誤配/誤解されたメッセージに対する、宛先のない御礼

文体においても、知見においても、視点においても、分析の手つきにおいても、とてもとても好きで、とてもとても楽しみに拝読していたブログが、閉鎖になりました。かなり以前に一度だけここにコメントを頂いたことがあるものの、わたくしが先方にコメントを残したことは一度もなく、その後もただ黙々と拝読していただけですので、書き手の方が今でもこちらのブログを訪れて下さっているとは思えません。それを承知の上で、一言だけ、出し損ねて明らかに時機を逸した上に宛先をそもそも失くしてしまっておそらく届くことのないファンレターの、その名残というか、申し上げそびれた御礼を二つ。何がなんだかさっぱりだわよ!という方には、あらかじめお詫びを申し上げます。

まず一つ、閉鎖にいたった過程について、わたくしは完全な門外漢なので良くわかりません。けれども、当該のエントリおよびそこで指し示されていた先を拝読して、わたくしが強く受け取ったのは、ブログという形態をめぐる議論でもなく、ましてや特定の個人への批判でもなく、もしかしたらそれらとどこかで結びついているかもしれず、それらへの言及なくして描き出すのが困難だったのかもしれない、けれどもそれらに回収されるものではないような、一つの社会におけるホモソーシャルな構造に対する苛立ち、のようなものでした。
繰り返しますが、わたくしは当該のエントリで扱われていた事柄については完全な門外漢ですので、その苛立ちをその形で(あるいはその素材で)表現することが妥当であったのかどうかという点については、全く判断することができません。ただ、わたくしには、その特定の素材以前から存在していたその苛立ちがたまたまその素材の分析を通じて表現されたように、読めました。言うまでもなく、そのような形で素材を利用することの問題点は、常にあります。それでも、非常に露骨に、しかし批判がくればそれを厚顔無恥にしかも狡猾にかわしてしまうような形で(狡猾にかわすというより、正当な批判であってもそれを鼻で笑える力があるという方が正しいですけれども)成立しているホモソーシャルな関係を前に消耗することの多い社会にあって、わたくしは当該のエントリに、苛立ちそれ自体と、ふにゃふにゃしてどうにも押さえがたい目の前のそれをどうにかどこかの時点でとめつけてみせようとする意思とを読み(もちろんそれ自体が誤読かもしれませんが)、その点で勝手な共感を寄せ、勝手に力強く感じていました。実際の分析手続きの妥当性の評価とは別にその点における共感と心強さとは(それが誤読に基づくものであったとしても)わたくしにうけ渡されたのであり、それを受け取ったというわたくしにとっての事実は変わることがありません。

それから、もう一つ。これまた完全な誤解に基づいている可能性が高いのですけれども、これとは別の短いエントリ(「やさしく、やさしく」)で述べられていたことを、わたくしは先月のわたくしのブログにおける一連の意見交換の後、非常につらい気持ちで拝読しました。あの意見交換の時にいただいた様々な御批判や御意見の中に、「あなたが議論の中のどこかの時点で、<教師であること>を引き受けてしまったのが、そもそも間違いであり、誠実でなかったのだ」というものがありました。とても的確な批判だという直感はあるものの、それではその批判にどう応えるべきなのか、わたくしにはまだわかりません。ただ、その批判に通じる何かを、わたくしはその短いエントリから読みとったように思います。実際のエントリで想定されていた宛先は違っていたかもしれず、これは完全な誤配なのかもしれません。けれども再び、誤配であったとしても、そのエントリはわたくしのところに届いてしまったのであり、つらいけれども適確なご批判をいただいたと思っています。

その二つの誤配/誤解されたメッセージに対して、今更ではありますが、御礼を申し上げます。それらが誤配/誤解されたメッセージである可能性のゆえに直接御礼をお送りすることができなかったことを言い訳として申し添え、同時に、こうやって宛先のないままに送り出した御礼がもしかすると誤配を経由していつかどこかであなたに届くかもしれないことをかすかに願いつつ。

またどこかで拝読できる機会があればとても嬉しいです。