併置してみると
新・新木場事件について、Sumposionより:
私は、この事件を始めて知ったとき、「またか!」と思った。「またこのような事件が起こったのか!それも6年前の新木場事件と同じ場所、同じような加害者の社会的特性、同じような犯行理由で。いったい、私たちはこの6年間何をしてきたのだろうか?ゲイコミュニティは、セクシュアル・マイノリティーズの活動は、いったい日本社会の何を変えてきたのだろうか?」と問わざるを得なかった。
ニューヨークで起きたゲイ・バッシングについてBig Queer Blogより:
My head is swirling with anger, frustration, sadness and pain. I'm trying to reconcile all of this this with the fact that yesterday was National Coming Out Day [. . .] that we continue to think and act as if we are much safer and freer than we are, and wonder what it will take for things to change.
批判の対象が前者はゲイ・コミュニティそのものに向いているという点で両者は決定的に違うのだけれども、そしてそれを併置してどうしたいのか自分でもまだ良くわからないのだけれども。
ゲイ・フレンズがいることがオシャレ女子の必須要件になるかのような表象すら生み出してきたニューヨーク。ホモフォビアについての授業をすれば「<ホモの方たち(ママ)>がテレビにあれだけ出ているのだから、日本にはホモ差別(ママ)はないと思います」と書いてくる学生が必ずいる東京。
砂の中に頭を突っ込んで、さすがに今はもう安全になっているはずだ、と思いこもうとしていることの、怖さ。隣のやつが砂から頭を出しちゃったからこちらまで巻き添えを食ってせっかく見ないふりをしていた危険に気がついちゃったじゃないか、と憤慨することの、愚かさ。
まだまだそこに危険があるじゃないか、隣のやつを責めてもそもそもの危険は減らないじゃないか、と批判するのは、比較的やさしい。説得するのは、それとくらべて、はるかに難しい。さて。<全くまとまらないまま放置