ハーレクイン・ロマンスと男性性の困難(ネタばれあります)

好きになるとは思わなかった、好きになっちゃいけない男と、恋に落ちた。何が何だかわからないままに、欲情した。あれはただの間違いだったと思い込もうとして、他の人と結婚もした。子どももできた。
でも、思い切れなかった。他の誰かではダメ、あの人じゃないと。人目を忍んで逢引を続けた。結婚生活は息が詰まるようで、愛を感じない相手に思いやりなんてもてるはずもなく、結局離婚になって子どもも取られてしまった。あの人は自分も妻と子どもを捨てるから一緒になりたいと言ってくれたけれど、好きになってはいけない相手、世間に知られたら命だって危ない。あの人の期待に応えられるわけがない。あの人との逢瀬を楽しみに、好きでもない恋人でもつくってさびしさを紛らわしながら生きていくしかないと思っていた。
それなのに、あの人は突然死んでしまった。私を置いて。でも、もうあの人はどこにも行かない。永遠に私と一緒。今はじめて言える。心から愛している。これが私のあの人への、永遠の、愛。

ブロークバック・マウンテン』、見てきました。
上の基本ラインが好きな人は、『ブロークバック・マウンテン』が好きなのではないかと思う。殆どハーレクイン並みにベタなロマンス。『ブロークバック』では「私」と「あの人」が60年代から80年代のアメリカの片田舎で生きる男同士だが、同じ土地同じ時期(あるいはちょっと前かな)で、「私」が白人女、「あの人」が黒人男でも基本ラインは成立するだろうし、時代と場所によっては、「私」と「あの人」との国が、宗教が、身分が違う、あるいは「私」と「あの人」の双方が既婚であるというだけでも、成立するだろう。
誤解しないで欲しいのだけれども、ベタなロマンスがいけないと言うわけでは、勿論、ない。ベタなロマンスが必ず質の低いものだとも、思わない。ただ、欲情に発するベタなロマンスというのは、多分人を選ぶのだ。で、わたくしは、この手のロマンスはちょっと苦手だ。『タイタニック』で退屈し、『イングリッシュ・ペイシェント』がわからなかったわたくしは、同じ理由で『ブロークバック・マウンテン』にあまり心を動かされなかった。
それなりのリアリティはあるのだろうと思う。
60年代から80年代にかけてのアメリカといえば、60年代後半のストーンウォールを機にゲイ・リブがそれなりに強くなっていった時代であり、映画では80年代のエイズ・パニックによるゲイ・バッシングはまだ影を落としていないようで、ここまで必死なクローゼット・ライフを送らなくてもよさそうな印象もあるけれども、片田舎で、しかもホモフォビアとカウボーイ系マスキュリニティを既にがっつりと内面化してしまっている男たちにとっては、そんな「解放へ向かう時代」が別世界の出来事だったとしても、不思議ではないのかもしれない(ここら辺の事情をわたくしはきちんとは知らないのだけれども、都市部と農村部でかなり状態が違った可能性は十分にあると思う)。
ただ、そういう事情があったとしても、主人公(の一人というべきかも知れないけれども)のイニスに共感できるかと言うと、これはちょっと難しい。キャラクターには十分リアリティがあり、イニスの行動の一つ一つがどこから来るのかはそれなりに分かるのだけれども、「どうしようもないわね、このオトコ」という気持ちは、残る。
そもそも、イニスの妻に対する態度がいちいち気に食わない。これ以上子どもができたら養えないからセックスをするならコンドームを付けて、と言われて、「俺の子どもが欲しくないならお前とはもうやらない」とキレたり。自分の仕事自分の仕事(ってどれだけの仕事だよ、と段々いらいらしてくるのだけれど)とゴネまくって、子どもの世話の当番を投げ出したり。離婚後に恋人であるジャックとの浮気を妻に指摘されて、暴力行為に訴えたり。
ジャックに対する態度も、とても不愉快なものだ。自分からは会いに行かない。相手が遠路はるばる会いに来ても自分の都合ばかり言って、「ありがとう」「申し訳ない」の一言もない。一緒に人生を送りたいというジャックの希望に耳を貸すことすらできない癖に、ジャックがメキシコで男娼を買ったと聞かされると、嫉妬で逆上する。
挙句の果てに、死ぬ直前のジャックが他の男性との人生設計を考えていたことをジャックの親に聞かされても、それは完璧に黙殺して、持ち帰った形見に向かって「I swear. . .」とつぶやく。今さら何を誓うのよ、君は!死んでしまって、もううるさいことも言わず、一緒にいることを他人に見られる危険もなく、他の男と浮気することもなくなった恋人に対して、これからはずっと一緒にいるよと誓ったとしても、そんなもの、死体収集に過ぎない。イニスはかなわぬ恋を心に抱いて好きなだけ悲しんで生きていけば良いとして、そんな生き方をしたくなかった恋人はどうなるのよ、ってことだ。
確かにイニスはとても不幸でとても苦しんでいるのだけれど、自分の不幸に妻や恋人を巻き込んで、とりあえず自分の置かれた状況の中では常に自分の好きなように振舞っている。それでいてあくまでも、あんたに何が分かるの!私が一番苦しいのよ!と言わんばかりの不機嫌さを振りまき続ける。寡黙なマッチョ・カウボーイではあるけれども、こと自分の不幸への対処という点においては、たいしたドラマ・クィーンなのだ。
これは、『ブロークバック・マウンテン』がどうしようもない映画だ、ということではない。むしろ、イニスがここまで好感の持てないマッチョ・ドラマ・クィーン・カウボーイであるということがこの映画のポイントだと考えるべきだ。
イニスを苦しめ、そしてイニスをして彼の恋人や妻を苦しめさせているのは、彼の内面化されたホモフォビアだ。彼はそのせいでジャックが死ぬまで自分がジャックに抱く欲望なり愛情なりを十分に認めることができないし、クローゼットである以外の選択肢が存在しうるかもしれないと考えてみることもできない。そして、彼のそのホモフォビアと、殆どステレオティピカルとも言えるような彼の男性性とを、この映画はイニスという一人のキャラクターの中に、あくまでも切り離しえないものとして描き出してみせる。
山中に野宿することを厭わず、野生の動物を銃で射止めて生き抜く彼のタフネスは、ひとたびシーンが変われば、自らの思いも願いも封じ込め、何らかのきっかけでその悲しみと怒りとを暴力的に爆発させかねない男の、押し殺されたフラストレーションへと変容していく。寡黙で朴訥なオトコらしさは、恋人の願いにも妻の怒りにもまともに直面できない閉ざされた不機嫌さにつながり、そして何よりも、大自然の中で支えあったマルボロ風カウボーイ相互の絆に強烈に惹きつけられるマスキュリニティこそが、その絆の中から生まれた欲望と愛情とを、隔離され理想化されたブロークバック・マウンテンというクローゼットに押し込めていく。
そのようなホモフォビックなマスキュリニティをがっちり体現しているイニスは、苦しんでいる存在ではあるけれども、従って、好感の持てる人物ではありようがない。「本当は良い人」「ゲイとかカウボーイとか言う前に一人の人間」であるイニスが、たまたまマルボロカウボーイ風のマスキュリニティを帯び、たまたまブロークバック・マウンテンで他のカウボーイに惹かれ、たまたまホモフォビックであったわけではない。イニスのマルボロカウボーイ風マスキュリニティと、ブロークバック・マウンテンで出会ったジャックとの間に生まれた絆と、ホモフォビアとは、全てイニスという人間を構成する重要な要素であり、彼を規定し、同時に彼を苦しめるホモフォビックな男性性規範それ自体を肯定するのでなければ、彼を好感の持てる人物として描くことは、そもそもできない。
さらに、そのような男性性規範を体現しているイニスは、同時にそれだからこそ、どうしようもなく自己中心的なドラマ・クィーンになってしまう。スーパー・マッチョなオトコは、この映画のベタなロマンス物語という枠組みにおいては、妻の苦しみにも恋人の悲しみにも対処できず、自らのフラストレーションだけを見つめて当り散らす、子どものような甘やかされたわがままオトコにならざるを得ないのだ。それはとりもなおさず、アメリカ的男性性の一つの理想が、アメリカ文化が繰り返し理想化してきたような「愛」と矛盾せざるを得ない、ということでもある。
逆に言えば、『ブロークバック・マウンテン』がアメリカの規範的マスキュリニティを逆なでするとすれば、それは単に「ゲイのカウボーイを描いたから」だけではなく、同情や共感はできるかもしれないとしても好感は持ちにくいイニスというキャラクターを通じて、アメリカン・マスキュリニティの理想形の一つを、うんざりするほど自縛的かつ利己的、未成熟で、全くもって好ましくないものとして、描いてしまったからではないかと思える。
勿論、そのようなホモフォビックなマスキュリニティを体現するイニスというキャラクターに対して、だからこそ同情や共感を覚える、という反応はありえるだろう。それはイニスがすき好んで身につけようとしたものではなく、そのようなマスキュリニティのみを許容する社会の中で彼が獲得せざるを得なかったものであり、彼はそれによって明らかに苦しんでいるのだから。しかしそれでも、あるいはそれだからこそ、その苦しみを生み出すマスキュリニティの形態それ自体が同情や共感を引き起こすべきものとして描かれているとは、わたくしには思えない*1
少なくともわたくしにとって、『ブロークバック・マウンテン』は「ゲイのカウボーイの映画」「ゲイの純愛映画」であるというよりは(ましてや「ゲイかどうかではなく、人間の愛についての映画だ」などというよりは)*2、ある特定のマスキュリニティの困難についての映画であり、とりわけそのマスキュリニティの、ロマンスという文脈における機能不全ぶりについての映画だと思える。
私たちがこの映画を見て涙を流すとしたら(私は流さなかったけれど)、それはイニスとジャックの間に純粋な愛が存在するからではなく、イニスにとってのマスキュリニティの困難が余りにも強力だからであり、その呪縛がイニスにとってもジャックにとってもイニスの妻にとっても余りにも不当だからではないだろうか。
同性愛を描いた映画なら他にもいくらでもあるし、『ブロークバック・マウンテン』がその中で格別に優れているとも感動的だとも革新的だとも思えない。この映画に特別興味深いところがあるとしたら、それは、ゲイ・リブが殆ど届かないアメリカの片田舎というシーン設定と、そして何よりも、「汚されていないアメリカ」の場であるはずのそのようなシーンにおいてアメリカン・マスキュリニティの一つの理想形を同性を愛するキャラクターに体現させ、さらにそれを自己に対しても他者に対しても抑圧的に機能する残酷なものとして示した点にあるだろう。そしてその点では、『ブロークバック・マウンテン』は、確かに見る価値のある映画なのだ。

*1:特定の形態の欲望を生み出すことはあるだろうけれども

*2:そもそも、ジャックはともかくイニスはセクシュアリティ自認としては「ゲイ」ではないように思える