ホモナショナリズム批判について、あるいは、ジュディス・バトラーによるベルリン・パレードからのプライズ受賞拒否関連メモ


ご無沙汰しております。

そこここで既に情報が出ていることですけれども、2010年6月19日、ベルリンのChristopher Street Day(ベルリンのプライド)からおくられることになっていたCivil Courage Prize(勇気ある民間人に贈られる賞、という事のようです)を、ジュディス・バトラーが拒否する、という出来事がありました。受賞拒否スピーチがYouTube に上がっていて、これがまたきれいにまとまってそれなりに気持ちのあがるスピーチな上に、そもそも良い感じの落ち着いた声をしているバトラーがドイツ語で演説すると「ブッチすぎて萌え」 等という感慨も誘発したりしなかったりするわけですが、そんな事は勿論どうでも良くて。

勿論、バトラーというクィアスタディーズ業界での知名度とか業績とか影響力でいったら世界でもトップ数人に入るだろうというオオモノがこんな事をやったのね!というのは、それはそれでそれなりのニュースにはなるのでしょうけれども、今回の出来事がクィアスタディーズ業界的には注目に値するのかなと思えるのは、むしろ、この受賞拒否が「著名人がこんなラディカルな!びっくり!」というような突発的なものではないからです。今回の出来事は、むしろ、各国でのLGBTの市民的権利の拡大につれて国家の政治とクィア(あるいはLGBT)ポリティクスとの共犯関係が加速度的に進行し、それに対抗するアクティビズム(およびそれに呼応したアカデミックな考察)もまた蓄積されていく、その緊張が極めて目につきやすい形をとってあらわれた、一つの象徴的な事例なのだろうと思います(と書いておいて、象徴というのは厳密には違うのかもしれない、と思ったりするのですけれども、徴候的というのも違うような)。

というわけで、自分のためのメモという意味合いが強いのですけれども、とりあえず現時点でこの出来事を巡ってチェックしておきたい情報や、ちらちら思ったことなどを、例によってまとまりなく書いておこうかと。


受賞拒否スピーチおよびインタビュー


まず、受賞拒否スピーチそれ自体は、YouTubeの動画がこちらにあがっている(これは英語字幕から訳した日本語字幕つき。@aHomoAznMButch ありがとう!)。

このスピーチを文字起こしした原稿が、こちらに掲載されている ので、全文を引用する(YouTubeの字幕とは英語訳の時点で少し違うところがあるので、日本語も多少の違いはあると思う)(このエントリを書いている間にこちらにも日本語訳がアップされていました。確認していないのですがそれほど違わない筈。と、思いたいです。私の方で誤訳があれば教えて下さいませ)。


Judith Butler - I must distance myself from this complicity with racism


When I consider what it means today, to accept such an award, then I believe, that I would actually lose my courage, if i would simply accept the price under the present political conditions. ... For instance: Some of the organizers explicitly made racist statements or did not dissociate themselves from them. The host organizations refuse to understand antiracist politics as an essential part of their work. Having said this, I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism.


今日私がこのような賞をお受けするという事がどういう意味を持つのかと考えますと、現在の政治的状況のもとでただ単にこの賞をお受けするとしたら、私は実は勇気を失う事になるのではないか、と考えます...


例えば、主催者の中にははっきりと人種主義的な発言をする人達がいましたし、またそのような意見とかかわりを断とうとしない人達がいました。主催者団体は、反人種主義の政治が自分達の活動において欠かせないものだという理解を拒否しています。ですから、私は、人種主義とのこのような共犯関係から、距離をおかなくてはなりません。ここでの人種主義には、反イスラム的人種主義も含まれています。


We all have noticed that gay, bisexual, lesbian, trans and queer people can be instrumentalized by those who want to wage wars, i.e. cultural wars against migrants by means of forced islamophobia and military wars against Iraq and Afghanistan. In these times and by these means, we are recruited for nationalism and militarism. Currently, many European governments claim that our gay, lesbian, queer rights must be protected and we are made to believe that the new hatred of immigrants is necessary to protect us. Therefore we must say no to such a deal. To be able to say no under these circumstances is what I call courage. But who says no? And who experiences this racism? Who are the queers who really fight against such politics?


私たちの誰もが気がついてきた事ですが、ゲイ、バイセクシュアル、レズビアン、そしてトランスやクィアの人々が、戦争をしたがっている人たち、無理にこじつけたイスラム嫌悪を用いた移民に対する文化戦争や、イラクアフガニスタンに対する軍事戦争を遂行したがる人たちによって、利用されてしまう事がありえるのです。今の時代、こういう手段で、私たちはナショナリズムや軍事主義へと動員されています。現在、ヨーロッパの多くの政府は、ゲイ、レズビアンクィアの権利は守られるべきものだ、と主張しており、私たちは、移民に向けられるこの新しい憎悪は、私たち自身を守るためには必要なものなのだ、と信じ込まされています。だからこそ私たちはそんな取り引きには「ノー」と言わなくてはなりません。こういう状況にあって「ノー」と言えること、それを私は勇気と呼びます。でも、誰が「ノー」と言っているのでしょう?そして、誰がこの人種主義を経験しているのでしょう?こういう人種主義の政治と本当に闘っているクィアは、誰なのでしょう?


If I were to accept an award for courage, I would have to pass this award on to those that really demonstrate courage. If I were able to, I would pass it on the following groups that are courageous, here and now:


もし私が勇気に対しての賞を受け取るとすれば、本当に勇気を示している人たちに、その賞を譲り渡さなくてはならないでしょう。もしそれが出来るのであれば、私は今、ここで、以下の勇敢な人々に、この賞を譲り渡したいと思います。


1) GLADT: Gays and Lesbians from Turkey. This is a queer migrant self-organization. This group works very successfully within the fields of multiple discrimination, homophobia, transphobia, sexism, and racism.


GLADT:Gays and Lesbians from Turkey(トルコ出身のゲイとレズビアン) 。クィア移民の団体です。この団体は複合差別の領域、ホモフォビア、トランスフォビア、性差別、そして人種差別の領域で活動し、成功をおさめています。


2) LesMigraS: Lesbian Migrants and Black Lesbians, is an anti-violence and anti-discrimination division of Lesbenberatung Berlin. It has worked with success for ten years. They work in the fields of multiple discrimination, self-empowerment, and antiracist labor.


LesMigraS: Lesbian Migrants and Black Lesbians (レズビアン移民とブラック・レズビアン) 。この団体は、Lesbenberatung Berlinの反暴力、反差別部門で、10年にわたって活動を続けて成功しています。複合差別、セルフ・エンパワメント、そして反人種主義的労働にたずさわっています。


3) SUSPECT: A small group of queers that established an anti-violence movement. They assert that it is not possible to fight against homophobia without also fighting against racism.


SUSPECT:反暴力運動をつくりだしたクィアの小さい団体で、人種主義に反対して闘うことなくホモフォビアに反対して闘うことは不可能だ、と主張しています。


4) ReachOut is a councelling center for victims of rightwing extremist, racist, anti-Semitic , homophobic, and transphobic violence in Berlin. It is critical of structural and governmental violence.


ReachOutは、ベルリンにおける暴力の被害者、極右的、人種主義的、反ユダヤ主義的、同性愛嫌悪的、そしてトランス嫌悪的な暴力の被害者のためのカウンセリング・センターであり、構造的な暴力や政府による暴力を批判しています。


Yes, and these are all groups that work in the Transgeniale CSD, that shape it, that fight against homophobia, transphobia, sexism, racism, and militarism, and that - as opposed to the commercial CSD - did not change the date of their event because of the Soccer World Cup.


そう、そしてこれらの団体は、Transgeniale CSD [注:ベルリンのオルタナティブ・パレード]を形成しそこで活動している団体です。Transgeniale CSDは、同性愛嫌悪、トランス嫌悪、性差別、人種主義、そして軍事主義とたたかっているパレードであり、商業的なCSDがサッカーのワールドカップのためにイベントの日程をずらしたのに対して、日程の変更をしなかったパレードなのです。


I would like to congratulate these groups for their courage, and I am sorry that, under these circumstances, I am unable to accept this award.


私はこれらの団体の勇気をたたえたいと思います。そして、残念ながら、このような状況においては、この賞をお受けすることはできないと、申し上げなくてはなりません。

で、この受賞拒否に際してバトラーが blu.fmのインタビューを受けている。その音声がこちら。 

トランスクリプトつくる気力もなく、探すことも出来なかったのだけれども、簡単に要約してしまうと、バトラーがここで言っているのは次のとおり。

  • バトラー自身は、クィア・ムーブメントを、ホモフォビアや人種主義を含むより広範な社会的不正義への抵抗運動に連なるものであると理解しているということ。バトラーにとっては〈クィア〉というのは常に連携や協調(coalition, alliance)、社会的平等に基づくより広い意味での自由に拘るものであり、アイデンティティや、あるいは第一義的には、個人的な自由にかかわるものですらない、という事。
  • しかしベルリンのCSDの運営にかかわる主にゲイ男性の中に、移民、とりわけイスラム教徒の移民に対して、きわめて強硬な人種主義的な発言をしている人たちがおり、彼らはクィア・ポリティクスを反人種主義の運動と結びつくべきものと考えていないこと。
  • バトラー自身はその事を知らなかったのだが、ベルリンに来てから幾つかのグループとの話し合いを経て、「勇気」をたたえる賞をおくるのであれば、海を越えてアメリカから人を探さなくても、まさに足下に勇気ある活動を続けてきた人々がいると考えるにいたったこと。
  • 自分は人種主義や軍事主義を含む国家による暴力とホモフォビアを結びつけるそのような団体を支持したいと考えており、明確に人種主義的な発言をする団体、あるいはコーディネーターからの人種主義的な発言を否定しないような団体からは、距離をおかなくてはならない、と考えること。
  • パレードで公道で個人的な自由を謳歌してハッピーになる事は全く悪いことではないけれども、自分は同時に社会正義も支持するのだ、ということ。

受賞拒否の背景など


冒頭でも少し触れたように、この受賞拒否スピーチは突然降ってわいたような性質のものではなく、いわゆる「欧米先進諸国」において承認されてきたような形でのLGBTの「人権」擁護という概念が、ナショナリズムや人種主義、さらには移民政策から戦争までを含む多様な国家暴力によって利用されてしまう、あるいは互いに積極的な共犯関係を結ぶ、という事態がとりわけこの10年ほどの間で急速に進行し(そこに始まった事態ではないにせよ)、それに対する批判と抵抗の必要性も急激に高まってきたことに伴う、大きく言えば、クィア・アクティビズムや理論における焦点の移動の一つを、背景にしたものだと言える。

アクティビズム関係はわたくしは断片的にしか知らないので他の方のインプットを待つとして(無責任)、基本的にはアクティビズムの後を追って思考を広げていくことの多いアカデミックなクィアスタディーズ関係の言説を見ても、この変化はわりと明確にあらわれていると言うことはできるだろう。Lisa Dugganがホモノーマティビティ(支配的な制度に異議を唱えるのではなく、むしろそれを持続させる事に貢献するような同性愛規範)として指摘したような、既存の国家制度や経済制度などに自らをうまく組み込んで自らの権利の拡大をはかるようなLGBTポリティクスに対する問題意識は、たとえば、クィアな時間という概念を何よりもまず「国家の自己再生産を支える」規範と対峙するものとして提示しようとしたハルバースタム、あるいはジェンダーセクシュアリティの問題からより「大きな」国家的暴力の問題へと「倫理的転回」を見せたと評されることもある(わたくしはこのような理解のされ方それ自体がきわめて問題であるとは思っているのだけれども、それはそれとして)バトラー、あるいはホモノーマティビティの概念をよりはっきりと国家のナショナリズムと人種主義に結びつけてホモナショナリズムとして批判したピュアに、共有されるものだ。

このような批判が必要になった背景には、言うまでもなく、9/11以後の(とりわけアメリカ合衆国や英国など、クィアスタディーズの中心となっている英語圏における)反イスラム主義およびそれを煽動し/利用したナショナリズムの激化がある。なかでも問題になってきたのは、戦争にあたって主流LGBTの運動の中にナショナリスティックかつ人種主義的な情動の高まりに取り込まれていくものがあったこと、国家の側でも、「LGBTを差別/弾圧する存在」という表象を通じて、国家による戦争の相手(それは個々の「テロリスト」であったり、何より、「テロリスト」と結びつけられる国家/宗教/民族だったりするのだが)を「LGBTの敵」と位置づけ、リベラルな感情をナショナリスティックな目的へと動員するとともに、みずからの道徳的優位を確保しようとしてきたことだろう。

このようなナショナリズムと人種主義の激化が最大のターゲットとしてきたのは、イスラム教であり、イスラム国家であり、イスラム教徒(あるいは漠然とおそらくそうであろうと見なされる外見の人々)だったわけで、たとえば米国や英国、イスラエルなどによる、戦争や侵略、占領を含む「中東政策」において、あるいは「イスラム教徒」である移民に対する「同化の強要」において、LGBTの権利というお題目が国家的な暴力を正当化するために利用されることになってしまった。

日本でも例えばイランにおける「同性愛者の処刑」などがニュースとしてLGBT系のオンラインメディアで流れることがある。それはそれとして勿論批判されるべき事だとわたくしは考えるけれども、例えばそのようなニュースに連動して、英語圏のメディアでは「地元出身の政治家に働きかけてイランへの制裁を」というような呼びかけがなされる事がある。わたくしが昨年出席した学会でも、中東からのアクティビストが、このような呼びかけが繰り返しなされる事を取り上げ、「何も考えずにこういう呼びかけにこたえるな。それはあなた達の国の政府の横暴を承認し、イスラム圏のLGBTの生を一層脅かすだけだ。」という批判をしていて、これはある意味「制裁」系の議論に対して(LGBTの文脈に限らず)常に向けられる批判ではあるけれども、でもやはり耳を傾けるべき重要な抗議である事に変わりはない。

このような人種主義とLGBT権利擁護との共犯関係に対する批判は、イスラエルによる「自由船団」への攻撃がプライド・シーズンの直前に起きた事とも相まって、今年になって一層可視化されつつあるように思える。たとえば、テルアビブの代表団の参加を拒否したマドリッド・プライドの決定は、そのわかりやすい例だろう。

ちょっと話がずれるけれども、上のリンク先は英国のPinkNewsの記事だが、これを米国ベースのAdvocateの記事と比べると、そのトーンの違いはちょっと興味深いものがある。PinkNewsの記事では、「自由船団」への攻撃に対してテルアビブの市長からの謝罪がないという事実がマドリッドの決定の根拠であると明確に記述されている(参加を拒否されたテルアビブ代表団は、イスラエル外務省の後援でテルアビブのゲイ・ツーリズム振興を担うべく派遣される予定だったもの)に対して、Advocateの方では、「ローカルの親パレスチナ派がすごく怒ってるので安全を保障できない」と、微妙に「怒ってる親パレスチナ派の暴力とそれをとめられないマドリッド・プライド」に焦点をあてるトーンへの移行が見られる。ちなみにこのAdvocateの記事を、さらに、オンラインのイスラエルの新聞の記事と併置すると、あら何か似ているわねと思うのは、わたくしだけではないはず(断言)。ちなみにAdvocateは「自由船団」への攻撃でイスラエルへの批判がわき上がっているさなかに、「ジハードの戦士、ゲイを切り刻んでやりたいと思っていた」という無意味にセンセーショナルなタイトルの記事をあげたりしていて(しかも記事の内容自体はテロ計画の容疑者に関する取材記事の一部で、ニュースとしての価値もなんだか微妙だし)、これって何か政治的意図があるわよねそうに違いないわよねと思わせるものがあったりなかったり(パラノイア)。

いずれにせよ、PinkNewsでテルアビブの代表団のコメントとして引用されているのが、こちら。

"Don't they know that Islamist fundamentalists don't just want to finish off Israel, but that they also believe homosexuals should 'cure themselves' or die?"

"It is shameful that they should join with pro-Palestinian and fundamentalist groups which are not exactly tolerant with homosexuality," he said.

Mr Schwartz also said the city had invited Madrid Pride organisers to join a march this week in Tel Aviv, which he said was the "only place in the Middle East where you can be gay in public".


要するに、「イスラム原理主義者はイスラエルを潰そうとしてるし、同性愛者は同性愛を治すか、さもなければ死ね、と思っている。そういう同性愛嫌悪的な親パレスチナ派や原理主義者と手を組むなんてひどい。テルアビブは中東で唯一おおっぴらにゲイでいられる場所なのに」というわけで、上で書いたようなLGBTの人権を人種主義や国家暴力の言い訳に動員する典型的な発言の例として、教科書に取り上げたいくらい(言うまでもないけれども、イスラム原理主義者=親パレスチナというところで既にロジックにものすごい跳躍があるし、中東でおおっぴらにゲイでいられるのがテルアビブだけ、というのも、「おおっぴらに」の定義にもよるのだろうけれども、事実としてかなり反論されている主張)。

同じくイスラエルに関連するものでは、カナダのトロントのプライドでも、プライドにおいてイスラエルの政策を「アパルトヘイト」と呼ぶことを禁止するしないを巡って、かなり大きくもめたらしい。こちらについては、トロントのハッテン車窓からこちらの記事から始まる幾つかのエントリで、日本語でも読めますので、是非(このブログには、「イスラエルは本当にゲイの人権を尊重しているのか」という、イスラエルLGBT事情についてのエントリもありますので、あわせて是非)。

で、ようやくベルリンの話だけれども(相変わらず前置きばかり長いです、すみません)、ベルリンでは今年のプライドでバトラーの受賞拒否にいたるまでに、何があったのか。わたくしはこれについては全く知らなかったのだけれども、上でもちょっと触れた Jasbir Puarのブログエントリ、バトラーのスピーチでも名前のあがった団体であるSUSPECTのプレスリリース(このエントリの最後に引用および簡単な和訳をつけてあります)、そして私が読んだ幾つかのMLへの投稿などによれば、過去数年(とりわけ2008年以降)のドイツにおけるLGBTの政治において、ホモフォビアやトランスフォビアを新しくドイツに入ってきた(主にイスラム教徒の)移民と結びつけ、そういう「ちゃんとしたドイツ人」の価値観(LGBTの人権に敏感であるような価値観)を共有できない移民は追い出してしまえ、と言わんばかりの(というかそうはっきりと表明するような)言説が、急激に力を増してきている、という事らしい。

ホモフォビアを「イスラム教徒」「移民」あるいは「トルコ人」(ドイツではこの3者がしばしばいっしょくたにして考えられるとのこと)と結びつけて人種化する作業は、実は、ドイツの主流のゲイやレズビアンの団体や、プライドのオーガナイザーでもあり左翼系新聞にもかかわる人々自身によって、積極的にすすめられてきた、という批判がある。主流のゲイやレズビアン団体は、たとえば「ドイツの」若者と比べて「トルコの」あるいは「ロシアの」若者はよりホモフォビックだという「科学的な研究」の結果を広く公表したり(その研究そのものに資金を提供もしたり)、移民(あるいは元移民)の団体に「あんた達のところのホモフォビックな若者をどうにかしろ」と要求したり、移民のホモフォビアとたたかう事で彼らを「統合するintegrate」というプロジェクトで政府の資金を受けたりしてきたのであり、つまりそのような主流団体こそが、ドイツにおけるホモフォビック/トランスフォビックな暴力は「前近代的」な文化背景を持ち「自らの暴力的な衝動を抑制できない」ような「移民の若者」の問題であり、このような「移民」は、ゲイやレズビアンの「市民」の人権を守るドイツ国家において明白に「場違いな」存在である、という言説をおしすすめてきた、というのだ。

バトラーが受賞拒否スピーチにおいてあげた幾つかの団体をはじめとする非白人のクィア/トランスの団体は、ドイツにおけるこのようなLGBTコミュニティー内部での人種主義に対して粘り強い批判を続けてきたのだが、これを主流のゲイ・レズビアン団体がまともに取り上げることは殆どなかった、らしい。このような状況のもとでベルリンのプライドがバトラーに賞をおくるというニュースが流れると、人種主義に反対するアクティビストや研究者達はバトラーへの緊急の働きかけを起こし、プライドからの賞を受け取らないようにと要請した。つまり、バトラーの受賞拒否は、過去数年にわたって彼女(や他のクィアスタディーズの研究者達)が取り組んできた仕事の当然の結果であると同時に、LGBTコミュニティー内の/LGBTを利用した人種主義や国家的暴力に対抗する各地での長年にわたる運動の一環でもあるのだ(というより、そもそもの始めからそういう運動が研究や理論の背後にあると言うべきだけれども)。


受賞拒否に対する反応


今回の受賞拒否に関して、クィアスタディーズ系のMLでは「またしても白い人が来て非白人の運動のおいしいとこだけ持って行くってどうよ」的な批判も出ていて、それはそれとして一理ないわけではないというのか、こうやって超著名人が出てきた途端に注目を集めてしまうという構造の問題は、当然、ある。ただ、それはバトラー個人に対する「おいしいとこどり」批判という形ではなく、例えば「バトラーもこういう事言ってるしね、うん」という形で既に権威づけられた位置からの主張のみが取り上げられ、その過程において、それらの主張を可能にする前提をつくってきたはずの(この場合であればドイツにおける非白人や移民のクィアによる)運動や主張や、その具体的な文脈が消し去られがちであるという、そのような構造への批判という形をとるべきだろう。その構造と、主流のゲイ・レズビアンの運動における人種主義が十分に批判されずに来た構造とは、重なるものだからだ。

この点については、既に上でリンクをはったピュアのブログエントリが、適確に指摘している。バトラーが反人種主義や反移民差別の政治的目的のために彼女の「セレブとしてのステータス」を利用したこと(あるいはドイツのアクティビストが彼女のそのようなステータスを利用したこと)自体は評価しつつ、ピュアは同時に、バトラーがスピーチにおいて言及した反人種主義の団体の活動こそに、わたくし達の注意を向けようとする。今回の受賞拒否を「バトラー」に還元した表象をくり返すことは、バトラー個人の(あるいはバトラーを説得した団体の)意図とは無関係に、またしても表象/代表するものとしての(権威ある/白人の/アカデミックの)構造的な特権的位置を再確認し、ここまで黙殺されてきた運動の言説を再び黙殺する結果に繋がりかねないからだ(実際、バトラーの受賞拒否はドイツの主要メディアでも報道されたものの、彼女のスピーチにおいてプライドの人種主義への批判があった事、より受賞にふさわしい団体として移民や非白人のクィアの団体が挙げられたことなどは、これらの報道から見事に消し去られたらしい。これについては、下に引用したSUSPECTによる声明文を参照して欲しい)。ピュアは、バトラーの受賞拒否の重要性を、受賞拒否それ自体ではなく、むしろ、それに先んじる/それに引き続く、さまざまな運動体相互のつながりに与えた影響と、上で述べたような引用と表象の構造に対する批判の高まりとに、見ようとするのである。

もちろん、バトラーの受賞拒否がありスピーチがあった時点ではじめてこんなエントリをたてているわたくし自身も、その批判を免れるものではない。

ただ、それにもかかわらず久しぶりの長文エントリをあげたのは(しかも他に報告すべきことがあるはず!な状態で)、まさしくこれが「バトラー」であり、しかも、何となく批判の矛先が日本とは無関係っぽい「欧州における人種主義の批判」に向けられているかのように受け取られかねないのではないかと恐れたからだ。簡単に言えばこういう事なのだけれども。

でも日本ではこのバトラーの演説を、「これだから欧米のゲイはいけないんだ」という風に普通にホモフォビックなナショナリズムとして受容されることもありそう。

http://twitter.com/uberkazu/status/16816371297


バトラーのスピーチは、人種主義やナショナリズムや国家暴力に反対する「クィアの」運動や言説と切り離して語られるべきではない(しつこいのは承知の上で、だから、バトラーの「倫理的転回」をあたかも「フェミニズムクィアスタディーズという領域を超えた」ものであるかのように語る人たちにも、彼女の議論の背後にあるクィア・ポリティクスへの興味もコミットメントもなしにバトラーの議論を使う人たちにも、けっこううんざり)。そして同時に、日本におけるLGBT運動やそれにかかわる議論に潜む「人種主義」や「民族主義」や「国家暴力」の承認の可能性と切り離して語られるべきでも、ない。日本での人種主義や民族主義や国家暴力は、たとえばアメリカ合衆国やドイツのそれとは、一見異なった形で現れるかもしれない(たとえば攻撃の最大のターゲットは「イスラム教徒」でも「トルコ人」でもない、という意味において)。けれどもそれは、日本において人種主義や民族主義や国家暴力がない、という事ではないし、一連の議論(ベルリンの反人種主義の団体によるものも、バトラーや、あるいはピュアによるものも含めて)において批判されているような、LGBTの人権擁護運動と国家主義や排外主義との共謀の危険性を、日本のLGBTクィア系のアクティビズムや研究が、免れているわけでもない。

「あの有名人の」バトラーがこんな事をしたんだってという話をする時に、あるいは何らかの議論においてそのスピーチに言及する時には、そのスピーチが、あるいはそれを可能にした多様な活動や言論が、要するに何を批判していたのか、その批判はわたくし達自身の文脈においてどのように適用されるのか、それを忘れないでおきたい、と、わたくしは思う。


SUSPECTによるプレス・リリース


最後になるけれども、受賞拒否の後でSUSPECTから出されたプレス・リリースの全文を引用しておく。

Press Release by SUSPECT on the events of the 19th June, 2010
2010年6月19日の出来事に関するSUSPECTによるプレス・リリース


As Berlin Queer and Trans Activists of Colour and Allies we welcome Judith Butler’s decision to turn down the Zivilcourage Prize awarded by Berlin Pride. We are delighted that a renowned theorist has used her celebrity status to honour queer of colour critiques against racism, war, borders, police violence and apartheid. We especially value her bravery in openly critiquing and scandalising the organisers’ closeness to homonationalist organisations - a concept which was coined by Jasbir Puar's book Terrorist Assemblages. Her courageous speech is a testimony to her openness for new ideas, and her readiness to engage with our long activist and academic work, which all too often happens under conditions of isolation, precariousness, appropriation and instrumentalisation.


ベルリンの有色人種のクィアとトランスのアクティビストおよびその支持者として、私たちは、ベルリン・プライドからのZivilcourage賞を辞退するというジュディス・バトラーの決定を、歓迎します。著名な理論家がその著名人としての地位を利用して、人種主義、戦争、国境、警察の暴力、そしてアパルトヘイトに対する有色人種のクィアからの批判に敬意を表したことを、嬉しく思います。とりわけ、プライドのオーガナイザー達がホモナショナリスト(これはジャスビル・ピュアが著書 Terrorist Assemblages において作り出した用語ですが)の団体と親密であることをおおやけの場で批判した彼女の勇気を、私たちは高く評価します。彼女の勇気あるスピーチは、彼女が新しい考えに開かれていること、アクティビストや研究者が長い間続けてきた活動に彼女が喜んで参加しようとしていることを、証するものです。そして、このような活動は、非常にしばしば、孤立や不安定さ、専横や制度化のもとで、なされているのです。


Sadly this is happening once again, for the people of colour organisations who according to Butler should have deserved the award more than her are not mentioned once in the press reports to date. Butler offered the prize to GLADT (www.gladt.de), LesMigraS (www.lesmigras.de), SUSPECT and ReachOut (www.reachoutberlin.de), yet the one political space mentioned in the reports is the Transgenial Christopher Street Day, a white-dominated alternative Pride event. Instead of racism, the press focuses on a simple critique of commercialisation. This even though Butler herself was quite clear: ‘I must distance myself from complicity with racism, including anti-Muslim racism.’ She notes that not just homosexuals, but also ‘bi, trans and queer people can be used by those who want to wage war.’The CSD, via Renate Künast of the Green Party (who appeared to have difficulties pronouncing the award winner’s name and grasping basic aspects of her writings) introduced Butler as a determined critic. Five minutes later, the same critical determination caused the faces of presenters to drop. Rather than engage with the speech in any way, Jan Salloch und Ole Lehmann could think of nothing better than blanketly refuse any charge of racism and attack the ca. 50 queers of colour and allies who had come out in Butler’s support: ‘You can scream all you like. You are not the majority. That’s enough.’ The finale was an imperialist fantasy matched by the backdrop of the Brandenburger Tor: ‘Pride will just continue in its programme... No matter what... Worldwide and here in Berlin... This is how it’s always been and will always be.’


残念ながら、またしてもそれと同じことがくり返されています。バトラーが彼女自身よりも受賞に値するはずだと述べた有色人種の団体は、今日にいたるまで、報道の記事においてはただの一度も言及されていません。バトラーはこの賞をGLADT、LesMigraS、SUSPECT、そしてReachOutにさし出そうとしましたが、報道において唯一言及された政治的なスペースは、主に白人からなるオルタナティブなプライドであるTransgenial Chrisopher Street Dayだけなのです。人種主義ではなく、商業主義の批判のみに焦点を絞った報道が、なされています。バトラー自身が人種主義の批判に関してはきわめて明確であったにもかかわらず、です:「私は、反イスラム主義を含む人種主義とのこのような共犯関係から、距離をおかなくてはなりません」。彼女によれば、同性愛者だけではなく「バイセクシュアル、トランス、クィア達も、戦争を従っている人々によって利用されうる」のです。プライドでは、緑の党のレナーテ・キューナスト(彼女は受賞者の名前を発音するのも、バトラーの書いたものの基本的な考え方を理解するのも、一苦労だったようですが)が、バトラーを決然たる批評家として紹介しました。ところがそのわずか5分後、まさにその批評的な決意のせいで、賞を贈ろうとしていた人たちは不満の表情を浮かべることになったのです。Jan Salloch と Ole Lehmann は、バトラーのスピーチに立ち入ることを一切しないまま、人種主義の批判を全面的に否定し、バトラーを支持して駆けつけた50人ほどの有色人種のクィアとその支持者達を攻撃することしかできませんでした:「幾らでも叫べばいいさ。君たちは多数派じゃないんだ。もう十分だ」。フィナーレはブランデンブルグ門を背景にした帝国主義的な幻想そのものでした:「プライドはこのまま続いて行きます…何が起きようと…世界中で、そしてこのベルリンで…これまでもいつもこうだったし、これからもこうして続くのです」


In the past years, racism has indeed been the red thread of international Pride events, from Toronto to Berlin, as well as of the wider gay landscape (see queer of colour theorists’ Jasbir Puar’s and Amit Rai’s early critique of this in their 2002 article ‘Monster Terrorist Fag’). In 2008, the Berlin Pride motto was ‘Hass du was dagegen?’, which might translate as ‘You go’ a problem or wha’?’ (with 'Hass' a wordplay on 'hate'). Homophobia and Transphobia are redefined as the problems of youth of colour who apparently don’t speak proper German, whose Germanness is always questioned, and who simply don’t belong. 2008 is also the year that the hate crimes discourse enters more significantly into German sexual politics. Its rapid assimilation was aided by the fact that the hatefully criminal homophobe was already known: migrants, who are already criminalised, and are incarcerated and even deported with ever growing ease. This moral panic is made respectable by dubious media practices and so-called scientific studies: Where every case of violence that can be connected to a gay, bi or trans person (no matter if the apparent perpetrator is white or of Colour, and no matter if the basis is homophobia, transphobia or a traffic altercation) is circulated as the latest proof of what we all know already - that queers, especially white men it seems, are worst off of all, and that ‘the homophobic migrants’ are the main cause for this. This increasingly accepted truth is by no small measure the fruit of the work of homonationalist organizations like the Lesbian and Gay Federation Germany and the gay helpline Maneo, whose close collaboration with Pride ultimately caused Butler to reject the award. This work largely consists in media campaigns that repeatedly represent migrants as ‘archaic’, ‘patriarchal’, ‘homophobic’, violent, and unassimilable. Nevertheless, one of these organizations now ironically receives public funding in order to ‘protect’ people of colour from racism. The ‘Rainbow Protection Circle against Racism and Homophobia’ in the gaybourhood Schöneberg was spontaneously greeted by the district mayor with an increase in police patrols. As anti-racists, we sadly know what more police (LGBT or not) mean in an area where many people of colour also live – especially at times of ‘war on terror’ and ‘security, order and cleanliness.’


過去数年、トロントからベルリンにいたるまでの国際的なプライドにおいて、そしてより広範なゲイ・シーンにおいて、人種主義は中心的な課題となってきました(この問題を早くに批判したものとして、有色人種のクィア理論家であるジャスビル・ピュアとアミット・ライによる2002年の論文 "Monster Terrorist Fag"を参照して下さい)。2008年のベルリン・プライドのモットーは"Hass du was dagegen?"というものでした。「あんた問題かなんかあんのか?」(Hassは「Hate(憎悪)」とかけた言葉遊びになっています)とでも訳せば良いでしょうか。ホモフォビアとトランスフォビアは、有色人種の若者、どうやらまともなドイツ語を話すこともできない、ドイツ的であるかどうか疑わしい、端的にドイツに属さないような若者の問題として、定義されなおしているのです。2008年はまた、ドイツにおける性の政治に、ヘイト・クライムの言説がはっきりと入ってきた年でもあります。ヘイト・クライムの言説が急激に取り入れられるにあたっては、憎悪に満ちた犯罪的な同性愛嫌悪者の正体がわかっているという事実が、その助けになりました。つまりそのような同性愛嫌悪者の正体は移民達、そもそも犯罪的な存在とされ、投獄され、そして以前にもましてあっさりと国外追放されるようにさえなっている移民達なのです。怪しげなメディアの仕業、そして科学的研究と言われるものの仕業によって、このモラル・パニックは世間体をとりつくろってきました。そこでは、ゲイ、バイ、あるいはトランスの人につながるあらゆる暴力事件が(犯人らしき人物が白人であろうと有色人種の人であろうと、その暴力がホモフォビアによるものであろうと、トランスフォビアによるものであろうと、あるいは路上での口論に起因するものであろうと)、私たちが既に知っていることをあらためて証明する最新の証拠として流通するのです。つまり、クィア、とりわけどうやら白人男性のクィアは、誰よりも大変な状態にいるのであって、それは主に「ホモフォビックな移民達」によって引き起こされているのだ、ということの証拠として。このような考え方は次第に真実として受け入れられるようになっているのですが、それはかなりのところ、ドイツレズビアン・ゲイ連盟やゲイのヘルプラインであるManeoのような、ホモナショナリストの団体の活動の結果であり、バトラーが受賞を拒否したのは、プライドがこれらの団体と緊密な協力関係にあるためです。これらのホモナショナリストの活動の大部分をなしているのは、移民達を「旧態依然として」「家父長制的で」「ホモフォビックで」、暴力的であり同化不可能な存在として繰り返し表象するメディアキャンペーンですが、それにもかかわらず、これらの団体の一つは、皮肉にも、有色人種の人々を人種主義から「守る」ための公的な資金を受け取っています。ゲイエリアであるシューネベルグでは、「人種主義とホモフォビアに反対するレインボー・プロテクション・サークル」を歓迎して、地区首長(district mayor)がすすんで警察のパトロールを増加しました。けれど、反人種主義の活動家である私たちは、残念ながら、多くの有色人種の人々も住んでいる地区における警官の増加が(LGBTであろうとなかろうと)どういう意味を持つのかを知っています。とりわけ「テロリズムへの闘い」や「安全、秩序、そして清潔」が唱えられる時代においては。


It is this tendency of white gay politics, to replace a politics of solidarity, coalitions and radical transformation with one of criminalization, militarization and border enforcement, which Butler scandalizes, also in response to the critiques and writings of queers of colour. Unlike most white queers, she has stuck out her own neck for this. For us, this was a very courageous decision indeed.


白人のゲイのポリティクスの示すこのような傾向、すなわち、団結と連合とラディカルな革新の政治のかわりに犯罪化と軍事化、そして国境の強化の政治を持ち出すような傾向こそ、バトラーが批判したものであり、そしてその批判は、有色人種のクィア達による批判や著述に応えてなされたものなのです。殆どの白人のクィアとは違って、彼女は自分の身をさらしてこの批判をおこないました。私たちにとっては、これは実際きわめて勇敢な決断なのです。




SUSPECT

20 June, 2010.


2010年6月20日、SUSPECT


SUSPECT is a new group of queer and trans migrants, Black people, people of colour and allies. Our aim is to monitor the effects of hate crimes debates and to build communities which are free from violence in all its interpersonal and institutional forms.


SUSPECTは、移民、黒人、そして有色人種のクィアとトランスおよびその支持者達による新しい団体です。私たちの目的は、ヘイト・クライムの議論の効果を監視し、個人間のそして制度的なあらゆる暴力から自由なコミュニティーをつくることです。

その他関連リンク(今後増える、かも)


とろとろとエントリを立てている間に、SUSPECTから新たに文書が出ていたようです。RSSリーダーちゃんとチェックしていなくて見落としていました。すみません。今後何かさらに出てくるかどうかわかりませんが(他のグループや他国の団体からの支持やレスポンスについては、恐らくリンク先から行ってみた方が早いと思います)、何かあればリンクを付け足していくかもしれません。

While Israel may blatantly disregard global outrage about its wartime activities, it nonetheless has deep stakes in projecting its image as a liberal society of tolerance, in particular homosexual tolerance. These two tendencies should not be seen as contradictory, rather constitutive of the very mechanisms by which a liberal democracy sanctions its own totalitarian regimes.

Perhaps the problem is not that CSD should become "more political" but rather which politics the CSD should pursue. If the mainstream gay movement continues to ally itself with European cultural norms of purity or if it does not openly affirm the equal rights of minorities, then it will remain in conflict with various activists who either emerge from minority communities or who are committed to anti-racism as part of their politics.

AVIVA-Berlin: What does Christopher Street Day mean to you personally?


Judith Butler: You know, Christopher Street is the place in New York where the famous Stonewall resistance happened a few decades ago. It is, for me, the name of a place where resistance to police violence and harassment takes place. I think it is important to enter the streets, to lay claim to public space, to overcome fear, to assert pride, and to exercise the right to take pleasure in ways that harm no one. All of these are key ideals. I like the pageantry and the joy. But if we ask about how to oppose violence during these times, we have to consider the way that new immigrant communities are subject to right-wing street violence, how they are subject to racial profiling and harassment by police, and we have to object to harassment and violence against all minorities. Indeed, the opposition to illegitimate state violence and various forms of cultural pathologization are crucial to the queer movement more generally. So if we fight for the rights of gay people to walk the street freely, we have to realize first that some significant number of those people are also in jeopardy because of anti-immigrant violence - this is what we call "double jeopardy" in English. Secondly, we have to consider that if we object to the illegitimate and subjugating use of violence against one community, we cannot condone it in relation to another! In this way, the queer movement has to be committed to social equality, and to pursuing freedom under conditions of social equality. This is very different from the new libertarianism that cares only for personal liberty, is dedicated to defending individualism, and often allies with police and state power, including new forms of nationalism, European purity, and militarism.

「『当事者の語り』に仮託されるもの--Living Libraryを語る」


以下、情報を頂いたのでこちらに転載いたします(公開のイベントのようなので)。

第3回バリアフリーシンポジウム:「『当事者の語り』に仮託されるもの--Living Libraryを語る」


シンポジスト:

平井麻紀(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)
藤武夫(東京大学先端科学技術研究センター特任助教
飯野由里子(東京大学先端科学技術研究センター特任助教


コメンテイター:

福島智東京大学先端科学技術研究センター教授)
大河内直之(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員)


司会:

星加良司(東京大学教育学研究科講師)


概要

当事者の「生の声」を聞くことにどのような意義があるのか、じっくり考えてみたことはありますか? 私たちの周りには、学校教育、研修会、各種イベントなどの場を通じて、様々な状況に置かれている人々の声を直接聞く機会が、思いのほか存在しています。これまで当事者抜きで「問題」が定義され、それに基づいて重要な判断・決定が下されてきた、ということを考えると、こうした機会が増えたことは望ましいことだと考えられています。

しかし、当事者の「生の声」を聞く場においてメッセージを発信しているのは、いわゆる「語り手」だけではありません。そうした場を設定する主催者の側も、ある特定の意図やメッセージを持っているはずです。にもかかわらず、後者の人々の姿は、これまでクローズアップされてきませんでした。おそらく、主催者の側からすると、「当事者なら誰でもいい」というわけではないでしょう。だとすると、主催者側が期待する「語り」、いわゆる「良い語り」というものが暗黙的に存在している、ということになります。では、その「良さ」とはどのようなものなのでしょうか? 何か独自の基準があるのでしょうか? さらに、そうした語りが当事者の「生の声」を通して語られることにどのような意味が与えられているのでしょうか?

今回は、以上のような問題意識を共有し、「当事者の語り」の新しい可能性を追及している取り組みとして、2000年にデンマークで始まり2008年から日本でも実施されるようになった「Living Library(リビングライブラリー)」というイベントに焦点を当て、こうしたテーマについて考えていきます。様々な困難を抱える当事者を「生きている本」として貸し出し対話の機会を設けることで、多様性に開かれた社会の実現に寄与しようとするリビングライブラリーの取り組みに
おいて、「当事者の語り」はどのように捉えられているのでしょうか? このシンポジウムでは、イベント運営に携わっている東京大学先端科学技術研究センターのメンバーをシンポジストに迎え、この取り組みの持つ意義と可能性を探ります。この議論を通じて、「当事者の語り」を用いた従来のプログラムのあり方に一石を投じるとともに、新しい展望を拓きたいと考えています。


参考URL:Living Library Japan: http://living-library.jp/


日時:2010年3月10日(水)14:00〜17:30
場所:東京大学先端科学技術研究センター4号館2階講堂
http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/maps/index.html
主催:東京大学先端科学技術研究センターバリアフリー分野/メリトクラシー研究会
参加費等:無料
情報保障:手話通訳・パソコン要約筆記


お問い合わせ先
バリアフリー分野  飯野 由里子
電子メール:iinoあっとbfp.rcast.u-tokyo.ac.jp(あっとを@に変えて下さい)
電話:03-5452-5491
ファクス:03-5452-5062


☆その他何か個別にご要望等がありましたらご相談下さい。ただし、こちらでは対応できないこともございますので、その点は予めご了承下さい。

【賛同署名募集】WAN労働争議への支援および理事会への要望


今更ではございますし、各所に既に出回っていることではありますが、こちらにも転載をいたします。
是非よろしく御賛同のほどお願いいたします。

NPO法人WAN労働争議を支援するより転載


「女性のための情報を提供し、活動をつなぐ」ウェブサイトの運営および「女性たちの活動を支える諸事業の展開」を目的として、昨年6月に発足したNPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)において、昨年末より労働争議が発生しています。


WAN で雇用されていた遠藤礼子さんに対し、雇用者であるWAN理事会から一方的な業務内容変更の決定および労働条件の不利益変更の提案があったとして、本年初頭、遠藤さんがユニオンWAN(遠藤さんおよびもうお一人の被雇用者であるAさんを構成員とする)として抗議の意を表明されました。その後、上記労働条件変更についてユニオンWANと理事会が団交の場を設けて協議に入ったにもかかわらず、その最中である1月31日、理事会側から、「現事務所の2月末での閉鎖」の通告、およびユニオンWAN構成員お二人の2月末での退職勧奨が、メールおよびファックスで一方的に送られてきたそうです。


(以上、この争議の経緯についてはブログ「非営利団体における雇用を考える会(仮)−WAN争議を一争議で終わらせない」によります。詳細はブログをご参照ください)


WAN は「女性たちの活動を支える」ことを銘打ったNPO法人です。そのような法人が、被雇用者に対し、一方的に労働条件の不利益変更を通達するのみならず、その変更をめぐる話しあいの最中に退職勧奨までをも行うとすれば、それは、「女性たちの活動を支える」ことを目指すNPO自らが女性労働者の使い捨てを行うも同然です。「女性たちの活動」「女性のための活動」において、女性の貧困とその背後にある不安定な雇用形態とは、理念上も、そして実質上も、常に重要な問題であったはずです。今回の理事会の措置は、その活動の歴史と精神とに、ひいてはWAN自身の掲げる活動目標とに、矛盾するものではないでしょうか。


また、特定非営利活動促進法において規定されるように、NPO法人であるWANについての情報は市民に公開されるべきものです。実際、WAN会員に限定されず、フェミニズム・女性運動や労働運動にかかわる多くの人々が、今回の労働争議をめぐるWANの法人としての対応に注目しています。ところが、現在まで、理事会側からはこの争議に関して、WANウェブサイト上でもメールニュース上でも、何の説明も声明も出されてはいません。そもそも被雇用者の業務が自宅からのテレワークが可能なものであり、したがって事務所の閉鎖が業務の停止に直結するわけではない以上、「事務所の閉鎖」を理由とした退職勧奨には正当性がなく、労使間の信頼関係を著しく損なうものでしかないように見受けられます。それに加えて、理事会側からの公式声明が一切ないまま労働争議における労使間の協議中に退職勧奨を行うという一連の対応は、第三者である市民の目にも、まず退職ありきで事務所の閉鎖は後付けの理由であるようにうつりますし、そのことがNPO法人としての WANの今後の活動に及ぼす影響を、私たちは懸念しています。


そこで私たちは、WAN理事会の今回の措置に対する抗議の意とユニオンWANへの支援を表明し、以下をWAN理事会に要望します。

・2月末でのユニオンWAN組合員お二人への退職勧奨を取り消していただくこと

・ユニオンWANとの労働条件に関する団交に真摯に応じてくださること

・WANウェブサイト上で今回の争議について雇用者側から説明してくださること


私たちは、今回の労働争議を、WANという一団体に限定された問題としてではなく、女性運動や非営利団体における雇用・労働という、これまでずっと存在していたにも関わらず軽視されがちであった問題が顕在化したものとしてとらえるべきだ、と考えています。フェミニズムを含め、市民運動は何らかの目的や理念のために力をあわせて行動を起こすものですが、だからといって運動組織の内部に権力関係が一切存在しないわけではありませんし、ましてや労働の対価として労働者に(給与ではなく、あるいは減じた給与に足すかたちで)『達成感』や『運動の高揚感』、あるいは『目的/理念のため』という大義を与えれば充分である、とは言えません。雇用者と被雇用者のあいだの権力関係が隠蔽されることで、声をあげられずに燃え尽きて活躍の場を去って行った活動家はたくさんいます。WANの活動に期待を寄せるからこそ、そして、WANのかかげる目的である「女性たちの活動をつなぎ、支える」ことを将来にわたって真に可能にするためにも、私たち自身が問題の所在を曖昧にせずに真摯な議論を重ねていくことが重要であると考えます。


ユニオンWANへの支援と、WAN理事会への要望について、皆様からの賛同の署名を呼びかけます。この賛同署名は、ユニオンWAN、WAN理事会宛に届けるとともに、ウェブ公開もする予定です(署名非公開希望の方に関しては、お名前は含まず、署名数にカウントだけする形でユニオンWANおよびWAN理事会に届け、ウェブサイトにも数だけを掲載いたします)。


ウェブ賛同署名はこちらからどうぞ。


または、以下にご記入のうえ、uwan.support@gmail.comあてにご送信ください。2月10日(水)を第1次、2月20日(土)を第2次締め切りとします(その後に届いた署名については随時届けます)。



NPO法人WANの労働争議への支援および理事会への要望」に賛同します。


・氏名(実名でも通名でも可)
・所属、肩書き、居住地など(なくても可)
・E-mail (なくても可)
・賛同メッセージ
・公表の可否


非公開希望の方に関しては、お名前は含まず、署名数にカウントだけする形でユニオンWANおよびWAN理事会に届け、当ブログにも数だけを掲載いたします。


お名前は非公開希望、でもメッセージ公開可という場合は、その旨明記ください。


メール送信先:uwan.support@gmail.com


賛同署名の集計経過は当ブログにて随時報告します。



呼びかけ人(50音順)
小山エミ、斉藤正美、清水晶子、田中かず子、マサキチトセ、ミヤマアキラ、山口智

「東アジアにおけるクィア・スタディーズの可能性」



ちょっと先ですけれども、とはいっても今月中ですが、東アジアの若手の研究者をお招きして、下記シンポジウムを開催いたします。エライひとのお話を拝聴する/生エライひとを見物にいくのも、それはそれで乙なものではございますけれども、今回はむしろ先々にわたってクィアスタディーズ系の分野で御一緒するはずの、そして、もしかすると、大海原を超えたり大陸を超えたりする先の方々とは少し違う、けれどもわたくし達とはどこか共通するところもある、そんな問題を抱えている〈かもしれない〉、そういうご近所の優秀な方にいらしていただいて、お話を聞いたりガチでぐだぐだ議論したりしましょう、という感じです。と、わたくしとしては、認識しております<完全に個人的な認識であり、主催者側公式見解ではございません。


多分、ですけれど、Chu Wei-Cheng氏は、90年代からの台湾におけるクィアスタディーズの展開を、台湾での運動や社会全体の変革にからめて批判的に紹介しようかな〜、と言っていましたので、そんな感じになるかと思います。Denise Tang氏の方は、こちらもおそらく、香港のクィア女性ムーブメントを中心に、香港でのクィア映画祭あるいはオンラインのg.tvとからめてお話下さる、予定、だと伺っております。g.tvはDeniseさんが昨年のカルチュラル・タイフーンの発表でも触れていらっしゃいましたけれども、とても面白そうですよね。わたくし中国語が全くわからないのでとても残念なのですけれども。


香港も台湾も、クィアスタディーズもアクティビズムもかなりさかんで、英米(あるいは豪)の中華系やそれ以外の研究者やアクティビストとたちともある程度密接な連携をたもちつつ、けれども同時に、やはり問題設定や政治感覚などでずれるところもあったりするようで、そのあたり、日本でクィアスタディーズやアクティビズムにかかわる人間とは、相互に学ぶところも議論できる点も多々あるように感じております。というか、少なくとも、今後日本国内をベースにしてクィアスタディーズをやっていこうとする学生や研究者にとっては、このあたりの東アジア研究圏というのは絶対に無視できないものになっていくはずだと、わたくし個人的に勝手に確信をしております。根拠は特にございません。



どうぞ皆様ふるって御参加下さいませ。


公開シンポジウム 「東アジアにおけるクィアスタディーズの可能性」


企画趣旨:

社会における性や身体の在り方や規範を問う学問の総体としてのクィアスタディーズは90年代初頭から成立し始め、現在に至まで発展を遂げて来た。欧米社会の文脈から構築された理論や思想がクィアスタディーズの基盤を成していたと言える一方で、現在クィアスタディーズは世界の様々な国でも実践されている。日本においても90年代から積極的にクィアスタディーズの文献が日本語に翻訳され、さらには日本の文化現象へ応用されて来た。欧米から発信された理論であっても、異文化の文脈の中で読み直されることを通してクィアスタディーズ自体がよりグローバルな学問へと変容して来たのである。したがって日本におけるクィアスタディーズの可能性を模索することは同時に、クィアスタディーズとグローバリゼーションの関連性を考えることでもあると言えるだろう。


しかし現在に至るまでクィアスタディーズとグローバリゼーションの関係を日本の文脈において考える際に、「日本/欧米」という二項軸に私たちは頼りすぎて来たのではないだろうか。クィアスタディーズの成り立ちやその歴史を鑑みれば、そういった二項軸に注目が寄せられることはある意味において当然かもしれない。しかし同時に近隣の東アジア諸国においてクィアスタディーズの実践がどのように行なわれてきたのかを参考にすることもまた、日本におけるクィアスタディーズの可能性について考えていく上で重要なことではないだろうか。


本シンポジウムでは、日本近隣の東アジア地域におけるクィアスタディーズについて研究を進めて来たシンポジストとの公開討論を通して、クィアスタディーズの可能性を考える際に日本と近隣のアジア諸国との間にどのような共通点又は差異があるのかについて考え、それぞれの国でクィアスタディーズをさらに進展させるためのヒントを探ることを目的とする。




日時:  2月22日(月曜日)15時−19時
場所: 東大駒場キャンパス18号館4Fコラボレーションルーム
     http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_17_j.html
題目: 「東アジアにおけるクィアスタディーズの可能性」
使用言語: 英語(通訳あり)/日本語


シンポジスト・プロフィール:

朱偉誠 (Wei Cheng Chu)(国立台湾大学国語学系 准教授)。レズビアン・ゲイ スタディーズ、クィア理論、ポストコロニアル理論、英文学を専門とし台湾におけるクィア文化に関する論文など他多数執筆。

蠟芝珊(Denise Tse Shang Tang)(世新大学性別研究所 准教授)。クィア理論やメディア研究を専門とし、香港におけるレズビアン空間などについての論文など他多数執筆。



主催: 日本学術振興会科学研究費「日本におけるクィアスタディーズの可能性」 
連絡先:中京大学国際教養学部 風間孝(tkazamaあっとlets.chukyo-u.ac.jp) <「あっと」の部分を@に変えて下さい
(参加を希望される方は、上記メールアドレスにご連絡いただけるをありがたいです)




ちなみに、朱偉誠の寄稿論文も乗っている台湾クィア文学評論集がこちら。

WAN争議アップデート、あるいは、わたくしフェミニスト(自称主流)ですけれども?


今日の団交
退職勧奨のメール本文

昨日のWAN団交の報告およびWAN理事会からの退職勧奨メールが〈非営利団体における雇用を考える会(仮)〉のブログにあがっている。


くりかえし弁解をしておくと、わたくし労働問題にはお恥ずかしいことにまったく明るくないし、法律上、なにがどのように認められてどうなのか、あるいは労働契約がどのような形でどのようにむすばれるべきであり、それがどのような場合までどの程度に拘束力をもつのか、などの根本的なところをちっともわかっていない。さらに、今回の場合、ユニオンWAN側がウェブ公開という形で情報をだしてしまっているにもかかわらず(「しまっている」というのは、それが悪いという事を含意するものではなく、すでにそういう状態になっている、ということです。為念)、それにたいして理事会側はすくなくともWANサイト上では完全に沈黙をまもっており、したがって、理事会側の反論なり主張なりは間接的におしはかるしかない、という状況なので、一連の理事会側の対応に関して、わたくしのまったく知らない、あるいは想像がおよんでいない、なんらかの正当な主張なり判断根拠なりがあるという可能性は、もちろん、ある。


その上であえて、退職勧奨メールについて。


やはりこのタイミングで退職勧奨という「緊急の決定」をくだすというのは、法的な正当性はどうであれ、「労働争議がおきたので嫌になっちゃいました〜。もう人を雇うのはやめちゃえ。てへ」という印象をまぬがれず、争議解決にむけての労使間の信頼、さらにいえばWANというフェミニズム団体の政治的なあり方への信頼をそこないかねないという意味で、非常にまずいのではないかと思う。

さらに、これはわたくしがへたれ机上で財政観念がほぼ欠落していて経営なんてやってみたこともないからそういう甘っちょろいことを考えるのかもしれないけれども、「経営できると思いました>人を雇いました>あれ、経営難だわ>悪いけど、やめて下さいね>でも労働者としてではなく力は貸してね、一緒にやっていきましょうね>あ、もちろんこちらも責任とって責任者はやめますよ」というのは、それっていろいろなレベルで無理があるだろう、と。

そもそも、人を雇っておいて、あっさりと、経営難なので悪いけどやめてね、というのが法律的に通用するとしても(現行法でこれが通用するのかどうかわたくしにはよくわからない)、フェミニズム系で(あるいはWAN的な「女性」運動系で)それをあっさりと通用させてしまうのは、運動の首をしめることにならないだろうか。むしろWANが〈つなごう〉としている運動やフェミニズム社会学/法学/労働論などの観点からすれば、それが法的に通用してしまうとすればその法に異議をとなえることこそが、重要ではなかったのだろうか。

また、労働者としてはクビだけど「今後も引き続き力は貸してね」というのも、もちろんたんなる社交辞令なのかもしれないし、友好的姿勢をアピールしようとしてのものかもしれないけれども、そうだとしても、今回の場合に限ってはこれはむしろ逆効果ではないか。そもそもそういう「力だけは貸してね、でもお金は払えないけどね」という感覚にもとづいて安易に〈雇用関係〉をむすんだことが、そして雇用される側にとってはそれではこまるのだという基本的な事実を軽視したことが、今回の労働争議の発端のひとつであるようにわたくしには思えていて、そうだとすれば、この社交辞令なり友好アピールは、その役をはたすどころか、ユニオンWAN側がなにを問題にしているのか、雇用者側が事ここにいたっても理解していない(あるいは黙殺しつづけている)ことの証になってしまう。

さらにいえば、これは労働問題にまったく無知なわたくしでもさすがに気になるところだけれども、「責任とって理事長と副理事長は辞任するから許してね」というのは、退職勧奨された被雇用者側ではそこに生活がかかっているのにたいして、辞任する雇用者側はそもそも給与を受けとっていない以上(いないんですよね?いたらそれはそれでびっくりなのですけれども)、企業のトップが経営不振の責任をとって辞任する(=給与をもらわなくなる)よりもさらに意味のないジェスチャーではないだろうか。

というより、もしも責任者が名目上のお飾りではなく、本当に責任者として仕事をしてきたのであれば、本業にくわえて(無給で)やらなくてはならない仕事量はそれなりに増えていたはずで、これだけ大々的にはじめた組織である以上、それはそれでかなり大変だったのではないかと思う。だからこそ、率直にいって、「辞任」というのは「仕事は減る、給与は変わらない」ことにしかならず、それをもって「責任をとった」ということはできないのではないか。もちろん、本業との兼ねあいを含めた業務上の事情や、気力・体力の限界を含めた個人的な事情というのは、責任者側にもあるだろうし、いかなる事情にもかかわらず倒れるまでWANにコミットすべき、というような姿勢はわたくしはとても嫌いだけれども(へたれなので)、そのような事情での辞任であればそれはそれとして、今回の退職勧奨とバーターにするような書き方はすべきではないだろう。


以下、団交報告について、客観的ではない感想をいくつか(もちろん上に書いたものも客観的ではありませんけれどもね!へたれ個人ブログですから!)。


遠藤さんが〈追記〉で書いていらっしゃることでもあるけれども、「主流フェミニズム業界」という表記については、わたくしも好きではないし基本的には使いたくないと思っている(これについては以前「ジェンダー・フリー」をめぐる議論においても何度か言及したことがある。たとえばここ)。っていうかそもそも、わたくし、(心意気は)主流(のつもり)ですから!わたくしこそがフェミ!(いえ真っ赤な嘘です申し訳ありません)

ただ、それとは別に、遠藤さんのブログエントリでのコメントは、文脈から見ればあきらかにわたくしのブログエントリへの感想であり、そしてわたくしのブログエントリは、「フェミニズム全体への批判(あるいは誹謗中傷ですか?)」ではなく、「WAN/ジェンコロ共催イベントの批判」をめざしたものだった、と思っている。たしかに、いただいたコメント(ブクマコメを含む)のいくつかには「フェミニストだめじゃん」というものがあり、それについてはもっと明確に書くべきだったかと猛省しているけれども、それでも、きちんと読んでいただければ、少なくともあのエントリが「フェミニストとしての」批判だったという事はわかっていただけるのではないか、と思う、けれど、も・・・。

とにかく(強引)、そういう文脈でのコメントをつかまえて「フェミニズムの思想や運動を誹謗中傷するもの」と批判するのは、揚げ足とりか、ためにする批判か、それこそ「中傷」のように思われる。もちろん、WAN理事会側が「WANこそがフェミニズムであり、WANおよびその周辺での決定やイベントに対するおおやけの批判はすべてフェミニズムの思想・運動に対する誹謗中傷に他ならない」と思っていらっしゃるのであれば、話は別だけれども。まさかそれは。


あとは、個人的怨恨。みたいな。


団交の場で、WANの理事の方から、わたくしのブログでのWANイベント批判エントリにたいし、「客観的ではない」とのご批判をいただいたということだけれども、勿論わたくしのエントリが客観的であった試しなど一度もなく、その意味でそのご批判はまったくもって正しい。ただ、その上で、そのような主観的なエントリに「悪のり」したとして遠藤さんへも批判がむけられたということで、これはつまり、WAN理事会側が、わたくしがあのエントリで(主観的かつ不明瞭なかたちで)おこなった批判をお読みになったうえで、その批判は「客観的ではない」ので耳を傾ける必要はない(あるいは黙殺すべきである)との判断を公式に表明なさった、ということだと理解してもよいのだろうか。

ええと、わたくしの傷ついたエゴはまあこの際いったん横においておくとして、さらに「客観的って、なに(とりわけフェミニズムにおいて)?」というクルーシャルな問題もとりあえずおいておくとして、それでも、あのエントリで書いた問題点はわたくしだけが感じていたものでもなく、書き方が悪かったとしてもそれで問題が消滅するわけでもない。わたくしのブログエントリの書き方が悪かったということを理由に、問題それ自体を黙殺なさるとしたら、それは非常に残念なことだ。もっと「客観的」に同様の問題を指摘しているエントリもいくつもあるので、是非そちらを御参照いただいた上、批判それ自体から目をそむけることだけは、今後のWANのためにも、しないでいただければと願っている。

WANの事務所閉鎖および退職勧奨

WANの労働争議のアップデートです。

2月末で現事務所は閉鎖するということで、ユニオンWAN組合員の退職を勧奨する通知が届いたそうです。詳細はわかりませんが、ちょっとタイミング的に考えてもこれは無理があるのではという気がします。

【速報】WAN理事会,事務所の2月末の閉鎖・移転を決定!?非営利団体における雇用を考える会(仮)― WAN争議を一争議で終わらせない ―

WAN理事会、事務所の2月末閉鎖とWAN組合員の退職勧奨を通告:ふぇみにすとの論考

現在のWANサイトの基本方針(というのがあるのかどうかを含めて)には少し違和感がありますし*1、団体としての運営方針も(わたくしの聞いている中から判断する限りでは)ちょっとどうかなと思いますけれども、それでも、アカデミアとアクティビズムの双方を結びつつ広い層からアクセスの可能なある種のポータルをたちあげようというのは、たとえばわたくしのようなへたれ机上フェミにはとてもできない野心的な試みでもあり、時間をかけて使いやすい形で定着していって欲しいと思ってはおりました。そういう外野的な無責任な「要望」ってそもそもどうよ、とは自分でも思いますけれども、ここは強引に脇においておきます。

けれども、今回のこの措置は、理事会の正式な決定のようですし、WANそれ自体のクレディビリティを大きく傷つけるものではないかと危惧しています。あくまでのへたれ机上の研究者フェミである私から見ると、なんだかこの措置はフェミ以前に雇用者としてかなりまずい気がしますし、ましてや、労働関係のアクティビズムや研究に携わっている人もいるようなフェミニスト団体としてのWANが、今後今回の一連の対応をどのように正当化して乗り越えられるのか、かなり不安です。

いずれにせよ、現在まだ交渉が続行中ですし(本日団交があるようです)、とりあえずは経過を見守っていくしかないのですけれども。

*1:総合サイトを目指しすぎて方向がわからなくなっている気がちょっとします。個人的にはむしろエッセー等を切って完全なポータルサイトを目指すのが良いのではと思います。