欲望をさばく

ちょっと前になるけれども、id:font-daさんのエントリ「欲望は禁止できない、しかし…」と、そこで言及されている東浩紀氏による「児童ポルノの単純所持禁止問題」を読んで、少しひっかかっている事を。東氏の主張に多少違和感があって、font-daさんの主張に少し重なるところがあるように思っていますが、ちょっと自分でもまだ感覚レベルなので、多少頭の整理をかねて。


実際の児童ポルノの規制について、わたくしは、その制作・販売の過程において、児童あるいは制作にかかわる個人の搾取がいっさい行われていないという前提が成立するとすれば、確かにそのようなポルノの単純所持を法的に禁止することを正当化することはできないだろうと思っている(そのような前提が成立するのかどうかは、また別の問題である)。その意味では、以下の東氏の見解の前半部と、ちょっと近い。

上記の論理で行くと、(1)制作時に児童虐待と無関係であり、(2)合法的に(つまりそれぞれの国の猥褻条項に抵触せずに)制作・販売され、(3) そのことが周知徹底されているので購入や鑑賞行為が虐待の支援になるとは(前述の強力効果説を使うことなしには)どうやっても言えない、そんな児童ポルノが存在するのであれば、それは制作しても消費してもまったく問題ない、という話になるのではないだろうか?(「児童ポルノの単純所持禁止問題」)


わたくしが違和感を感じるのは、最後の部分である。そのような児童ポルノの制作や消費が法的に禁止されないということと、それが「まったく問題ない」ということとは、必ずしも同じではないのではなかろうか。もちろん、これが「法的に」まったく問題ないということに限定されるのだとしたら、それはそれで良いのだろうけれども、しかしここで「法的に」という一語が落ちた状態で「まったく問題ない」という表現がされていることには、それなりの理由があるのではないかと思える。


そしてそれは、「欲望はさばけない」「禁止できない」という、繰り返し出てくる東氏の主張とかかわっているように思う。


欲望は禁止できない。これは当然である。もちろん、ここで「欲望の禁止」というのは欲望それ自体の禁止ではなく、特定の欲望のあり方に対する禁止ということだとは思うのだが、それでも、「欲望を禁止すること」はできない。正確には、欲望の特定のあり方を禁止することはできるかもしれないが、その禁止を完全にあまねく行き渡らせること(つまり、誰一人として禁止された欲望を抱かないようにするということ)は、ほぼ不可能だ。


誰がどのような欲望を抱いているのか、少なくとも現在のわたくしたちはそれを正確に言い当てることはできないから、そもそも技術的に考えて、特定の欲望それ自体に対する法的な禁止は、実効力を持たないだろう。加えて、同性愛にせよ小児性愛にせよ、具体的な個人における特定の欲望のあり方を禁止すること、つまり、矯正や懲罰を通じて実際に特定の欲望を放棄させようとする試みが、歴史的には総じて失敗してきたことは、ある程度共有された理解だと言って良いだろう。さらに厄介なことに、特定の欲望の形態を禁止することが、しばしばまさしくその禁止された欲望への欲望を生み出すことも、わたくしたちは知っている。


禁止できるのは、特定の欲望を特定の行為におきかえ、特定の形で表現する時の、その行為や表現だけだ。そして、それはなんと言うか、ものすごく当たり前の事だ。ある意味、性と欲望にかかわる議論において「欲望は禁止できない」「欲望そのものは犯罪ではない」というのは、もう何十年も言われて続けている前提を確認しているに過ぎないし、その意味では特に何も言っていないに等しい。*1


逆に言えば、「欲望は禁止できない」「欲望そのものは犯罪ではない」というところを前提として、「だから、どうなのか」こそを問うのでなければ、議論の意味は非常に限定されたものになる。


「だから、どうなのか」という問いから、特定の欲望を特定の行為にうつし/特定の形で表現する時、それらの行為や表現を法的に禁じることが正しいのか正しくないのか、一つ一つの具体的事例について考える、という方向性にすすむということは、あるだろう。


あるいはまた、特定の欲望を特定の行為に置き換えることが犯罪であるとした場合に、その欲望をそれとは別の行為に置き換える可能性を探る、あるいはその欲望を少なくともその特定の行為に置き換えない方法を探る、という方向もありうるだろう。font-daさんが主張しているのは、まさにその点ではないかと思う。

私はその立場にあるのならば、次の責務があると考える。それは「欲望を行為に移さないシステムを考える」という責務である。相手を傷つける欲望を持っていても、その欲望をコントロールする方法が必要である。その方法を、いかに習得できるのか、という問題は、今、まったく解かれていない。欲望を肯定し、行為と切り離す以上、いかに切り離せるのかにも言及する必要があると考えている。(「欲望は禁止できない、しかし…」)


そしてそれらと同時に、そもそも欲望の特定のあり方を裁くべきかどうか、どのような理由において裁くべきであり裁くべきでないのか、どのような根拠で裁くのか、それ自体を考えるという方向性も、簡単に捨て去るべきではない。つまり、「欲望は裁けない」というのが本当に動かせない原則なのかを、考えるべきではないのだろうか。*2


東氏の議論においては、「欲望は禁止できない/欲望は犯罪ではない」と「欲望を裁けない」とがあたかも入れ替え可能なように語られるうち、法的に欲望を「禁止」できないという言明が、いかなる形においても欲望を「裁く」ことはできないしそうすべきでもないという言明へと横滑りをしているように、わたくしには感じられる。法的に欲望を禁止できないとしたら、欲望を裁くことはできず、いかなる欲望も批判抜きでそのまま肯定するしかないのだ、と。だからこそ東氏は主張するのだ。欲望が禁止できないとすれば、そして欲望の特定の表現への置き換えの過程に一切の問題がないと仮定できれば、その欲望の享受には「全く問題がない」ことになるだろう、と。特定の欲望のあり方に対する判断や批判の可能性は、ここでは追求されることがない。


けれども、欲望を法的に禁止できない/犯罪化できないということと、特定の欲望のあり方を「裁く/判断する」、あるいはそれを批判することが不可能だということとは、違うだろう。特定の欲望のあり方が全く法的に禁止できない(するべきではない)としても、その欲望のあり方を「裁くべきではない」かどうか、その欲望を「まったく問題ない」として肯定すべきかどうかは、それとはまた別に考えるべきものなのではないか。もちろん、考えた上で、やはり「裁くべきではない」「まったく問題ない」という結論に達することはありうるだろうけれども。


わたくしたちの抱く欲望のあり方は、わたくしたちの生きている社会と文化とそして権力の関係との中で、それらに影響されそれらを利用してかたちづくられている。そして、わたくしたちの抱く欲望のあり方は、わたくしたちの生きている社会と文化とそして権力の関係とを確認したり強化したりあるいはそれに揺さぶりをかけたりする可能性を、持っている。だからこそその複雑さとその力とに敬意を払うべきだし、「欲望を裁くことはできない」といってあらゆる欲望のあり方を簡単に肯定して終わりにする議論はその敬意を欠きかねないように、わたくしには思える。


関連して、以前別のところで書いたエントリを、こちらにもアップしておきます。まったく同じことを扱っているわけではないですけれども、かぶる部分もあるので。文体が少し違うのですけれども、4年近く前のエントリなので、気がつかなかったふりをしてくださいませ。

良い妄想、悪い妄想

[追記]

まさか誤解される方もいらっしゃらないとは思いますが、少し不安になったので、追記です。
わたくしが上で書いたことは、あらゆる欲望のあり方にあてはまる話であって、小児性愛だけを取り立ててその正当性を再考すべきだ、というようなものではありません。たとえば特定のタイプの女性/男性を欲望するような異性愛の一つのあり方があるとして、その欲望が何に左右され、何を糧とし、何を要請するものなのか、それはそれで当然考えていかなくてはならない。「ポルノ」というジャンルについては、むしろそちらの必要性がより大きいと言うべきかもしれません。

*1:もちろん、「にもかかわらず」それを言い続けなくてはいけないという具体的な状況があること、とりわけポルノや小児性愛に関してはあたかも欲望の存在そのものが犯罪であり、取り締まらなくてはならない(取り締まることができる)ものであるかのような主張が往々にして見られる事もまた、腹立たしいことに、事実ではある。

*2:とりわけ人文学の人間がそれをしなくてどうするのか、という気持ちもちょっとあったりします

良い妄想、悪い妄想(再録)

ひさしぶりにネット上をうろうろしていたら、やおい・ふたけっと系のサイトについて、とても興味深い議論が交わされていた。その話題自体は、「やおい系」というのは(おそらく)分野的にわたくしの専門であるはずのところにかなりかぶってくるテーマなのだけれども、不明にして殆どリサーチも考察もしていないので(そしてその割にかなりinflammableなトピックだし)とりあえず今は口を閉じておくとして。(などと書いてほうっておいたら、既に話はちょっと他へと動いてしまっていたのだけれども、まあ、以下はそこでの議論に直接関係があるわけではないので、そのままアップしちゃいます)


その議論を読んでいてちょっと思い出したこと。というより、常にアタマのどこかに引っかかっていることなのだけれども。


クイア・スタディーズのゼミで、「性の商品化」はありやなしや(って何だか大上段ね)というテーマでのディスカッションがあった時のこと。きわめて少人数のゼミで、参加者はわたしと、自分のアイデンティティは「クィア」だと言うダイクな学生と、そしてやはりダイクのイタリア人の哲学教授、という3人だけだった。


ポルノ規制反対論などをちらちらと教わり、旧パット・カリフィア(彼の昔の著作に言及するときは、パットでよいのだろうか、それともパトリック?ここら辺の基本的な決まりが分からないのだけれども<駄目じゃん)の著作をちらりと眺め、レズビアンフェミニズムとSMダイクの軋轢などについて説明を聞いたりして、さらについでにルービンの「性を考える」あたりも振り返りながら性的なものの規制にまつわる論理的・政治的あやうさなどをいっそう印象付けられたりして、さて、では、性的なファンタジー(妄想ってことですかね)を「政治的な正しさ」によって判断(judge)できるだろうか、すべきだろうか、という議論になった。


だいたい英米のクイア・スタディーズにおいては、ポルノ規制だの、「正しいセックスと正しくないセックスとの区別」だのというのは、余り人気がない。


もちろんそこには、少しでも明白な同性愛表象が片端から「ポルノ」と分類されて規制されたという歴史への認識と、そのような形での同性愛差別に対する危機感があり、「異常性愛」と分類されてきた同性愛が「異常」ではないとして、それではそれ以外の「異常性愛」を簡単に「異常」と区分することは正しいのか、という反省があり、そもそも人間の性的欲望は再生産欲望とは殆ど関係がなく、その意味ですべて「逸脱」したものであって、その中で「異常」と「正常」とに論理的根拠のある境界線を引くことは不可能だ、という考察がある。


さらに、たとえばレズビアンフェミニズムが「対等な女性同士の対等な関係」に強調をおくあまり、SMだのブッチ・フェムだのといった、ある種の差異をエロチシズムの源泉とするような関係に対して、時に抑圧的であった、という歴史もあったりする。


したがって、クィアを自認するクラスメートが、「どのようなセックス、あるいは性的なファンタジーであろうと、それを望まない相手に直接に強要するのでない限りは、もちろん規制されるべきではないし、<正しくないファンタジー>としてjudgeされるべきでもない」という意見を述べたのは、ある意味自然なことだった。


とはいえ、性的なファンタジーを「持つこと」はともかく、その表象については、やはり望ましくないものをそれとしてjudegeする(あるいは批判する) という作業も必要だろう(「規制」はまた別の問題になってくるので、ここでは触れない)。たとえば、英米レズビアン・ポルノにおいては、二人の女性の間に視覚的な差異をつくりだして欲望を喚起しやすくするために、一人を有色人種一人を「白人」として、それぞれにステレオタイプに基づく役割を与える、ということがしばしば行われていたらしくて、それに対してちゃんと批判がされていたりする。


けれど、ここで批判されるのは、あくまでも、欲望を引き起こすためのお手軽な装置として人種的なステレオタイプを再生産し、その政治的・文化的な弊害を考慮しない安易さである。たとえば金髪碧眼のお姫様を王子様から奪うというファンタジーを抱く黒い肌のブッチがいたとしても、あるいはそういうブッチに奪われたいというファンタジーを持つ金髪碧眼のお姫様フェムがいたとしても、そのファンタジーそれ自体、あるいはそのようなファンタジーを持つ当人が、非難されるわけでは、ない。


少なくとも、私はそう考えたのだった。そしてそれは基本的には今も変わってはいない。ファンタジーそれ自体を良いファンタジーと悪いファンタジーに分けることは、理論的にはとても難しいし、実際問題としても、いつ我が身が「悪いファンタジーの持ち主」側に分類されるかわかったものではないという状態は、避けておきたいわけだし。


ただ、その授業で、担当の教授が言ったことを忘れることができない。


彼女は、SMにまつわる二つの例を、あげた。ひとつは、ナチス強制収容所における看守と女性収容者という役割を再現するプレイ。もうひとつは、黒人奴隷と白人所有者という役割を再現するプレイ。


プレイの参加者が自由意志でプレイを行い、それを楽しんでいたとしたら。そして、そのファンタジーが、あくまでもその場に居合わせる参加者内部で表現されており、映像や小説などの形で社会に還元され、影響を及ぼすものではないとしたら。


「それでも、このようなプレイをjudgeするべきではないと言い切ることは、私にはできない」彼女は、そう言った。


もちろん、それはそういうファンタジーを違法化すべきであるとか、規制すべきであるとかということではない。あるいは、そういうファンタジーを持つ人を差別したり社会的に糾弾すべきだということでも、ない。そうではないのだけれども、他者の痛みをその源にするような性的快楽を(SMプレイにおけるボトムではなく、そのファンタジーを可能にした歴史的な他者の痛みのことだけれど)、「ファンタジーの自由」なり「性的欲望の自由」という形で安易に承認して事足れりとするのは、やはり違うのではないか、彼女はそう言ったのだった。


歴史的な痛みを演劇的に再演することの、政治的なあるいは個人的な、さまざまな可能性をめぐる議論を、彼女はもちろん知っていた。国家や社会やコミュニティが、女性のあるいはレズビアンセクシュアリティを「正しいもの/良いもの」と「正しくないもの/良くないもの」に振り分けて管理することの不当さを、はっきりと糾弾する人でもあった。そもそも他者の痛みと一切関係もない欲望など存在するのか、欲望やファンタジーを「取り締まり」「糾弾する」ことなく、しかもその正当性を判断するとはどういうことなのか、その答えの持ち合わせは自分にはない、とも言った。


それにもかかわらず、「ファンタジーはファンタジーである限りあらゆる批判から免除されると無批判に考えてしまう傾向を、私は危惧している」、セクシュアリティについて学び始めた大学院生を前にして、苦いコーヒーをすすり、顔をしかめて適切な英単語をさがしながらそう言った彼女の言葉を、私は今でも時々思い出す。私にももちろん答えはないんですけれど。