東京レズビアン&ゲイパレード名称に関する議論メモ

なんだかもう話の筋道自体があちらを叩きこちらを叩き返しと広がりすぎてしまってわけがわからず、しかもどうやら個人的な知己である方々同士のお話になっているようなので、パレード関連については基本的にこのエントリを最後にする<へたれなので。*1
ただ、一連のやり取りにおいては、1.パレードのあり方と名称についての話(原則論および戦略論)、2.パレードについて語る人間のとるべきスタンスの話、そして3.ひびの氏という個人に対する評価、という大きくわけて三つの論点が混在しており、これを一度整理するべきではないのか。「パレードはこうであって欲しい/あるべきだ」、「現実問題としてパレードはどうありうるのか」という議論、「パレードについて評価/批判/議論することの出来るのは誰か」という議論、そして「ひびの氏のアクティビズムの原則・方法論」についての議論。もちろん実際の議論上においてはそれぞれを完全に独立させて語るのは難しいかもしれないけれど、耳を傾けるべき問題提起なり現状認識なりというものがあっても、あるいは逆に明らかに問題のある発言なり批判なりがあっても、それが埋没してしまう、あるいは一つの論点から別の論点へと流れてしまっているようなので、とりあえずいったん切り離して考えてみる価値はあると思う。
わたくしとしては「本当はこうした議論の場に、もっと頭脳明晰で主張に説得力や包容力のあるようなバイセクシャル[ゲイ]側の論者が現れて、この混迷した状況を一つ一つほぐし、建設的な対話の場へ持っていくような主導権を発揮してくれればいい、と思って*2」いたのだけれども、なかなかそうも行かないようなので、とりあえずわたくしなりに論点を整理し、自分の考えをメモしておきたい。なお、「バイセクシュアル」をめぐる問題というのは勿論あるのだけれども、今回のパレード名称に関しては、バイセクシュアルをトランスジェンダー/セクシュアル、アセクシュアルなどと分けて考える必用はないと考えるので、以下は特にバイセクシュアルを念頭においた議論ではない。
まず、

3.「アクティビストとしてのひびの氏個人に対する評価」について。

  • 前のエントリでも述べたとおり、わたくしはこれについては十分な知識も経験もなく、したがって議論に参加することはできない。しかし、パレード名称に関する今回のひびの氏提案に対して批判がよせられた最大の理由がここにあるとすれば、それによって提案そのものが否定されたり軽視されたりするのは残念だし、提案者がひびの氏でなかったとしたらパレード名称についてのスタンスが変わるのかどうか、批判者の方々の考えを伺ってみたいと思う。

その上で。

1.パレードのあり方と名称について。

1-a. 原則論。

  • これは「パレード」とは何かと言う個々人の定義に大きく左右される部分だが、わたくしは、パレードとは政治的なアピールの場であると同時に、普段だったら数人とか数十人とかでしか集まれない(あるいは完全に孤立している)ジェンダーセクシュアリティという点での「ハズレもん」が数百人規模で集まり、一時的なものであれ現在の異性愛規範の中で多様性を認め合える場を実際につくりだす、「お祭り」でもある、と考えている。だからパレードにおける主張は多様であってよいし(特に主張を掲げるわけではない人がいてもそれはそれで良い)、あえて「パレードとしての」主張があるとすれば、ジェンダーセクシュアリティをめぐるアイデンティティ・生活形態・表現(服装とかそういうことね)の多様性が存在しているのだというまさしくそのことであると思う。その点で、パレードは特定の政治的要請をかかげるデモとは性格を異にする。
  • ここで「パレードにおける多様性を主張するのであればジェンダーセクシュアリティに限らずあらゆる社会的な権力配分の軸を考慮し、あらゆるマイノリティにとってのパレードにするしかないだろう」という議論があるようだが、わたくしはこれには賛成しない。「マイノリティについて考察する」あるいは実際に「社会的な運動をする」場合に、多様な軸に沿った権力関係に目を配っていく必要があるのは言うまでもないし、それらの軸が互いに密接に関連しているのも事実である。しかし、異性愛主義にもとづくジェンダーセクシュアリティの規範からはずれるという意味でのマイノリティは、その当事者同士が既に相互に何らかの関係を持っている(バイセクシュアル女性とレズビアン女性が同じ交友グループなり団体なりに属している、というようなこと)場合や、そもそも当事者として重なっている(トランスジェンダーでありレズビアンである、というようなこと)場合も多く、この規範への異議申し立てという点においてまとまろうという呼びかけには一定の妥当性があり、当事者のエンパワメントや異なる立場にある当事者同士の相互理解という観点からも、あるいは非当事者へのデモストレーションという観点からも、この形でまとまったパレードを行うことには一定の具体的な効果が望めると考える*3
  • したがって、パレードはそもそも特定のアイデンティティ保持者のためのお祭りあるいは権利要求運動であるという考え方、そこから導き出される、特定のアイデンティティ保持者以外は来るな、あるいは来てもいいがあくまで対等ではない、あるいは自分たちで自分たちのパレードをやれ、という主張には、わたくしは原則として賛成できない。むしろ、上で述べたような「パレード」と「特定の目的を持つ政治的行動」との違いという観点から、存在の多様性の主張にこそ「パレード」特有の価値があるとわたくしは考える*4。特定の政治的要請をかかげたデモではなくあえて「パレード」を行うのであれば、非規範的なジェンダーセクシュアリティ当事者の参加者は可能な限り多様で多数であることが、パレードの趣旨と効果の双方の点からみて望ましいのではないかと思う。同時に、「ジェンダーセクシュアリティにおけるマイノリティ」の内部には当然のことながら活用できる人的・資金的なリソースにおける差異が存在しており、「こっちはこっちでやるからそっちはそっちでどうぞ」という公然の主張は、その差異に対する自覚を欠いているように思われる。こちらはこちらで手一杯なのだからリソースの少ないマイノリティのことまで考えさせられるのは真っ平だという主張もあるだろうが、それではたった一握りの同性愛者のために婚姻に関する法律を改正する手間隙や金などかけられるかとか、女性に対する抑圧がこれだけあるのだからフェミニストは同性愛者の権利など考えているべきではないとか言うのと同じことで、原則論としては、わたくしにはとても賛同できない。
  • そしてもし「ジェンダーセクシュアリティをめぐるアイデンティティや生活形態、表現などの多様性」を主張するものとしてのパレードという前提に立つのであれば、最低限でも既にその場にいることが明らかな参加者たちが原則として対等にその存在を承認されなければ、パレードの主張を自らが実践において覆すことになり、趣旨と効果の双方の点からみて問題があるだろうとわたくしは考える。
  • さて、TLGP2005のサイトにおいては「”みんな”でパレード」というフレーズが掲げられており、また代表の砂川氏も大筋では上述したのと変わらない形でパレードの趣旨を理解しているように思える。冗長になるが、ひびの氏のサイトに掲載されたメールより引用する。

さまざまなアイデンティティを持っている人を包括できる名前で開催できればと思う気持ちは私にもあります。(中略)
これが、ある種の強者の論理であることも認識しています。ですから、この名前に問題がないとは考えていませんし、常に議論を続けていく必要があるだろうと考えています。
現在、パレードには、他の「セクシュアルマイノリティ」に関心を持たなかったというゲイがたくさんボランティアスタッフとして来ます。そのボランティアスタッフに対して、他の「セクシュアルマイノリティ」についての話をする機会を持っています。パレードは、そういうことについて考える良いきっかけになっていると思います。そのようにして、他の「セクシュアルマイノリティ」への理解が広がる中で、現在この運動の中心的担い手となっているゲイからも、「名前を考え直そう」という考えが出てくることがあるかもしれません。
また、他の「セクシュアルマイノリティ」の人たちの運動がより活発になり、様々な運動の担い手となっていく中で、一緒に新しい名前のパレードを検討しましょう、ということになることも今後あるかもしれません。そのような双方の変化が生まれてくれば、必然的に名前は変更されることになるはずです。

  • 「原則論としては」主催者側としては、ゲイ・レズビアンに限らず他の「セクシュアルマイノリティ」を含むものとしてパレードを考えているということができるだろう。逆に言えば、「TLGPとはゲイ・レズビアンという特定のアイデンティティ保持者の場である」という姿勢は、少なくとも主催者側が公式に採用しているものではない、ということである。もちろん、あくまでもパレードに参加しつつ「いや、これはゲイ・レズビアンのパレードであるべきだ」という主張を続けることも可能であり、これはひびの氏の主張と方向性は逆であっても、パレードに参加しつつそれに異議を唱えるという点においては同様のスタンスであるだろう。あるいはそんな中途半端なことは嫌いだから「同性愛者のための政治的デモ行進」を別に組織するぞというのも可能である。わたくしは前者の主張には賛同できないが、後者のような政治的行動は現実に必要な場合もあると考えている。
  • 上記のようなパレード定義に従うならば、「(異性愛主義に基づくジェンダーセクシュアリティの規範にもかかわらず)我々の存在は多様であるという主張」の場であるパレードの名称は、なるべく広く多様な存在に平等に言及できる(あるいはそれを平等に含意する)ものであれば、その方が原則としてはより望ましいだろう。上で引用した砂川氏の発言もその線に沿ったものだと考えることができる。

1-b. 戦略論

  • 上記のような「原則論」を共有するとしても、現実的なパレードの組織と実行に際してはそう簡単には行かないので、現実に即した戦略が必要なのだという議論があり、これはとりわけ主催者の砂川氏からのメールに明確に書かれている。以下、順を追ってみていきたい。
  • 継続性とメディア・アピールの問題。2000〜2002年のパレードとの継続性を出すために同様の名称を採用するということであり、「ゲイ・レズビアン」という簡潔にして分かりやすい名称が望ましいという点と並んで、メディア・アピールを意識せざるを得ないということだろう。TLGBTQAIPではやはり分かりにくいし長すぎるというのは一理あるとわたくしも思うし、名称をいきなり変更しておいて「これは今年はじまったものではないのですよ」ということを一般メディアに浸透させるのは不可能ではないにせよ、ただでさえぎりぎりの労力をそこにまわすことの妥当性を考える必要はあるだろう。しかし同時に、TLGPという名称でのパレードの中断にはそれなりの理由もあるようだし*5、ここで名称を変更して出直すという手もあること、「レインボーマーチ」の名称で一定の認識を得ているパレードもあるということ、さらにはTLGPの名称を「継続性」と「わかりやすさ」のために使用することでそれが「継続性とわかりやすさのために」固定化する可能性が常にあることなども、考えなくてはならない。
  • ゲイ・レズビアンそれ自体の不可視性の問題。ゲイやレズビアン自身の可視性が十分ではない現状にあって*6、たとえば「プライド」「レインボー」「クィア」などの名称を採用することで個々のアイデンティティやその直面する問題が主張しきれないだろうということで、これも一面において正当な懸念であろう。実際にたとえば「クィア」という用語の氾濫に対する批判はこの用語の発生した英米クィア・ポリティクスや研究の内部からもあがってきており、ましてや「クィア」が英語圏におけるほどのインパクトを持たない日本では(口当たりのよい「レインボー」や「プライド」は言うに及ばず)、アイデンティティ・タームを使用することでいやおうなく生じるある種の政治性がこれらの用語の使用において抹消される危険を過小評価すべきではない。ゲイよりもさらに不可視であるレズビアンにとっては、アイデンティティ・タームの正当な主張の場を確保することは、一層重要である。しかし同時に、「パレード」というものの性質を考えたときに、そのような場でさえ可視化されないアイデンティティの存在をどうするのかという問題も、見過ごすわけにはいかないだろう。
  • パレードを担う主体の問題。パレードを主体的に担える集団は圧倒的にゲイ男性であり、実際の運営への参加は少ないものの、より少ない程度においてレズビアンもまたこのような集団的主体性を持つとみなしうるということなのだが、これについてはわたくしは主催者側の論理に誤りがあると思う。ここではゲイ・レズビアンには集団的主体性が成立しているがそれ以外の「セクシュアルマイノリティ」においてはそれがいまだ成立していないという含意があるように思われるのだが、集団を構成する人数や運営への参加可能性をもってゲイ男性には集団的主体性があるがバイセクシュアルやトランスジェンダー/セクシュアル、アセクシュアルなどにはないと考えることはできない、というのが一つ*7。これは「主体性」という言葉の問題で、「パレードの運営主体」と「主体性」とが混同されているに過ぎないとは思うが、この混同は用語として放置するべきではないと思うので、指摘しておく。また、「東京の」レズビアンに「集団的主体性」を見出すとすれば、「ラブリス」であれ「アニース」であれ、あるいはLOUDであれ、クラブイベントであれ、そこでは非常に多くの場合、そして非常に早くから、「レズビアンバイセクシュアル女性」あるいは「セクシュアルマイノリティの女性」という視点が導入されていたことを忘れるわけにはいかないだろうというのが、一つ*8。さらに、次の項目にもかかわることだが、砂川氏のメールに見られるように「パレードを主体的に担える」ということを「パレードに人的・経済的資源を投資できる」ということだと解釈するのであれば、現在の日本の社会構造が大きく変わらない限り、パレード主体的に担える集団は圧倒的にゲイ男性であり続けるだろうという点が、一つ。そもそも「ゲイ男性」は「レズビアンをはじめとするセクシュアル・マイノリティ女性」とくらべれば構造的には経済的資源に余裕があると考えられるし、経済的資源に余裕があれば人的資源の投入もしやすい。あるいは、性別適合手術を考えたりホルモンの摂取をしたりしているトランスジェンダー/セクシュアルであれば、時間的・経済的制約は大きくなると考えるのが自然だろう。TLGPの名称を存続する理由としてこの点を挙げることは、TLGPの名称を変更するつもりがないと宣言するに等しい。これは「主体」の問題ではなく純粋に資源の問題であり、そこに「主体性」という用語を持ち込むことは、「ゲイ男性以外の個々人が主体的にかかわろうとしないからいけないのだ」という誤った理解を誘発しかねず、注意しなくてはならない。
  • そして、パレードの成功を可能にする人的・経済的資源の問題。パレードを支える人的・経済的資源を投入できるのが、圧倒的にゲイであり、この層に強く訴えかけなければパレードそのものの成立がおぼつかないということ。つまり、例えば「LGBTQAパレード」あるいは「レインボーパレード」と名称を変更した場合、ゲイ男性に属する人的・経済的資源が確保できないだろうと主催者側は判断したということで、この判断の妥当性を判断することは、わたくしには出来ない。「ゲイ」が特権的に名称に入っていなければ参加を見合わせるほどにゲイ男性が狭量だとは思えなかったのだが、一連の議論を追っていると、もしかするとその点を非常に重視する人々の数が意外に多いのかもしれないという気もしてきている。主催者側のこの判断が正しいとすると、実際にパレードを支えているゲイ男性の資源が引き上げられてしまってパレードが立ち行かなくなってしまったら元も子もないという懸念は当然のことだし、現状がその通りであるならばTLGPの名称を存続せざるを得ないだろう。実際、TLGPの名称を維持する理由として砂川氏があげた中では、この点がもっとも強力であり、反駁のしようがないものだと、わたくしは思う。
  • そしてこの場合、なすべきことは現在のTLGPの主催者だけに働きかけることではなく、ましてや主催者を批判することでもなく、TLGPを主体的に支えている(つまり、実際に直接人的・経済的資源を投入している)ゲイ男性達、あるいはゲイ男性の組織に働きかけることになるだろう。自分は多くの時間なり労力なり金銭なりを注ぎ込んだのだからそれなりの特典なり優先的地位なりを得てしかるべきだという心情は、正しいものではないかもしれないが理解できるものだし、TGLPに人的・経済的資源を提供しているゲイ男性達がTGLPの名称を維持することにその特典を用いることを望んでいるのだとすれば、その要望が正しいか否かは別にして、とるべき道は限られてくる。
  • 一つは、彼らに語りかけるなり彼らを説得するなり彼らの機嫌をとるなりして、人的・経済的資源の投入に偏りがある(つまり実際に直接これらの資源を投入している人間の圧倒的多数がゲイ男性である)状態であっても、パレードはこれらの資源を直接投入している人間だけではなく、それができない人間(GLBTAIQを問わず)のためのものでもあり、パレードをそのようなものにしていくことが結局は彼ら自身にとっても望ましいことである、と理解してもらう方向。このためには、パレードの性格が特定の政治的要望を掲げるデモとは違うこと、できるだけ多様なジェンダーセクシュアリティを持つ人間ができるだけ多数集まることが、異性愛規範の社会に対するアピールとしても、個々人のエンパワメントやサポートに結びつく「コミュニティ」をつくりあげていく上でも、より望ましいということなどが、相互に了解されなくてはならない。さらに、経済的資源を直接に投入しうるメディアやバー・クラブなどの顧客として間接的に経済的資源を投入しているゲイ男性との間にも同じ了解を生み出さなくてはならないし、ゲイ男性を顧客とする企業がこの了解に基づいて行動するように、彼らに消費行動を通じて働きかけてもらわなくてはならないだろう。ただし、少なくとも今回の議論の流れを追う限りでは、議論を通じてそのような相互了解にいたるのは困難であり議論以外の方法を考える必要があるように、わたくしには思える。
  • もう一つは、実際にパレードに人的・経済的資源を投入するという方向。これについては、構造的には比較的経済的・人的資源を投入しやすいバイセクシュアル・アセクシュアル男性はともかく(ただし、このいずれかに当てはまる人の総数がどのくらいになるのかが分からないので、その人数がゲイ男性とくらべて非常に少ない場合、ゲイ男性と同様の人的・経済的資源を提供するのはやはり著しく難しいだろう)、構造的に経済的・人的なゆとりの少ない「セクシュアル・マイノリティ」女性やトランスジェンダー/セクシュアルが集団としてゲイ男性と同様の資源を提供することが可能かどうか、可能だとしてもその負担が過重にならないか、などの問題が残る。負担が過剰であったり同等の資源提供が不可能である場合、これらの層がパレードを「主体的に支える」モチベーションはいっそう下がるだろうし、そのような悪循環はパレードの分断(あるいはゲイ男性以外の参加者の漸減)という、余り望ましくない結果につながる可能性があるだろう。
  • 結局、この両者を少しずつ融合し、パレードの分裂や参加者の漸減はパレードとしても望ましくないこと、従って各アイデンティティ集団(というものが考えられるとして)を資本提供の多寡にかかわらず原則として平等に扱っていくのが望ましいことを了解事項としてつくりだす努力をしつつ、反面で可能な人が可能な限りで各人の人的・経済的資源を、しかも「レズビアン・ゲイ以外の<セクシュアルマイノリティ>である」とゲイ男性に理解される形で、提供していくという、非常にありきたりの方向を採るしかないのではなかろうか*9。直接に人的・経済的資源を投入しているわけではない多数のゲイ男性参加者に対して、ゲイ男性以外の「セクシュアルマイノリティ」にはそのような気楽でしかも対等な形での参加が当面は認められないという点、そもそもTLGPと銘打っているパレードを対等でない状況で支えはじめなくてはならないという点など、原則論としては問題が多いとわたくしは考えるけれども、「パレード」を求めるのであれば*10、現在あるパレードを望ましいものへと変えていくためにそれらの問題点に目をつぶる*11というのは、「マイノリティ」*12の戦略としてはありえるのではないか*13
  • もちろん、これは「マイノリティの戦略としては、あり」ということであって、そのような状態を正当化するものではないし、ましてや「マイノリティ」側が「目をつぶる」ことを要請される筋合いのものでもない。あくまでも「パレードを続ける」ことを第一の目的とする場合の(そしてそれがプライオリティでなくなる可能性は常にあるだろうけれど)、納得のいかない現実に対する対処法の一つに過ぎない。「参加しているのだから納得しているのだろう」と言った「目をつぶらざるを得ない状況であるという認識」に対する驚くべき無知も一度であれば素朴な無知ですまされることだけれど、それを繰り返して公言するのは無恥というものだ。

2.誰がパレードについて語れるのか

  • これは上記1.ほどに重要ではない話なので、短く。ひびの氏に対する批判で目に付くのは、パレードやその名称そのものについて「何が望ましい/可能なのか」という点よりもむしろ、「誰が発言をする権利を持つのか」という点に焦点をあてたものの多さである。その批判は一言で言えば「自分がパレードの運営にたずさわるでもなく、パレードを立ちあげるわけでもない人間が、パレードについて発言をする権利があるのか」というものであると思う。で、これまた端的に言って、わたくしは「ある」と考えている。そして、わたくしは「誰が語る権利を持つのか」というのは戦略の問題ではないと考えるので、これは、戦略論ではなく原則論である。
  • もちろん、自分がパレードをたちあげるわけでも運営に携わるわけでもなければ、最終決定権は自分にはない。これをまず確認しておきたい。さらに、「パレードについて批判をすること」と、「パレードを妨害すること」、「パレード主催者や参加者に嫌がらせをすること」、「パレード主催者の労力への敬意を払わないこと」などとは、明らかに同じではない。また、少なくともわたくしの理解では*14、「パレード」とはそもそも個人的な同好の集いではなく、広くおおやけに参加者を募った、多分に公的な性格を持つものである。
  • 従って、そのような「パレード」についての批判は、個人への批判や中傷とはそもそも性格を異にするし*15、主催者に対する妨害や嫌がらせでもない。公の場で敬意を払ってかわされるやり取りであれば、パレード主催者には批判を鵜呑みにしたり要請に唯々諾々と従ったりせずに自らが最適と考える結論を下す権利と責務がある反面、批判の妥当性について、あるいはそれに対する主催者の応答の妥当性については、主催者・批判者・そして周囲が個々に判断を下せば良いのであって、「外部から来ている」という理由で批判それ自体をあらかじめ押さえ込むことには何らの正当性も見出せない。さらに今回の場合、「内部の人間」を「パレードの運営に携わる人間」に限ってしまうと、パレードは「内部の人間」より圧倒的に数の多い「部外者」である「参加者」によって成立し、盛り立てられ、支えられているということになり、このような「部外者」はすでに「部外者」」とは呼べないだろう。
  • また、「運営や立ち上げに携わっていない人間が口を出すな」という考え方は、個々人の物理的・精神的な事情によって(あるいは上で指摘したような構造的な問題によって)直接的な貢献のできない参加者の発言権を、あらかじめ封じる効果を持つ*16。「今回のパレードだけに限定せず、今まで何をしてきたのか」という問いで発言権の有無をふるい分けようとする行為もこれと基本的には同様である。わたくしはできるだけ多様な人間ができるだけたくさん集まることにパレードの意義を見出すので、パレード運営や「コミュニティ」への貢献の蓄積の有無を根拠として「発言/批判すること」それ自体を批判することには原則としても賛同できないし、そもそもそのようにして従来「内部」に属していなかった立場からの発言をあらかじめ封じてしまっては、パレードの継続的な成功をかえって妨げることになるのではないかと思う*17
  • もちろん、「後から口を出すのは簡単であり、後出しじゃんけんのようなものだ」という意見には一定の正当性がある。結果をみて「あのほうが良い、これが問題だ」というのは非常に簡単なことだし、それをもって「この程度の結果しか出せないあなたよりもわたくしの方が偉い/賢い/正しい」などと言い始めるとすれば、それは「後出しじゃんけんだ」「それなら自分でやってみろ」という批判を免れない。けれども、パレードのような公的な催しに対して批判や要望を出す、あるいはそれについて議論するという作業は、「じゃんけん」のような勝負事ではない。「後から」だからこそ実感として提出される批判なり要望なりもあるのだし、振り返って議論するからこそ見える問題もあるはずで、「後から」の議論や批判は、勝ち負けを競うためではなくそれらを検討して次に続けるために行うものだとわたくしは考えている。
  • ところで、公式にパレード代表を名乗って発言している砂川氏は、「運営にたずさわっていない」ひびの氏の批判に対して、批判した事実を批判して黙殺するのではなく、批判内容についての回答を寄せている。これを、パレード主催者の「公式な」態度と受け取ってよいのだと今のところ理解しているのだが、砂川氏以外による「運営や立ち上げにたずさわっていない人間が発言をするな」という趣旨の発言に関しては、パレード主催者/運営者の「非公式な(あるいは個人としての)」態度と受け止めるべきなのだろうか。「パレード代表としての」砂川氏の公式な発言とは全くことなるスタンスでパレードについての批判にこたえているこれらの発言は、もちろん全て主催者/運営者の方々によるものなのであろうけれど、これは「パレードの主催者/運営者としての」公式な発言ではないということで理解しても良いのだろうか。

以上、「パレードをめぐるひびの氏の批判についての議論」について(ややこしいなあ)、わたくしの現状での理解をメモしておく。あくまで「メモ」であって最終的な結論ではないので、ご批判なりご解説なりいただけると勉強になって個人的にはとても有難い。各ポイントに関するわたくしの意見はこういう感じ。

  • 3.ひびの氏のアクティビストとしてのあり方:現時点では口を挟む予定はない。
  • 2.誰がパレードについて語れるのか:パレードについて議論する権利のある人間とない人間を「パレード自体」あるいは「コミュニティ(というものはないという話もあったので、この言葉を使うべきかどうかわからないが)」における貢献度を基準により分ける主張には賛同できないし、そもそも議論の中身(パレードはどうあるべきか/どうあり得るか/そのためには何ができるのか)に話を絞る方が生産的だと考える。
  • 1.パレードはどうあるべきか/どうあり得るか:ジェンダーセクシュアリティをめぐる多様性の存在の主張と、そしてそのような多様な「当事者」にとっての相互理解とエンパワメントとの場であるべきで、従って名称についてもそのような多様性をなるべく幅広く対等な立場で抱合するものであることが望ましいと考える。ただし、現状においては、議論を通じてこれを現実化するのは難しそうだとも認識している。パレードに参加しない、他のパレードを立ち上げるなどの方向よりは、実現したパレードに働きかけることで理想的な形に近づけていく方向が良いだろうとは思うが、これについては、比較的のぞましくしかも効果的であるような働きかけ方を具体的に想像することができていない。

*1:ただしご批判・ご指摘に応じて、内容を随時変更することはありえます

*2:引用はこちら、コメント#16より。一部引用者による変更

*3:言い方を変えると、ここには「一定の妥当性しかない」ということであり、従って論理的には拡大可能である。しかしながら、実際問題としては「なんらかの点においてマイノリティである/そのような人を支える、あらゆる人のパレード」を実行することは難しい(そもそもそこまで漠然としてしまうとほぼ全ての人が「当事者」となるだろうから、そのような状態で「パレード」が成立するかどうか疑わしい)ので、「どこで線を引くのが妥当か」という判断になる。その際、「ジェンダーセクシュアリティをめぐる規範」という軸を取るということは、本文中に記述した理由により、効果という点からも、対象集団の重なり合いという点からも、妥当であろうとわたくしは考える

*4:言うまでもないことだが、これは個々人が特定のアイデンティティを持つことを否定するものではないし、特定の目的を持つ政治的行動において、あるいは特定の目的を持つプライベートな集まりにおいて、あるいは特定の需要を念頭においた商品において、アイデンティティに基づく参加者の設定をすべきではないというものでもない(ただし、その場合でも、たとえば「フェミニズム運動」に「男性」が加わるべきか否かといった論争に見られるように、参加者設定の基準に疑問が投げかけられる可能性は常にあるだろう)。ここでの議論は、あくまでも「パレード」という特有の場を念頭においたものである

*5:この部分については、takashiさんより、2003/2004のパレード中断は、2002年パレードでの問題とは無関係な、人的・経済的資源の不足が理由である、との指摘をいただいたので、訂正する。ご指摘ありがとうございますわたくしは国外にいたので2002年パレードで何があったのか、直接に見聞きしてはいません

*6:これは非当事者からみての不可視性と、当事者相互の不可視性、すなわち「コミュニティ」と呼べるものが十分に成熟した形で成立していないということと、その双方を指すと思われる

*7:これらの「セクシュアル・マイノリティ」に「集団的主体性」があると主張しているのではない。そもそも「集団的主体性」というものがわたくしには余り良く理解できないので、どなたかに解説をお願いできれば嬉しい

*8:実際に、「運営への参加は少ない」にもかかわらず東京の「レズビアンは集団的主体性を持つ」として、そこから「レズビアン以外のセクシュアルマイノリティ女性」を排除するのは、「東京のレズビアンの集団的主体性」を考えるやり方としては非常に恣意的であり、「レズビアンセクシュアルマイノリティ女性&ゲイパレード」という名称によってそこにある非対象性が強調されることを嫌ったのではないかと疑いたくもなる

*9:ただ、それがどれだけ効果的なのかについては、余り楽観視できない気がするのだが

*10:そして「とりあえずパレードがある」ことに間違いなく意義はあるとわたくしは思う

*11:メールを読む限りでは、砂川氏はパレード運営者としてパレードにおける「マジョリティ」の内側からこの方向を採ろうとしているように思える

*12:この用語の使用には異論もあるようだが、砂川氏がメールで述べている判断が正しいとするならば、やはり「パレード」をめぐる力関係において、ゲイ男性は「マジョリティ」でありそれ以外は「マイノリティ」であると考えることができるように思う

*13:わたくしは、とりあえず「直接に人的・経済的資源を投入」することはできません。あ、でも、LOUDにお願いすることはできますね。じゃ、それをやりましょう。消費者としてLPCにはお金を払っているので、間接的にはちょっとだけ経済的資源も投入していることになるかしら。「ゲイ男性への」働きかけにはならないかもしれないけれど。で、人的資源を投入してボランティアをするとかは個人的に無理なので(もうすでに家にいる一人の面倒見るので手一杯)、せめて来年はメッセージボードなりを持って参加します。外国籍パートナーの滞在権の要求。あ、BTQAIの問題からずれるでしょうか。それと、動員にちょっとでも貢献できるように、来年は学生にももう少し強めに呼びかけます。名称問題も話した上で自分達で考えてもらいましょう<でも夏休み中ってちょっと厳しい

*14:そしてそれはひびの氏の問題提起に丁寧に返答をした砂川氏の「公的な」姿勢にもあらわれていることだと思うのだけれど

*15:もちろん、個人的な同好の集いであっても公的で正当な批判の対象になることはあり得るが、パレードへの批判はそれとも性質の違うものであるとわたくしは考えている

*16:この批判は直接的にはひびの氏に向けられたものであるけれど、従来「内部」に属していない立場からの発言を牽制する効果を持つとわたくしは思う

*17:各批判/の発言をどう受け止めるか、あるいは受け止めないかという段階では、各個人がそのような貢献の蓄積の有無や質を考慮に入れることは勿論ありえるだろう