗う行為と同じ、手についた血を流そうとする、わが身を守るために流した(あるいは流れるに任せた)血を自分にはかかわりがないこととして消し去ろうとする、そのしぐさではないだろうか。そして、最初の恋愛についてはいわば「手を洗った」ことにしてしまった主人公の両手に、二度目の恋愛の途中で起きた事件は、目に見える、そして水で流そうとしても容易には流れない血を、再び浮かび上がらせたのではないだろうか。その時、主人公が洗い流したことにしていた最初の「血」、夫と子供に囲まれ、明らかに経済的に恵まれた*3、主人公の今の生活を可能にするために流れた「血」というのは、破綻した過去のレズビアン関係と同時に、「民主化」をめぐって流れた血でもあると考えるのは、映画におけるこの二つの事件の重ねあわせ方からして、不自然ではないだろう。そうだとすれば、レズビアン関係の可能性を抑圧して現在の生活を維持しようとした主人公の立ち位置は、そのまま、「民主化」要求の政治運動が激化しないという留保つきで一定の経済的な「自由化」と繁栄とを許されているホンコンという都市の立ち位置に、重なってくるのではないだろうか。映画で何度か繰り返される主人公の台詞に「私は両方欲しいのよ」というものがあって、「あれかこれかどちらか」という選択に抗おうとする主人公の欲求は、そのたびに挫折してしまうのだけれども、これもまた、返還前の政治的自由と経済的繁栄のどちらも欲しい、けれどもそれが許されないというホンコンの状況と、呼応しているような気がする。
勿論、主人公がレズビアン関係を選択して夫のもとを去ったからといって、それがそのままホンコンの民主化につながっていくような、そういうストーリーが準備されているわけではない。主人公と新しい恋人とは、どうやらそのまま幸せに暮らしていくようでもある。けれども、レズビアンアイデンティティを政治的なものとしてとらえるならば(そして、「政治的なモノ」に決してつながらないような「レズビアンアイデンティティ」を考えるのは難しいだろうと、私は思う)、「私はレズビアンなのよ」と夫に宣言する主人公の選択は、つきつめていけば、天安門で血を流した抑圧とは、対立するものにならざるを得ないだろう。少なくともこの映画においては、「ホンコンにおいてレズビアンであること」は、「レズビアンであること」と同じくらい、「ホンコンに住んでいるということ」の問題であるということ、この二つが必ずしも相互に全く関係のない問題ではなく、むしろ複雑に絡み合っていて、「レズビアンであること」だけをそのまま幸福に享受していればすむわけではないらしいことが、示されているのではないだろうか。
最初にも書いたとおり、こういう「読み方」がどの程度的を射たものであるのかは、私には全くわからない。けれども、いずれにせよ、いろいろと考えるきっかけになる、面白い映画だとは思う。映画祭の運営の大変さから言って無理なのだろうとは思うのだけれども、この映画とあわせて、ホンコンの文脈についてちょっと話が聞けたりとか、そういう企画があったら、もっと面白かったなあ。関西の方でも上映されるようなので、機会のある方、おすすめでございます。あ、勿論、女優さんがとても綺麗だし、以下略、というのもありますよん。

*1:まあ、恋愛至上主義というのはそれ自体そもそもポリティカルなステートメントだったのだろうけれども、それはそれとして

*2:別れる直接原因が天安門事件ということではないのだけれども、恋人達の気持ちの動きを追う上で、この映画は、天安門事件を一つの山場として提示していると言ってよいと思う

*3:ホンコンのレベルで主人公がどのくらいの経済階層に位置するのか私には分からないけれども、自宅マンションの様子からしても、それほど大金持ちではないが充分に豊かな生活をしているように見える。少なくとも東京でぴぃぴぃやってる私からすると。