バンコクバンコクその2:初日基調講演、発表など

今回の第一回アジアクィア学会、本当にアジア各地から人が集まって、合計600人近い出席者がいたそうだ。第一回ということもあってなのか、全体にお祭りムードも満載だし、それなりに熱気に包まれていて(いや、バンコクだからってことじゃなくてよ)、クィア学会ロゴの入った袋を提げてクィア学会ロゴの入ったネームカードを首からぶらさげた人々がホテルにあふれかえっているのは、それだけで楽しい。今回の学会のオーガナイザーはAPQというオーストラリア系の研究者団体なのだけれども、これだけの人を集めての大規模な学会を実際に立ち上げたのは、やっぱりすごいことだし、有難いことでもある。人もお金も良く集まったよなあ(特にお金)。*1
オープニングセッションもお祝いムードに包まれ、いざ開会。
初日はちらちらとあちこちのセッションを覗いて、出たり入ったりをしていたのだが、残念だったのは、Gay Japanというパネルと、ホンコンや台湾での女性関係のパネルとが重なってしまったことで、日本のパネルを一応チェックしなくてはと思ってそちらに出たのだけれども、今になってみるとやっぱり「女性パネル」の方に行けばよかったかなあ。勿体ないことをした。これは学会を通しての反省で、「日本」についての/「日本」をめぐる研究動向に個人的にちょっと不安を抱いていたので、「日本系パネル」をチェックしてまわることになってしまったのだけれど、テーマ系で興味のあるところをフォローした方が生産的だったような気がする。これは学会のオーガナイズの問題ともかかわってくるところなのでまた後で詳しく書くつもりではいるのだけれど、自分が批判している相手の術中にはまっちゃったというのか(苦笑)。
一日を通して一番印象に残ったのは*2、やはりなんといっても初日最後のJosephine Hoによる基調講演、"Is Global Governance Bad for Asian Queers?"。
基本的には政府に金を出させれば口も出されるという話と、NGO、NPOといった、「政府」ではない「市民」の団体による監視体制に対する警戒の呼びかけ、みたいなことで、とりわけ驚くような新しいことを言っているわけではないのだけれども、基調講演にふさわしいアジっぷりで、わたくしはちょっとしびれました。とくに、「政府の抑圧」という明らかな形ではなくpeople's powerという形での監視体制の強化への抵抗というくだりは、日本でもクルーシャルな問題になってきていることでもあり、日本のクィアスタディーズとしても真剣に考えていかなくてはならないことだろうと思う。Hoはこの問題をとりわけペドフィリアやインターネットの「有害」コンテンツ規制とのかかわりにおいて論じていて、「子供を守ろう」という呼びかけの産み出すある意味「普遍的な」共感の持つ危うさ、それがいかにクィアセクシュアリティへの攻撃として動員されていくかについて語り、わたくしとしてはここでも再び深く同感。とにかく格好よかったです。基調講演後のオープニング・レセプションで、Josephine Hoをつかまえて、日本では「子供を守ろう」の呼びかけが(何故か)「クィア攻撃」ではなくて「フェミ攻撃」へと動員されていくこと、同時に日本での「性表現」の氾濫の様態には、「表現」の質や特定の性表象への偏りなど、表象レベルではあきらかにフェミニズムの立場から問題視するべきところもあるのだが、これをとりあげることが逆に「抑圧者」「フェミナチ」的な不当な攻撃を招くこと、従って、日本におけるフェミは、逸脱した性を促進すると糾弾される/性を抑圧すると糾弾される、というダブルバインドにあること、などを、しどろもどろに説明して、こういうときってどう動くべきなんでしょうね、と聞いてみたら、「状況がどうあろうと、クィアな逸脱への監視への抵抗の声をあげなくちゃ駄目。それでフェミニズムが攻撃されたら攻撃しかえせばいいし、フェミニズムが割れたら割れているところを見せればいいのです」と、あっさり言われた。そのと〜りでございます(笑)。
その他、初日に印象に残ったこと。

  • 「移民クィア」の問題。カップ*3のどちらの国にも住むことのできないようなクィアカップルが第三国へ移住するケースについての考察があって、これがステート・パワーあるいはステート・バウンダリーへの異議申し立てになりうるという話をしていたけれども、これが可能になる(少なくとも移住先でそれなりに安定した生活を送れる)ためには、現状では、たとえばカップルにそれなりの専門的知識なり技術なりがあって就職ができる、それなりの金銭的背景があって就職しなくても生きていける、ということが必要になってくるということにも、言及されていた。言葉を変えれば、「移民クィア」の存在を考えるとき、たとえば階級の問題や、精神的・身体的な「健常さ」(というより「労働可能性」というべきかしら)の問題は、避けて通れないということになるだろう。これは第三国に移住する場合のみならず、ひっぴぃさんのこちらのブログでの議論でも明らかなように、日本においてパートナーが外国人であるようなクィアカップルにも当てはまる問題で、カップルとしての承認を受けることを優先すべきか(代表的なものが同姓婚だろう)、個人としての承認を優先すべきか、議論が分かれている印象を受ける。学会でこの発表があったセッションでは、カップルとしての承認を云々する以前にそもそも同性愛者が個人として承認を受けられない国がアジアには数多く存在することを忘れるべきではない、という議論がメインだったけれども、この時も、「同性愛者としての(あるいはクィアとしての)」承認と同時に、「国籍を所有しない滞在者」という軸での個人の承認の問題が切り離せないのではないかと思う。
  • それから、Gay Japanパネルでの、日本のマスキュリニティとクィア性の問題についての発表。実はここが発表のメインではなかったようなのだが、わたくしが個人的に共感したのは、日本のマスキュリニティを考えるときに、家族構造が確保される限りにおいて行為におけるクィア性(非ヘテロ性)は二次的であってたいした問題にはならないのではないか、という考察。つまり、ナショナリティ(なんていうのでしょう、国体護持、みたいな?)の再生産がきちんと続けられることが、少なくとも男性にあっては、重視されるのであって、行為として(アイデンティティとして、ではなくて)の「セクシュアリティ」は同性愛だろうが異性愛だろうが問題にはならないということ。これは日本の社会構造がヘテロ規範ではないとかホモフォビックではないとか言うのとはまったく違っていて、そこから日本では「クィア(というより非異性愛的な)行為実践」と「クィアな意識」との間に多分に隔離が生じているのではないかという指摘につながっていく。わたくしはクィアというのは行為だけではなくとりわけ意識の問題であると考えるので、日本におけるクィアというものを語るときに、これは考慮に値する指摘だと思う。

オープニング・レセプションではとりあえず日本人研究者の人々にご挨拶。知ってる方も知らなかった方も。どもどもって感じで。着物を持ってきている方がいらして、驚愕。暑いのに、コスプレにかけるその意気込み、見習わなくてはだわ!と、ドレスを着ることすら一瞬躊躇した自分を深く恥じる。どうもわたくしは中途半端でいけません。次のこういう機会には、せめて赤いルージュやきらきらお粉まぶしをしよう、もちっと背中の開いたドレスを買おう、とか<違う?その後日本系の人間で寄り集まって飲んだのだけれども、帰国してからネットをうろうろしていたら、どうやらこの時一緒だったらしい方が「こういうときにゲイとレズビアンにはっきり別れてしまい、居心地が悪かった」というようなことを書いていらして、ちょっと困惑。いや、着席の仕方はたしかに「オトコ」と「オンナ」にわかれていましたが。レズビアンて。そういう誤解されたのははじめてです。自分でレズビアンだと思っていたときですら「そうは見えないよ!」といわれていたのになあ。アイデンティティを「読み取る」困難をなんとなく実感すると同時に、その手の「誤解」とミスリーディングなカミング・アウト(行為としてではなくて、状況から読み取らせるものとしてのカミング・アウトですが)に、撹乱の可能性を見出せないかなとちょっと考えたり。

*1:お金については、APQ側もかなり苦労をしたらしいのだけれども、出資元の一つであるフォード財団については、APQの人はあたかも自分たちがお金をとってきたような口ぶりだったけれども、実はAPQが交渉したのではなくて、今回の学会終了後に抱き合わせの形でミーティングを開いたCity University of New YorkのCentre for Lesbian and Gay StudiesのInternational Reserach Networkというところがあるのだが、そこにフォード財団が出資していたお金がかなりまわってきていたという話も聞いた。ここら辺のところ、APQとIRNとかかわっている人たちの話が微妙に食い違うので、どちらが本当のことを言っているのかはわからない。後でまた別項目で書く予定だけれども、このあたりのオーガナイザーの入り混じりぶりと、双方の思惑のずれや対立も、今回の学会で問題がややこしくなった原因だと思う。

*2:というか多分学会全体を通して印象に残ったかも

*3:同国籍の場合、異国籍の場合どちらも含めて