母は子を殺さない

ものすごくベタフェミな話で恐縮なのですが。
秋田の児童殺害事件の、とくにテレビ報道、今更と言えば今更なのだけれども、ひどく疲労。わたくしこの事件に格段の興味があったというわけでもなく、昨日の朝のニュースショー、ワイドショーでいきなりどかんと大騒ぎになってはじめて、あ〜そうなの、前からこの人が容疑者だと思われていたのね、などと知った程度なので、ここにいたるまでの報道がどうであったのか、全く記憶にないのだけれども、というよりもしかするとそれだからなのかもしないけれど、最初本当に驚いてしまった。最初に亡くなった子供の母親が容疑者だって!驚愕!ということではなくて、その報道の余りの無軌道ぶりに。
どこのニュースショーもワイドショーも「子供を亡くした親がなぜ!衝撃!」という方向性で足並みをそろえて進んでいるようで、そこまではなんとなくこういう番組の方向性として分かる。勿論、子供をなくした親だったら他の子供を殺すことなんて出来ないというのはただの思い込みに過ぎず、というより過去の文学を横目で眺めるだけでも「私の夫にはお前の夫を、私の妻にはお前の妻を、私の子にはお前の子を」的な復讐ドラマオンパレードだったりするわけなのだけれども、まあそれはそれとして、そもそもショック要素を作り出すことで成立しているう番組でこういう方向が採用されることそれ自体は、驚きでも何でもない。
驚いたのは、各局そろって「この母親はそもそも自分の子供の面倒を見ていないんだ!母親失格の母親なんだ!」という点を、ちょっと異常なくらいに強調していたこと。
昨日の朝の段階では死体遺棄容疑だったのだけれども、関連報道で繰り返し流されていたのが、「容疑者は自分の子供に出来合いの食事やカップめんを食べさせていた」的な話。あのね、そりゃカップめん<ばかり>を食べさせる保護者はどうなのかという問題はありますよ、確かに。けれどもそれが死体遺棄と一体全体どういう関係があるというのか。それすらきちんと与えていないということがもしあったとしても、それは育児放棄なり何なりで子供の周囲にいるほかの人々が問題にすればいいことで、今回の事件とは何の関係もない。
さらにすごいのは「毎日部屋に掃除機をかけるというわけでもなかった」「家の中が散らかりがちだった」みたいな話をさも恐ろしいことのように放送し続けていたことで、まあ何ておそろしいの!毎日掃除もしないお母さんなんて!人非人だわ!死体遺棄とかしちゃうのも当然よ!紙一重の差なのよ!
そして、それに続けて「自分の子供が亡くなって悲嘆にくれるという名演技に、私たち報道陣もすっかり騙されました」的なコメント。
ええと。
子供にカップめん食べさせたり毎日家の掃除をしなかったり自分の都合で子供を家から閉め出したりする(という報道もあったのでそれを信じるとして)母親であれば、その子供が亡くなっても悲嘆にくれることはないと?たとえひどいネグレクトがあったとしても、その子供が亡くなったら悲嘆にくれるかもしれないとわたくしは思うのだけれども。あるいはネグレクトがあったからこそ、子供が亡くなってみて激しい後悔と悲痛に襲われるということだってあるかもしれないわけで。
その場合に、「今更悲しんでも遅いのよ」という批判というのはあり得るけれども、明らかにそういう報道ではなかったと思う。「悲嘆そのものが演技」という断定があったように思うのだ。
「悲嘆にくれていれば他の子供の遺体を捨てたりできない」というのかもしれないけれども、それこそ全く無根拠な思いこみであって、悲嘆にくれすぎて判断がおかしくなっていたという推論も成立するだろうし、悲嘆にくれすぎて他の子供の遺体も自分の子供の遺体と同じ目にあわなければ気がすまなかったのだという推論も成立するだろうし、悲嘆にくれすぎて他の子供の遺体が自分の子供の遺体と同じように遺棄された形で発見されれば自分の子供の死の重みが増すだろうと考えたのだという推論すら成立するだろう。
どうやら各テレビ局としては「自分の子供も保険金だか何だか目当てで殺したのでは」という疑惑をさりげなく伝えたいようで(確証のある話ではないらしくて、どの局もはっきりそうは言わない。でもしつこくしつこくそれをほのめかし続けるので、嫌でもそういう疑惑がありますよんというメッセージは伝わる)、実際にまだ報道はできないのだけれどもそういう疑惑がささやかれていて、報道できる状態になったときにそこにつながりやすいストーリーをつくっておこうということなのかもしれないとは思う*1
けれどもその場合でもそこにあるのは、「母親が自分の子供を殺したとすれば、その同じ母が殺された子供の死をめぐって悲嘆にくれるわけがない」という思い込みであり、それは「ネグレクトがあったとすれば、子供が死んだとしても母親が悲嘆にくれるわけがない」という思い込みと、つながっている。
その背景にあるのは、「何があっても子供の命を守り、毎日ちゃんとした食事も与えて家事もきちんとするという形で子供を愛することのできる、理想的なよい母親」だけが、子供をうしなったときに悲しみにくれる資格を持っている(従ってそういう母親でなければ子供をうしなっても悲しみにくれるわけがない)、という発想ではないのだろうか。そしてそれはつまり、そういう特定の母親像に当てはまらないような母親はそもそも(悲嘆にくれる資格をもった)母親として認めない、というメッセージではないのか。
まさかとは思うけれども、わたくしは「子供の命なんて守らなくてもいいし、ネグレクトなんてあったっていいじゃないか」と言っているわけでは、勿論、ない。それにまた、どういう母親だって子供が亡くなれば悲しいに決まっている、と言いたいわけでもない。子供を亡くすという同じ経験をしても、悲嘆の度合いなんて個人により状況により違うのが当たり前で、場合によっては子供をうしなったってさして悲しくもなかったという母親がいたっておかしくはないだろう。
そうではなくて、わたくしが気になるのは、「子供の命を守る母親=ネグレクトをしない母親=毎日きちんと食事をつくる母親=毎日掃除機をかける母親=子供をうしなって悲嘆にくれる母親=<母親>」という奇妙な等式が、テレビ報道の中で強引に前提とされ再生産されているという点であり、その等式の一つの項が欠ける可能性があるとしたらそれ以外の項も全て消去しておかないと気がすまないらしい報道のあり方であり、そのような報道が、その等式の全ての項を満たさなければ最後の項を満たすことも許されない(つまり、その等式の全ての項をみたさなければ<母>としては認めない)というメッセージを発しているかもしれないということなのだ。
母は子を殺さない。子を殺す母は母ではないのだから。
母は常にあらゆる面で「理想的」な母だ。そうではない母は母ではないのだから。

*1:どれだけ疑惑がささやかれいたとしても確証もないのにほのめかすだけって本当にどうなのかとは思うが、とりあえずそこには踏み込まない