良い妄想、悪い妄想(再録)

ひさしぶりにネット上をうろうろしていたら、やおい・ふたけっと系のサイトについて、とても興味深い議論が交わされていた。その話題自体は、「やおい系」というのは(おそらく)分野的にわたくしの専門であるはずのところにかなりかぶってくるテーマなのだけれども、不明にして殆どリサーチも考察もしていないので(そしてその割にかなりinflammableなトピックだし)とりあえず今は口を閉じておくとして。(などと書いてほうっておいたら、既に話はちょっと他へと動いてしまっていたのだけれども、まあ、以下はそこでの議論に直接関係があるわけではないので、そのままアップしちゃいます)


その議論を読んでいてちょっと思い出したこと。というより、常にアタマのどこかに引っかかっていることなのだけれども。


クイア・スタディーズのゼミで、「性の商品化」はありやなしや(って何だか大上段ね)というテーマでのディスカッションがあった時のこと。きわめて少人数のゼミで、参加者はわたしと、自分のアイデンティティは「クィア」だと言うダイクな学生と、そしてやはりダイクのイタリア人の哲学教授、という3人だけだった。


ポルノ規制反対論などをちらちらと教わり、旧パット・カリフィア(彼の昔の著作に言及するときは、パットでよいのだろうか、それともパトリック?ここら辺の基本的な決まりが分からないのだけれども<駄目じゃん)の著作をちらりと眺め、レズビアンフェミニズムとSMダイクの軋轢などについて説明を聞いたりして、さらについでにルービンの「性を考える」あたりも振り返りながら性的なものの規制にまつわる論理的・政治的あやうさなどをいっそう印象付けられたりして、さて、では、性的なファンタジー(妄想ってことですかね)を「政治的な正しさ」によって判断(judge)できるだろうか、すべきだろうか、という議論になった。


だいたい英米のクイア・スタディーズにおいては、ポルノ規制だの、「正しいセックスと正しくないセックスとの区別」だのというのは、余り人気がない。


もちろんそこには、少しでも明白な同性愛表象が片端から「ポルノ」と分類されて規制されたという歴史への認識と、そのような形での同性愛差別に対する危機感があり、「異常性愛」と分類されてきた同性愛が「異常」ではないとして、それではそれ以外の「異常性愛」を簡単に「異常」と区分することは正しいのか、という反省があり、そもそも人間の性的欲望は再生産欲望とは殆ど関係がなく、その意味ですべて「逸脱」したものであって、その中で「異常」と「正常」とに論理的根拠のある境界線を引くことは不可能だ、という考察がある。


さらに、たとえばレズビアンフェミニズムが「対等な女性同士の対等な関係」に強調をおくあまり、SMだのブッチ・フェムだのといった、ある種の差異をエロチシズムの源泉とするような関係に対して、時に抑圧的であった、という歴史もあったりする。


したがって、クィアを自認するクラスメートが、「どのようなセックス、あるいは性的なファンタジーであろうと、それを望まない相手に直接に強要するのでない限りは、もちろん規制されるべきではないし、<正しくないファンタジー>としてjudgeされるべきでもない」という意見を述べたのは、ある意味自然なことだった。


とはいえ、性的なファンタジーを「持つこと」はともかく、その表象については、やはり望ましくないものをそれとしてjudegeする(あるいは批判する) という作業も必要だろう(「規制」はまた別の問題になってくるので、ここでは触れない)。たとえば、英米レズビアン・ポルノにおいては、二人の女性の間に視覚的な差異をつくりだして欲望を喚起しやすくするために、一人を有色人種一人を「白人」として、それぞれにステレオタイプに基づく役割を与える、ということがしばしば行われていたらしくて、それに対してちゃんと批判がされていたりする。


けれど、ここで批判されるのは、あくまでも、欲望を引き起こすためのお手軽な装置として人種的なステレオタイプを再生産し、その政治的・文化的な弊害を考慮しない安易さである。たとえば金髪碧眼のお姫様を王子様から奪うというファンタジーを抱く黒い肌のブッチがいたとしても、あるいはそういうブッチに奪われたいというファンタジーを持つ金髪碧眼のお姫様フェムがいたとしても、そのファンタジーそれ自体、あるいはそのようなファンタジーを持つ当人が、非難されるわけでは、ない。


少なくとも、私はそう考えたのだった。そしてそれは基本的には今も変わってはいない。ファンタジーそれ自体を良いファンタジーと悪いファンタジーに分けることは、理論的にはとても難しいし、実際問題としても、いつ我が身が「悪いファンタジーの持ち主」側に分類されるかわかったものではないという状態は、避けておきたいわけだし。


ただ、その授業で、担当の教授が言ったことを忘れることができない。


彼女は、SMにまつわる二つの例を、あげた。ひとつは、ナチス強制収容所における看守と女性収容者という役割を再現するプレイ。もうひとつは、黒人奴隷と白人所有者という役割を再現するプレイ。


プレイの参加者が自由意志でプレイを行い、それを楽しんでいたとしたら。そして、そのファンタジーが、あくまでもその場に居合わせる参加者内部で表現されており、映像や小説などの形で社会に還元され、影響を及ぼすものではないとしたら。


「それでも、このようなプレイをjudgeするべきではないと言い切ることは、私にはできない」彼女は、そう言った。


もちろん、それはそういうファンタジーを違法化すべきであるとか、規制すべきであるとかということではない。あるいは、そういうファンタジーを持つ人を差別したり社会的に糾弾すべきだということでも、ない。そうではないのだけれども、他者の痛みをその源にするような性的快楽を(SMプレイにおけるボトムではなく、そのファンタジーを可能にした歴史的な他者の痛みのことだけれど)、「ファンタジーの自由」なり「性的欲望の自由」という形で安易に承認して事足れりとするのは、やはり違うのではないか、彼女はそう言ったのだった。


歴史的な痛みを演劇的に再演することの、政治的なあるいは個人的な、さまざまな可能性をめぐる議論を、彼女はもちろん知っていた。国家や社会やコミュニティが、女性のあるいはレズビアンセクシュアリティを「正しいもの/良いもの」と「正しくないもの/良くないもの」に振り分けて管理することの不当さを、はっきりと糾弾する人でもあった。そもそも他者の痛みと一切関係もない欲望など存在するのか、欲望やファンタジーを「取り締まり」「糾弾する」ことなく、しかもその正当性を判断するとはどういうことなのか、その答えの持ち合わせは自分にはない、とも言った。


それにもかかわらず、「ファンタジーはファンタジーである限りあらゆる批判から免除されると無批判に考えてしまう傾向を、私は危惧している」、セクシュアリティについて学び始めた大学院生を前にして、苦いコーヒーをすすり、顔をしかめて適切な英単語をさがしながらそう言った彼女の言葉を、私は今でも時々思い出す。私にももちろん答えはないんですけれど。